2010年1月アーカイブ

(by paco)今週火曜日から、what?セミナー4「ユダヤと米国、民主主義」が4回シリーズで始まります。

今週は、そのイントロダクションとして、ユダヤ人についてのアウトラインをまとめておきます。といっても、4000年とも言われる歴史を持つユダヤ人ですから、説明するといっても容易ではありません。全体を網羅することはもちろん不可能ですから、主要なことをピックアップしてまとめるつもり、であっても、もしかしたらかなり偏りがあるかもしれません。あくまで、いまの僕にできる、最も公平やユダヤの説明というように理解していただき、正確には文献をあたってください。

◆ユダヤ人とは誰のことか?

ユダヤ人にはふたつの側面があります。ひとつは親から子へとつながる「民族」としてのユダヤ人、もうひとつは、ユダヤ教という宗教を信仰する宗教集団としてのユダヤです。

民族としてのユダヤを考えるときには、ユダヤでは女系を採用していて、ユダヤ人の母を持つ人をユダヤ人と定義しています(イスラエルの「帰還法」の中での「ユダヤ人」の定義)。なぜ父親ではなくて、母親なのか。それは、子供は父親より母親により多く影響を受けて育つという考えからです。つまり、血統も重要ではあるけれど、それだけではなく、ユダヤとしての生き方を教えられて育った人をユダヤ人と定義しているわけです。

「ユダヤとしての行き方」は、もちろん宗教としてのユダヤ教の教えが中心になります。代表的なものとしては、土曜日を安息日として厳密に守る、豚肉を食べない、主要な祭礼を行う、など。ユダヤ流の子育てや、平均的に高い教育水準などが含まれるわけですが、ともあれ、母親がユダヤ人というのが、ユダヤの大きな特徴です。

(by paco)今週は何をテーマにしようかなと思いつつ(いつもテーマを決めるのに時間がかかるのですが)、今日はすぐに決まりました。今回は、記念すべき444号です。4、「シ」の音は、日本ではわりと嫌われがちですが、僕にはそういう印象はあんまりありません。特に、44、444のように4が並んだ数字は……「し」が合わさっているので、「しあわせ」です。と、語呂合わせして、今回のテーマは幸せです。

実は、昨日奥沢から六兼屋に向かう中央高速で、Alfa156のオドメータ(総走行距離計)が44444キロになり、みんなでわーい、幸せだ!!と喜んでいて、そしたら今週号は444号なので、これは完全に「幸せ」しかないというタイミングです。

とはいえ、幸せを語るのは難しいですよね。幸せになるより、幸せを語るほうが難しいかもしれません。あまり気負わずに、幸せを感じる場面を考えていきます。

◆モノを持つ幸せ、使う幸せ

まずはわりと「軽い」幸せから。いわゆる物欲です。

僕はけっこう物欲の人で、モノを買うのも好きだし、使ったり、いじったりするのも大好きです。

ほしいモノがふっと頭をよぎり、それってどんな製品で、何ができるんだろう、使ったら楽しいかな、どこで売っているのかな、安いのか、高いのか、といったことをネットで調べたりしているときはけっこう楽しくて、幸せな時間です。お買い物、好きです。

バッカみたい、と思うこともよくあります。

(by paco)今週も「おとなの社会科」の内容についてです。ちょっとしつこいモードですが、僕自身の最大のテーマなので、おつきあいくださいませ。

「おとなの社会科」というネーミングについては、いろんな人に聞いて回っているのですが、わかりやすいという人と、もうちょっと違う感じがいいかも、という人がいて、まあ、どんなものでも賛否はあるものですが、もうちょっと錬りたいところです。

そこで、ひとつ思いついたのが「見通し力」ということば。「見通し力養成講座」というネーミングなら、僕が伝えたいことが伝わるでしょうか。同じコンセプトのネーミングとしては、「視界良好セミナー」というのもあるのですが、こちらはどうでしょうか?

今回は「見通し力」という言い回しで、僕が今伝えていきたいことを再整理してみます。

●誇りの持てる仕事は、社会に役立つ仕事

前回のコミトン442号では、「判断し、選択するためには、「社会科」が必要」という言い方をしました。

(by paco)去年、「人生のwhat?を見つけるセミナー」を始めました。コミトンでは詳しく紹介しているので、もちろん、いまさら内容を説明するまでもありません。

ではこの「what?セミナー」で何を学んでほしいのか。実際にやりながら、また学んでくれた人と議論しながら、考えてきたのですが、元日に「2010年のあいさつ」を書きながら、「企業人のための社会科」という言葉を考えつきました。

これに対して、知恵市場の早くからの読者のひとりからメールで、「共感できます」とエールをもらいました。

「企業人のための社会科」は、原稿を書きながらすっと出てきた言葉でしたが、これを「おとなの社会科」といいかえてみたら、なかなかぴったりなのではないかという気がしてきました。僕の中では、すっかり「おとなの社会科」が馴染んだことばになりつつあります。まだ十分こなれていないので、もっといいことばが当てはまるかもしれませんが、ひとまずこれを使っていこうかと思っています。

さて、「おとなの社会科」について、メールをくれたノブさんは、

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僕らは社会システムの設計や企画者として、入社以来「天下国家」を語りなさいと先輩から言われていましたが、どうすれば天下国家を語れるのかは、個人に任されていました。

歴史とか、社会とかって直接は日々の業務に反映されるものではないかもしれませんが、たとえ、逆境でも全ての力を出し切って生きているという実感を得るためには、社会科ってのは必ず必要な地面みたいなもんだなぁって思うわけです。
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(by paco)年が改まって、2010年、最初のコミトンです。まだ冬休みモードということで、縮小版で行きたいと思います。

このところ、僕の趣味、というか、お楽しみとしては、写真です。8月に古いフィルム一眼レフを買った話を書いたのですが(421古いカメラでモノクロ写真を楽しむ)、その後、この「お楽しみ」は発展していまして、去年後半はずいぶん楽しむことができました。

◆フィルム写真は、抽象画

8月の記事で「画質は問うものじゃない」と書いたとおり、画質自体は最近のデジタル一眼、というより、携帯上位クラスのデジカメであっても、普通に売られているフィルムで撮る限り、もう完全に負けています。ここでいう画質とは、どれだけ精細に、細かく映るか、という話で、いわゆる解像感です。

デジタル一眼を使い始めてから、撮ったときにカメラのモニタで拡大してみるのが習慣になりました。拡大することでピントが合っているか、細部まできちんと動いているかを確認して、安心するのです。