(by paco)年が改まって、2010年、最初のコミトンです。まだ冬休みモードということで、縮小版で行きたいと思います。
このところ、僕の趣味、というか、お楽しみとしては、写真です。8月に古いフィルム一眼レフを買った話を書いたのですが(421古いカメラでモノクロ写真を楽しむ)、その後、この「お楽しみ」は発展していまして、去年後半はずいぶん楽しむことができました。
◆フィルム写真は、抽象画
8月の記事で「画質は問うものじゃない」と書いたとおり、画質自体は最近のデジタル一眼、というより、携帯上位クラスのデジカメであっても、普通に売られているフィルムで撮る限り、もう完全に負けています。ここでいう画質とは、どれだけ精細に、細かく映るか、という話で、いわゆる解像感です。
デジタル一眼を使い始めてから、撮ったときにカメラのモニタで拡大してみるのが習慣になりました。拡大することでピントが合っているか、細部まできちんと動いているかを確認して、安心するのです。
細部まで映っていることに価値がある、と必ずしも思っていたわけではありません。デジタルの場合、あとから加工ができるので、十分な解像感があれば、それをグレードダウンすることはあとからで来ます。合っているピントを、ピンボケに見せることはできるのです。しかし、合っていないピントをあとから合わせることはデジタルでもできません。そこで、素材としてのすじのよさを重視して、しっかりピントを確認するわけです。
もうひとつの意味は、ボケ味です。ピントが合っているところと合わずにぼけているところがはっきり違うほど、モチーフが浮かび上がってきれいな写真になります。ボケ味のよさと、ピントの正確さ、ブレのなさは、重要な対比で、できれば1箇所シャープにピントが合い、ほかはぼける、というのが「理想」と思って、撮影してきたし、機材を選んできました。
これが高じると、ピントを合わせたところは、限りなく正確に写っていることを求めたくなってきます。咲き誇る花にピントを合わせれば、おしべの花粉ひとつひとつまで映っているとうれしくなる。そんなものは、肉眼では見えなくて、ルーペが必要なぐらいなので、もしかしたら写る必要はないのです。実際、ハガキサイズぐらいにプリントしたレベルでは、そこまではわかりません。ところがデジタルの場合は画面上でいくらでも拡大できるので、ハガキサイズの写真でいえば1ミリ角ぐらいの細かいところまで拡大して画面で見ることができるので、そういうところにどんどんこだわりが行ってしまうのです。ここまで写るんだ、すごいな、という感じ。
確かにそれはすごいことだし、実際、そういう写真はきれいです。
でも、です。
フィルムを撮り始めた理由のひとつが、そういう細部を喜ぶマインドそのものが、果たして写真の主要な楽しみと言えるのか? という疑問でした。細部にこだわっている自分自身になんとなくおもしろみを感じなくなったというか、行き着いてしまった、ということかもしれません。
友だちに、キヤノンのフルサイズデジタル一眼で撮った写真を見せてもらったせいもあります。写真にはかわいいモデルの女の子とが写っているのですが、普通の距離でバストアップを撮っているのに、拡大してみるとほんとうに毛穴まで写ってしまうのです。よく化粧品のカウンターにある「肌密度を調べました写真」のような感じに近い。その一方で、先日、Salyuのポスターをもらってきたら、大きなポスターに写っている彼女は産毛まで写っていて、リアルなんだけど、ちょっとあんまり見たくないかも、という感じ。そういえば、最近のグラビアにしてもポートレートにしても、プラスチックでつくられたというか、3DCGみたいな写真が普通になりました。肌の美しさ、というか、難点を隠すために、Photoshopバリバリつかっているよね、という感じ。
ということは、つまり、最新のカメラで写して、細部までカリカリに写っているデータをもとに、見えなくてもいい毛穴なんかをどんどん消す作業、つまり、すごく精細に撮って、あとからわざわざ落とす作業をしているわけで、そういう作業をしているのが今の商業写真の世界です。
では僕のようなアマチュア写真家はどうのように写真を楽しむのがいいのか。
フィルムで撮り始めてから、PCモニター上に映した画像データを、拡大しなくなりました。写真全体として、好きか、いい感じに写っているかは考えますが、細部までよく写っているかは見る必要がなくなった。感覚的には、写真から絵画になった感じです。あるいは、リアリズムの絵から抽象画になったような感じです。
かつて写真が生まれたときに、絵は必要なくなると言った人がいました。対象物を描き残すより、写真が正確に写せるのだから、絵で残す必要がないのだと。写真が生まれた150年、絵は以前と同じように人々に愛されていますが、写真が絵のある部分を代替した結果、絵の描かれ方は昔とは変わりました。写真も、デジタルになった結果として、フィルム写真がある部分の役割を担うようになったのでしょう。
デジタル写真の精細性、クリアさ、あらゆる状況に強い万能性は、確かに大きなアドバンテージで、それ故の美しさや、デジタルでないととれないものがあります。しかし、それだけ写真や絵が担ってきた表現がカバーできるわけではない、と言うことなのだと思います。
写真の中でも最も精細性や解像感が落ちる表現を「トイフォト」と呼んで、おもちゃっぽいチープなカメラで撮った表現が、今の時代に受けています。おもしろいのは、トイフォトを撮るためのツールとして、iPhoneを使う人もまた増えていることで、iPhoneのアプリにはトイフォトなど、「写りの悪い」表現に変換するソフトがたくさんあります。かなり能力が高いiPhoneで撮ったデジタル写真を、わざとぼうっとピントが合っていないトイフォトに変換し、ブログにあげる人が増えている。その一方で、僕のようにわざわざカメラを買って、デジタル的な進歩から別の道を探そうとする人もいます。
高画質を追究してきたデジタル写真の進歩の方向に対して、こういう動きを「アンチデジタルフォト」と名付けてみましょう。こういう写真を好む人の数、それに連動した商品の動き、雑誌の相関などを見ると、ここ2年ほど、アンチデジタルフォトの動きは、静かなトレンドになっています。
◆カメラを手軽に売り買いする
ところで、写真にはカメラという道具が不可欠ですが、アンチデジタルフォト・ブームの中で、オークションが活気を帯びています。中古カメラは以前から専門の中古カメラ店によって確かなマーケットがあったのですが、ヤフーオークションによって、中古カメラ店から遠くに住む人も含めて、多くの人参加できるようになった結果、死蔵されていたカメラがオークションに出されるようになり、市場が活性化してきました。30年前の程度の言いカメラが出てきたり、故障したカメラを安く買って自ら修理し、高く売る人も出てきて、以前より安く、買いやすくなった感があります。一方、中古ショップに出ているものは、品質も一定のレベルが保たれ、短くても保証がつくなど、値段も高め、品物もよい、という状況です。
僕が買っている一眼レフの場合、30年前の機種なので、ちょっと人気のものでも1万円台、ちょっと不人気機種を狙えば5000円前後ですから、多少のリスクをとれば、安く楽しめます。新品が売られていたころは、買えても1台だけだったのに、今は2?3台買って交替に楽しむことができるのもいいところ。しかも一定の品質のものを買っていれば、ほぼどう価格でオークションで売ることもできます。実際、1万5000円で買ったPENTAX MXとME Superをほぼ同価格で売却でき、より希望に近いものに買い換えることで、いまの機種を手に入れました。売買手数料を取られるので、Yahoo!を儲けさせるだけという言い方もできますが、あまりお金をかけずに楽しむよい方法だと思います。
◆個性的なフィルムを楽しむ
写真を楽しむためには、かつてはお金がかかりました。フィルム代、現像代、焼き増し代。デジカメは買ってしまえば撮るのはただだし、人にあげるのさえ、メール添付ですから、焼き増しも不要です。フィルムカメラで撮る場合、フィルム代はどうしても必要ですが、そこからあとは、どこかでデジタル化して、PC上ですませてしまうことができるのは、いいところ。
ということで、撮影済みのフィルムをDPE店で現像してもらうところまではアナログで行い、フィルムをスキャンして、それ以降はPCとプリンタ、ウェブで行うことにしています。
最近はまっているのは、いわゆる「きれいで自然な発色」ではない、ちょっとクセのあるカラーフィルムを使ってとること。今使っているefinitiブランドのUXi100というフィルムは、中国や東南アジアで売られているものらしく、日本に逆輸入されているのですが、そのため、1本200と格安。どうやら富士写真フイルムがつくっているらしいのですが、国内で売られているものよりかなり品質を落としているのでしょう。でも、逆にそれが、個性的な色に感じられます。淡い色、ちょっとクセのある色なのに、被写体によってははっとするぐらいビビッドに写ったりして、デジタルの美しすぎる画像ではあり得ない写りかげんの写真になります。
ほかにも、個性的なフィルムで人気のイタリアのsolarisブランドのフィルムもなかなかグッド。もうしばらく、フィルム写真で楽しめそうです。
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