(by paco)442「おとなの社会科」はビジネスパースンの必須科目

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(by paco)去年、「人生のwhat?を見つけるセミナー」を始めました。コミトンでは詳しく紹介しているので、もちろん、いまさら内容を説明するまでもありません。

ではこの「what?セミナー」で何を学んでほしいのか。実際にやりながら、また学んでくれた人と議論しながら、考えてきたのですが、元日に「2010年のあいさつ」を書きながら、「企業人のための社会科」という言葉を考えつきました。

これに対して、知恵市場の早くからの読者のひとりからメールで、「共感できます」とエールをもらいました。

「企業人のための社会科」は、原稿を書きながらすっと出てきた言葉でしたが、これを「おとなの社会科」といいかえてみたら、なかなかぴったりなのではないかという気がしてきました。僕の中では、すっかり「おとなの社会科」が馴染んだことばになりつつあります。まだ十分こなれていないので、もっといいことばが当てはまるかもしれませんが、ひとまずこれを使っていこうかと思っています。

さて、「おとなの社会科」について、メールをくれたノブさんは、

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僕らは社会システムの設計や企画者として、入社以来「天下国家」を語りなさいと先輩から言われていましたが、どうすれば天下国家を語れるのかは、個人に任されていました。

歴史とか、社会とかって直接は日々の業務に反映されるものではないかもしれませんが、たとえ、逆境でも全ての力を出し切って生きているという実感を得るためには、社会科ってのは必ず必要な地面みたいなもんだなぁって思うわけです。
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と書いてくれました。「天下国家を語りなさい」といってくれる先輩もすごいですが、問題はなぜ企業人が天下国家を語る必要があるのか、という点です。

天下国家とは、国や世界のありよう、特に政治的なありようのことで、どのような社会がいいかについて自分の考えを持て、ということです。一般的には企業は利益という金銭獲得を目的とした集団であり、利益は時として天下国家や社会のありようとは矛盾することもあるし、矛盾しないまでも、利益が得られるなら、別に社会を語れる必要はない、と考えるのが、今の一般的なビジネスパースンの感覚ではないかと思います。

では、なぜ経営者でもないビジネスパースンが天下国家を語るべきなのか。そもそも、ノブさんがいわれたことは特殊なことで、普通は先輩から「天下国家を語れ」とはいわれないし、語る必要もないのでしょうか。

実は、天下国家を語れというノブさんの先輩のメッセージは、今の時代の中で非常に重要な意味を持っていると僕は(ノブさんも)思います。この話の答えを出す前に、若いビジネスパースンに対する、会社や上司の期待と実態について、こんな話をしましょう。

◆判断し、選択するためには、「社会科」が必要

上司はよく部下に対して、「自分の答えを持ってこい」と指示します。「どうしましょうか?」と聞くのではなく、「こうしたい」「こうすべき」という自分の考えを示せ、というわけです。

これに対して、たとえばクリシンや僕のロジカルシンキング研修を受講する人たちに共通する感覚は、「下のものは、現場の実態を把握して、どんなことをすればどうなるか、いくつか選択肢を用意するのが仕事で、そこから決断するのが上司の仕事、もっといえば、経営者の仕事」というものです。

「自分の考えを示せ」という上司と、「選択肢は示すから、上司が決めるべき」と考える部下。両者には、はっきりしたギャップがあることに注目してください。

このギャップは、若手社員と課長という関係に留まりません。課長と部長、部長と事業部長、事業部長と取締役、というように、上下関係のあるところに必ず同じ関係が存在しているのです。「答えを持ってこい」という上司と、「答えはあなたが決めんでしょ」という部下。

ではなぜ下は上の期待に応えられないのかといえば、プランの結果もたらされるものの価値を判断できないからです。Aという結果とBという、ふたつが想定されたとき、会社にとって、社会にとって、どちらのほうが好ましいのかを決めるための考えを持てないので、上司に判断を求めてしまう。

※責任を持ちたくないマインドも、判断しない理由のひとつでしょう。しかし、もし責任を持ちたくないことが主な理由なら、「個人的な意見」なら言えるはずです。「個人的な意見」は持っているが、立場上「言わないほうが得だからいわない」のではないかと思うかもしれませんが、実際のところ「個人的な意見」を求めても、意見が出てこないことが多いので、「責任を持ちたくないマインド」は、判断できない主要な理由ではないと考えられます。

※課長、部長、事業部長とのぼるにつれて、じょじょに判断は出来るようになりますが、社長までいっても判断のレベルが低く、不十分なのが日本の現状でしょう。実は、これはビジネス界だけでなく、政治家にも言えます。政局を語れる政治家は多いのですが、天下国家を語れる政治家は実は非常に少ない。どのような国であるべきかを上位概念から語れない。だから、日本の政治プラン(政策)はパワーがないのです。

ということで、天下国家を語る大きな目的は、判断力を付けることにあります。「おまえの考えはどうなんだ?」と聞かれて、「自分はこう考えます、理由は……」と話せるビジネスパースンが育つこと、上司が部下に対してその答えを期待できる企業にするためには、「おとなの社会科」をしっかり学び、身につけることが重要なのです。

◆「クリシン」は、時に答えを教えない

もちろん、「おとなの社会科」だけで判断力が身につくわけではありません。基礎的な力として、論理思考力、クリティカルシンキングは不可欠です。しかし、論理思考ができれば、判断できるのかというと、それだけでは不足です。

研修の受講者Bさんが以下のような受講の動機を書いてくれました。

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研究所でITの研究開発をしています。研究テーマを設定する際は解くべき課題が本質である必要がありますが、現在の私は直感に頼っているところがあります。論理思考を身につけることで、本質的な課題を抽出できるようになりたいと考えています。そして、その課題を解決することで、世の中で役立つ製品ができればと思います。
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Bさんの仕事は、「世の中で役立つ製品」とは何かを判断し、それを会社に提示して了解してもらい、「製品」を生み出すことにあります。この場合、ある製品案が「世の中に役に立つか」をどう判断するかが重要です。

「この製品を出すといくら儲かるか」ではなく、「役に立つか」がイシューになっていることに注目してください。「儲かるかどうか、いくら儲かるか」は説明しようと思えば、説明可能でしょう。いずれにせよ捕らぬ狸ですから、いくつかの仮説は立てられるものの、儲け予想は、可能性のある額の幅で表すしかありません。

一方、役に立つかどうかは難しい。というより、「役に立つ」ことを説明することはある程度できるのですが、「ほかの製品を開発するより、この製品のほうが役に立つ」と説明することが難しいのです。さらに、実際にはA案、B案、C案、D案……と無数に考えられる「役に立つ候補」の中から、どれが役に立つか、どの役に立つものを選ぶべきかを説明するのは難しい。この判断には、社会的な価値や意味、時代状況などの知識とロジックが不可欠だからです。

これを判断するためには、判断する手法=クリシンを学ぶだけでは不十分で、社会的な問題や課題に対する知識、それについてのロジックや現実のメカニズムを知る必要がある。この「社会についての知識とロジックのセット」がないと、判断が難しいのです。

その結果、儲かりそうな金額が多いか少ないか、しか判断軸がなくなり、「儲かればいいのか」「儲かるかどうかの仮説はいろいろ立つので、結局ひとつに絞れない」となってしまいます。

実はこのジレンマは、政治の世界も同じです。行政刷新会議で僕が所属していた第三ワーキンググループでは、科学技術振興、文化振興、スポーツ振興などの予算が議論されました。そのいずれも、「国がやる必要はある、やるべき」という点を否定する仕分け人はほとんどいませんでした。しかし、それを認めてしまえば、すべての予算は青天井になり、際限なく増えていくことになります。これを防ぐには、国として何に力を入れるのかを判断し、力のいれ具合や方法について、一定のポリシーを決める必要がある。まさに政治的な判断です。しかし個々の「振興政策」はあっても、全体としてどこにどのように力を入れるかの基本的な判断軸がない。そうなると、結局は「全体的に3割削減」というようなメリハリのない、ポリシーが感じられない判断になってしまうのです。科学、文化、スポーツどれも大切だから、減らすなら同じように一律に減らすというのでは、ねらいが定まらずにどれもうまくいかない可能性がある。こういう矛盾をどういう判断基準で克服するのかは、社会の形や歴史的な経緯を踏まえないと、判断できないのは、企業だけでなく、国の政治も同じ問題構造をかかえてしまっているのが今の日本なのです。

論理思考は判断を適切にするためにはとても重要です。しかし論理思考の回路にinputするために十分な(社会的)知識量と、それにまつわる基本的なロジックのセットを持たなければ、適切な判断は出来ないのです。


◆「おとなの社会科」は「知識=情報量」と「ロジックのセット」

では、「知識」と「ロジックのセット」とはどのようなものでしょうか。

知識とは、ある程度客観的な情報ですが、必ず自も絶対的な厳密性や正しいデータである必要はありません。数字でいえば概数であり、情報面ではトレンド、傾向であって、確実なことばかりをさすわけではありません。たとえば、「いま日本では自殺者が多い」というのは傾向としての理解ですが、何と比べてなのか、過去の日本との比較か、他の国との比較か、といったことを合わせて傾向をつかんでおくことが、ここでいう「情報量」です。「2009年の自殺者の数」なら客観的な数字が公表されているでしょうが、正確な数字である必要はなく、不正確であっても傾向を示す情報を押さえておくことが重要です。

ロジックのセットとは何でしょうか。自殺をめぐるロジックにはいくつかあります。「自殺は個人的なものであり、すでに死んでしまっている人に理由を聞くことはできないから、自殺の理由を調べることに意味はないし、よって、予防もできない」とする立場(=ロジック)あります。一方、「自殺した人の困窮の状況を客観的に調べることで、原因が推定できる」とする立場もあります。この立場は、「死んだ人の聞けたとしても、そこの答えが本当の自殺の理由とはかぎらない」という立場でもあります。ほかにも自殺についてのロジックはいろいろありますが、社会的なものごとを捉えるときにはとらえ方のパターンがあり、そのロジックを知識とセットで押さえておかないと、自殺についても語ることができないのです。

同じように、「貧困」や「国際紛争」「環境問題」など、さまざまな社会的な事象は、事実についての知識と、それに関わるロジックのセットによって構成されていて、それを学ぶことこそ「おとなの社会科」なのです。学校時代の社会科は、典型的な暗記科目でしたが、「おとなの社会科」は、知識の部分とロジックの両方を関連づけて学ぶし、知識そのものはネットなどの情報を活用すればいいので、決して「暗記科目」ではないのです。

この「知識とロジックのセット」を使うと、社会がどこに動こうとしているのか、なぜそれが重要とされるのかが理解でき、そこから「世の中が求めているもの」が説明可能になって「役に立つ」かどうかが判断できるのです。

たとえば環境問題についてこのような「知識とロジック」で押さえておけば、なぜ社会が環境問題への対応を求めているのかが説明でき、今の自分の企画がどのようにその「社会の求め」に応えるものなのかが説明できるようになります。いくつかあるプランの中で、なぜ自分のプランが「社会の役に立つ」のかが説明できるようになるのです。

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ということで、おとなの社会科が、企業人のどのようなニーズに応えるのかについて、考えてきました。僕がやろうとしていることがだいぶ見えてきた感じがありますが、まだまだ未整理なことが多いので、引き続き考えていきたいと思います。

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