(by paco)444「幸せ」とは何か?

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(by paco)今週は何をテーマにしようかなと思いつつ(いつもテーマを決めるのに時間がかかるのですが)、今日はすぐに決まりました。今回は、記念すべき444号です。4、「シ」の音は、日本ではわりと嫌われがちですが、僕にはそういう印象はあんまりありません。特に、44、444のように4が並んだ数字は……「し」が合わさっているので、「しあわせ」です。と、語呂合わせして、今回のテーマは幸せです。

実は、昨日奥沢から六兼屋に向かう中央高速で、Alfa156のオドメータ(総走行距離計)が44444キロになり、みんなでわーい、幸せだ!!と喜んでいて、そしたら今週号は444号なので、これは完全に「幸せ」しかないというタイミングです。

とはいえ、幸せを語るのは難しいですよね。幸せになるより、幸せを語るほうが難しいかもしれません。あまり気負わずに、幸せを感じる場面を考えていきます。

◆モノを持つ幸せ、使う幸せ

まずはわりと「軽い」幸せから。いわゆる物欲です。

僕はけっこう物欲の人で、モノを買うのも好きだし、使ったり、いじったりするのも大好きです。

ほしいモノがふっと頭をよぎり、それってどんな製品で、何ができるんだろう、使ったら楽しいかな、どこで売っているのかな、安いのか、高いのか、といったことをネットで調べたりしているときはけっこう楽しくて、幸せな時間です。お買い物、好きです。

バッカみたい、と思うこともよくあります。

買い物が好きということは、まあ、それなりにいろいろなものを持っているので、さらに何かを買うということは、物の差異を買うことになります。Aというカメラは持っている、Bというカメラもいい感じだけど、それってどう違うのかな、Aでは撮れない写真が撮れるのかな、というように。

僕は、物に対しては、基本的には「使ってなんぼ」のポリシーなので、使わない物、コレクションのモノは普通買いません。いわゆる見て楽しむような、ミニカーなどでも、買ったらケースから出してデスクに置きます。ケースから出せば、壊れやすいのはわかっているし、ホコリもかぶってしまい、透明プラスチックのウィンドウは曇ってしまいます。実際、せっかくのAlfa GTは、ドアミラーが折れちゃっているし、細いアンテナも折れちゃいました。でも、手のどくところに置き、ときどき触ったり、持ち上げて上や下から眺め回したりするのが楽しいわけで、ケースの中でいくらきれいでも、触れない、動かせないなら、持っていてもしょうがないという感じです。飽きたら、ケースに入れてとっておく、こともありますが、何年もたってぼろくなっちゃえば、勢いで捨ててしまうこともあります。基本的に、とっておくことには幸せを感じないのです。

人によっては、コレクションというか、持っていることそのものに幸せを感じる人もいるでしょう。というか、そういう人のほうが多いかもしれません。家全体が大きな倉庫のようになっている友人もいます。僕は、家が倉庫になるのはイヤなので、使わないものは、売ったりあげたり捨てしまうことがほとんどです。

最近の物欲は、やはりカメラ。ちょっと前までは、レンズでした。デジタル一眼を買って3年、気になるレンズを買い足して、これと思うものはほぼ買い尽くした、ということもあるのでしょう、去年の夏からはフィルムカメラやトイカメラに興味が移り、これまたいろいろ買いました。

ただ、「使ってなんぼ」の人なので、自分の生活や写真のとり方と照らして、使えないと思えば、基本的には買いません。もちろん、失敗はあります。買ってみたものの、思ったほどは使えなかったとか、使いにくいとか。買ってみなければわからないことも多いものです。そんな場合は、やはりあっさり売ってしまうとか、あきらめるとか、します。無理に手元に置かない。

自分の考えの通りに物をコントロールしている「気分」に、幸せを感じるのでしょう。幸せ、というより、そこにエネルギーを注ぎ、注ぎながらエネルギーが湧いてくる、ということかもしれません。

物欲は、あまりほめられたことではないというイメージがあり、ちょっと後ろめたい気分の時もあったりするわけですが、うちからのエネルギーにつながる実感があり、僕の活力のひとつになっていると思います。

ちなみに、「使ってなんぼ」のポリシーは、家にも共通で、六兼屋をつくったときも、妻のbibiちゃんと「本当に使うのか」「使えるのか」「どのように」という話をたくさんしました。もちろん高い買い物ですから、使わないのはもったいない、と考えるのが自然ですが、実際に、このあたりの別荘を見ていると、あまり来ていない=使っていない家も多いのです。忙しくてなかなか来れないということなのでしょうが、だったら、僕なら別荘は持ちません。旅行でホテル、という選択をするでしょうね。そんなこともあって、六兼屋も文字通り使い倒しています。

クルマも、ていねいに選んで買いますが、必ずしも高いクルマがいいとは思っていません。今はそこそこの値段のクルマを持っていますが、それ以前は輸入車であっても、国産車とあまり変らない値段のクルマを買ってきました。というか、中古車が多かったので、値段はずっと安く、修理にお金がかかる、というような買い物、というのが実態でした。

クルマも、使うのかどうかはずっと考えてきたし、使うのなら、クルマに乗る時間やクルマと関わる時間が、ちょっと特別な感じがする物を選んでいます。クルマは移動の道具なんだから、ちゃんと乗れて、壊れずには知って、安い方がいい、という人が最近は多いのですが、僕は、クルマに乗っている時間が単なる移動だとは思っていなくて、乗っている、運転していること自体が楽しめることを大事にしてきました。特に六兼屋ができてからは、毎週のようにい高速で2時間移動するので、その2時間が「雑な2時間」になるのはイヤだった。Alfa Romeoというクルマは、クルマに近づいて行くときからちょっとワクワクさせてくれる存在感があります。ドアを開けて、シートに座れば、それだけで気持ちが変わり、クルマに乗らずに歩いて出かけるのとは、明らかに気分が変わる。同じようにクルマを買うなら、そういうちょっと所有し、使っている間に、一般的なクルマでは味わえない気持ちにさせてくれるモノを買いたいと思うし、これまで乗ってきたルノーメガーヌ、シトロエン(BX/CX/2CV)なども、質は違う物の、ちょっと特別な気持ちにさせてくれるモノたちでした。クルマに乗るたびに、ちょっと特別な気持ちになる、それも僕にとっては大事な幸せです。

◆人から信頼され、認められる幸せ

人とのかかわりから幸せを感じる、というのは、誰にも共通の幸せの形でしょう。

家族と過ごす幸せを感じるのはごく自然なことですが、僕は家族と必ずしもいつも幸せを感じられたわけではありません。結婚する前、実家にいたときは、親とうまくいかずに重しがいつも乗っていると感じていた時間も結構ありました。「母親に対して感謝や愛情を感じるのは人として当然」というようなことをあたりまえのように書く人が多いので、びっくりするのですが、僕はそんなに無邪気に親や姉妹への愛情やともに過ごす幸せを語ることはできません。

結婚してからは、もちろん、好きで愛して結婚した相手ですから、基本的には幸せを感じてきました。でも、いつもそうだったと書いてしまえば、大嘘になります。言われたくないことを言われて(言ってしまい)長い時間口をきかなかったこともあるし、仕事をして家に帰り、つまらないことで言い争って、朝がクルマでケンカが終わらなかった朝も、たくさんありました。子供だって、かわいいばかりではありません。子供のいない友人を見て、身軽でいいなあ、あんな風に夜遊びしたり、手軽に旅行に行ったりしたいなあと思ったこともある。

それでも、全体としてみれば、幸せをたくさんもらえてきたのは間違いないし、何より、妻と娘がいるから基本的に温かい気持ちを持ち続けることができて、もしいない人生だったら、ずっとすさんだ、かさかさした人生だったのだろうと思います。そういう人生が想像できないのですが。

ただ、家族も含めて、基本になっているは、相互承認、というより、僕個人から見れば、承認してもらえることが幸せなのだという気がします。食事をつくって、おいしいと言われるのも承認を受けることだし、妻や娘が楽しそうにしているようすを見ているのも、僕が用意した今を楽しめることがうれしい、という承認された感情が、幸せなのだという気がします。実際、妻と娘はよく一緒に時間を過ごし、実に楽しそうにおしゃべりし、一緒に音楽をつくったり、歌ったり、マンガを読んだり、一卵性双生児のようです。僕はその中に一緒に入ることはあまりないのですが、そういう時間を2人が過ごせるんだなと見ていることが、僕のつくってきた家庭を承認されていると感じて、幸せになる、といような、まあちょっとワンクッション置いた幸せ観なのですね。

人から認められるという点では、仕事も同じところがあります。自分がやったことを、仕事先の人によい評価をしてもらったときに、喜びを感じ、それが充実感になり、幸せになる。家族に認められるのと、仕事先の人に認められるのを同じに考えていいのかというのは「?」もありますが、本当のところ、違いがあるのかどうか、まだよくわかっていません。はっきりしているのは、どちらか一方では満たされない、ということでしょう。

◆つくる幸せ、食べる幸せ

僕にとっての幸せ、というと、何かをつくる幸せ、があります。つくるものはさまざまなのですが、それが食べ物の場合は、ひとりで食べてもあまり幸せを感じないので、やはり家族やともだちなど、誰かに食べてもらい、喜ばれたときは、幸せです。

今日も、八ヶ岳近辺に住む友だちが来るというので、調子に乗ってそば打ちをしたのですが、そばをつくり、食べておいしく、ともだちも家族も喜ぶ、というのは、かなり気持ちのよい幸せです。料理がおいしいと認めてもらうという意味では、認められる喜びのひとつなのでしょうが、食べものになると、「同じものを共有してうれしくなる」という意味が入り、単なる承認とは違う喜びになるのが、うれしいのだと思います。

つくるものは料理だけではありません。家で使う家具をつくったり、壊れている物を補修したりするのも喜びだし、自分がいいなあと思える写真が撮れたときは、人に喜ばれたりしなくても、幸せになれます。こういったものは、承認とセットになると喜びが増す物の、別に承認されなくても、自分が納得できればよいという違いはありそうです。

つくる幸せ→承認される幸せ→共有できる幸せ

という3つの幸せを考えると、料理をつくってみんなでおいしく食べるというのは、3つの幸せが一度にやってくるなかなかよいことだというのがわかります。そんなわけで、僕は料理を作り続けているのでしょう。

◆死ぬ前に感じる幸せ

幸せは生きているから感じられるものなんじゃないかと思うのですが(死んだことがないのでわかりませんが)、死ぬ直前、もうきっと死ぬんだなと思うときがあるなら、その時に、けっこう幸せな人生だったなと思えれば、それはきっと幸せな死なんだと思います。死ぬことを不幸なことだという理解もあるのかもしれませんが、死が不幸なら、人間の最後はみな不幸になってしまいます。不幸を感じながらの死もあるのは事実ですが、幸せを感じながら迎える死もあるはずです。できれば、そういう死を迎えられたらいいなと思います。

きっと、生きている間に、幸せを感じることや時間が多ければ、死ぬとき、死ぬことに今ひとつ納得できなくても、そういえばなかなか幸せなせいを遅れたと思えるのではないかと思うし、死ぬんだなと思う瞬間が来たら、そう思えたら、きっと幸せに死ねるのではないかと思っています。

死は、いつ訪れるかわかりません。僕も、何かのはずみでもうすぐ死が訪れるかもしれないし、この原稿が最後の原稿になったりする可能性もあるので、そうだ、生きている間に、ひとまずサイトにアップして、今日、幸せについて書けた幸せを感じながら、今日はそろそろ寝ようと思います。

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