2008年6月アーカイブ

(by paco)最近聞いた、ちょっとばらばらな話を並べてみます。

★裁量労働制とサービス残業

まず、人事系のコンサルティング先の関係で聞いた話。この会社では、裁量労働制の導入を検討しているのですが、そのアプローチの中で、いくつか興味深い実態が浮かび上がってきました。

まず、サービス残業。サービス残業自体は、労働者をただ働きさせているわけですから、悪いことではあります。上司が残業の上限を指示して、それ以上つけさせないという実態も、この会社に限らず、さまざまな会社で行われている、という点で、不正行為が常態化しているという側面があります(関与先の会社が、サービス残業を容認しているとか、実態があるという意味ではありません、あくまで一般論として理解してください)。

サービス残業は、社員の立場から見れば確かによくないことですが、しかし、「悪いことと言えるのかな?」という意見もあります。経営に理解を示しているということではありません。本来の勤務時間である、9:00?17:00の間、自分はまったくサボらずに、充分密度濃く、働いているのかと考えると、ちょっとあやしい感じもある、という自覚だ、というわけです。スモーキングルームに何回もかよって、10分、15分とおしゃべりしていれば、それだけで1日1時間ぐらいになると感じている人もいるわけで、そのぶん、夜遅くまで仕事をしたと考えれば、退社時刻が21時でも、残業をつけるのは20時にしておこう、というように考えることも、自然なことと言えます。逆に、残業を厳密につけて、ということになれば、じゃあ本当にその時間まで、すきまなくきっちり仕事をしていたのか?と問われかねなくなり、それはそれで窮屈です。日中もそこそこすきまがありながら、そのぶん、夜取り返す。だから残業時間も少なめにつける。時間だけ見れば「サービス残業」でも、実態は「見なし残業」だという考えもあるわけです。

(by paco)今週は、中国について、今気になっているお題を2つ取り上げます。ひとつは子どもの教育、もうひとつは高齢化です。

中国では一人っ子政策をとってきたために、親にとって子どもの教育が最大の関心事、ということは、知っている方も多いと思います。しかしその教育の意味が、じょじょに変容してきているようです。以前は、教育を受けないと将来の収入が乏しく、大学に入ることができれば、将来が約束されるため、親は必死に働いて子どもを大学に入れる、というレベルでした。

しかし、市場経済がすみずみまで行き渡り、加速することで、教育レベルの意味も加速してきました。

今中国では、大卒者であっても就職率は70%程度。いったん就職できてもリストラでクビになることも多く、そうなれば次に正社員の職に就けるとは限らず、契約社員やパートの身分で低収入に甘んじることも多いようです。

日本でも正社員を希望しているのになれず、定収入の状態の人が増えていることが問題になり、格差社会やワーキングプアが問題視されていますが、中国でもまったく同じ問題が起きているのには驚きです。

(by paco)六兼屋ができたのが2001年1月。今年は?? 2008年ですから、もう8回目の初夏を過ごしていることになるんですね、ちょっとびっくりです。

このところデュアルライフネタを書いていなかったので(ときどきリクエストが来るのですが)、書いてます。僕らにとってはすでにすっかり日常習慣になってしまっているので、あまりトピックがないのですが、この8年間を思い出して、違いを書いてみましょう。

デュアルライフについては、過去の記事がたくさんあります。こちらにもあるので、参考にしてください。


まず、六兼屋の成り立ちから。

もともと山暮らしをしようと思ったのはけっこう古く、30歳とかもっと前にさかのぼります。キャンプなどアウトドアが好きだったし、海や山にいくのも好きだったし、パソコンに向かう仕事が多かったので、どこでもできるよね、というのもありました。パソコン以前、ワープロ専用機を使っていた時代から、小型の持ち運びできるのものを選んで、旅先でも旅行記を書いたりして、「できるじゃん」と実証実験をやっていたので、やろうと思えばいなか暮らしはできるだろうと思っていました。ただ、実際にやるとなると、勇気もいるし、お金もいるしで、実現できたのはインターネットの普及がきっかけです(お金ではありません)。その時お金があることは背中を押してくれますが、それ以上に、そのあと継続的にお金を稼ぐことができるという自信が持てるかどうかの方がずっと大きいのですね。僕にとっては、インターネットの普及で電話が急激に減らすことができたことが大きかった。電話は居場所を特定されますが、メールは特定されずにやりとりできるし、携帯と違って「いつでも追いかけられる」というデメリットもありません。ちなみにお金の方は、六兼屋をつくろうとしていた時期は、実はいちばんお金がないときで、でもそろそろどうにかなるだろうという見込み、じゃないな、思い込みというか、そんな感じがしていた時期だったので、住宅ローンを借りるのはずいぶん苦労しました。

(by paco)先週からの続きで、立山黒部の旅行記をお届けします。

●黒部ダムをどう考えるか?

メートル級の山々とそれがうまい具合に「漏斗(じょうご)」のようになって受け止め、集める北アルプスの地形。このふたつの組み合わせによって、大量の水を標高1500メートルで受け止め、一気に下流に流して、その位置エネルギーを電力に変えようとしたのが、黒部ダムです。黒部ダムからは地中に導水管が通され、10km下流には地下発電所があります。高低差545メートル。水量と高低差によって生まれるエネルギーは、33万キロワットという大型発電機を動かす力があり、ここでつくられた電力は関西電力によって、地域に供給されています。

黒部峡谷は、このダムが造られるまで、ほとんど人が立ち入ることができない険しい場所でした。そこには貴重な自然があり、自然のままの姿があったはずです。河岸の絶壁に張り付くようにして細い道を造り、物資を運び、立山を超えてトラクターを運び込んで、当初の作業は進められました。そののち、長野県側の扇沢から黒部峡谷に出るトンネル(関電トンネル)が完成し、ここを通って大量の物資が供給されて、黒部峡谷に巨大なコンクリートの堰がつくられていきます。

その模様は、黒部ダムのオフィシャルサイトで、短い動画で見ることができるので、みてください。

これを見ると、つくった人の思いの重さや努力にただただ頭が下がるという気持ちになるのですが、その一方で、こんな巨大なものをつくることは、自然破壊ではないのか? という思いも湧いてきます。もちろん、ダム建設当時は、自然は克服され、利用されるべきものであり、それを実現した技術者や作業員は無条件に尊敬されました。しかし環境保護の時代を迎えて、本当にそれがいいことなのか、立ち止まって考えることも重要です。

まず、気になるのは、この当時、環境アセスメントはほとんどされずに工事が進められたであろうことで、黒部峡谷の自然がダムによってどのように変ったのか、何が失われ、何が生まれたのか、わからないという点があります。すでに多くの生態が失われてしまった可能性もあります。

また、こうして造られたダムの寿命の問題もあります。ダムの寿命は、ダム自体のコンクリートの寿命と、ダム湖に堆積する土砂の量というふたつがあります。コンクリートの寿命は、建築物の場合、40?50年という説があり、これでいくとそろそろ寿命が来てしまうわけですが、実際には、1920年ごろにつくられはじめた鉄筋コンクリートのビル(エンパイアステートビルなど)で、コンクリートの寿命が来たとされるものは今のところ無く、工事にミスや手抜きがなければ100年以上もつという説が多いようです。これでいくと、まだ50年は使えることになります。しかし、これだけの自然破壊によってつくられたものが、たった100年で使えなくなるとしたら、それを「長いからよかった」と考えるべきかどうか?

その一方で、せっかくの自然のエネルギーを、これだけ効率的に使えるなら、失った自然は代償として認めるべきではないか、という考えもあります。

ちなみに、最後の写真は黒部湖に浮かぶ観光船ガルベ号です。冬の間は地下倉庫に保管しておいたのでしょう、ちょうど倉庫から出てきて、近々湖に浮かべられ、営業運転することになるところ、のようでした。観光船は黒部湖の最上流部分まで行くことができ、そこは、ダムがなければ、人が決して近づくことができないような断崖の渓谷です。そんな場所にわずかな乗船料で近づくことができるという点では、貴重な機会を提供してくれていると思いますが、一方で、観光船に乗る客はそこまでの価値を見いだしているかどうか? ダムにせよ、観光船にせよ、何を犠牲にして何を得ているのか、差引勘定を考えさせられるダムの景観です。

いずれにせよ、黒部ダムは圧倒的な存在感をもって、峡谷に今日もそびえています。

●室堂:雪の大谷に圧倒される

ルート中、もっとも標高が高い場所が、立山山頂の西側直下にある室堂です。標高2450メートルにある高原状の台地で、積雪が多いことで知られています。

立山黒部アルペンルートは、富山側からは道路でここまで上がってくるのですが、標高が上がるにつれて積雪が増え、室堂では例年、積雪が10メートルを超え、多いときには20メートルにもなります。ルートの開通は毎年ゴールデンウィーク前の4月中旬。3月中旬から道路の除雪が始まり、1か月かけて、ブルドーザとパワーシャベル、雪を吹き飛ばす機械で除雪が進められるのです。

除雪された道路に対して、積雪が深く、今回僕が行った5月中旬でも、まだ積雪が14メートルと表記されていました。この、雪の壁の道路と「雪の大谷(おおたに)」と呼び、4月中旬の開通から5月いっぱいまで、雪の壁の道を歩く歩行者天国が実施されています。

この雪の大谷の中を歩くことが今回の旅行の大きな目的のひとつだったので、深い谷の道に大満足でした。雪は大量積雪が繰り返されたことを示すように、層状に積もり、何月何日の雪か、判定することができるということでした。上から重量がかかり、しっかりかたまっているので、これだけ切り立った雪の壁でも崩壊することはありません。

外気温は晴天の昼間で0?5度ぐらい。でも晴れていれば日差しが強く、シャツ1枚か、そのうえにちょっとはおるぐらいで十分暖かです。曇ったり風が強ければ、もっと厚着する必要があるでしょうが。雪の上ではスキーやスノボをやる人たちも多く、彼らはボートを背負って山の上に歩いて上り、一気に下りる滑りを楽しんでいました。雪はしっかりかたまっているので、滑りやすくはありませんが、どこからどこにすべていってもまったく自由、という感じの傾斜と地形だし、立山から剱岳、富山市内まで見渡せるすばらしい眺望の中をすべるのは、気持ちよさそうだなあという感じでした。

積雪10メートルの雪の上は、しっかりかたまっているので、スノボやスノーシューをはかなくても、足が埋まり込むことはありません。景色を楽しんでいると、上からスノボをもった女性がやってきたので、ちょっと話を聞くと、すぐ下にあるホテルであるバイト中で、これから戻って仕事、ということでした。ゆったりした傾斜を斜滑降でホテルに滑り降りていくのが見えました。

雪の斜面の向こう側を歩く登山者、その向こうをすべるスキーヤー、さらに遙か向こうの剣岳。雄大な自然と、厳しい中にも優しい立山の春の雰囲気でした。

この室堂平は、進行の山でもあります。立山の主峰、雄山(おやま=3003メートル)の山頂には、立派な雄山神社があり(写真にも写っています)、山そのものがご神体です。室堂からは片道2時間ほどで上がることができ、今でも富山人にとっては、立山に登って初めて一人前の男になる、という気質があるようです(かつては女人禁制でした)。市内の中高生が修学旅行に登りに来ることも多いようです。いちばん上りやすい3000メートル峰だと思うので、今度登りに来ようかと真剣に考えています。ここなら何とか登れるのではないでしょうか?

7月ごろになるとようやく雪がほぼ融けて、ハイマツの原に高山植物が咲く緑の高原に姿を変えますが、5月の時点ではその姿は想像もできない、という雪の原です。また時期を変えて行ってみたくなりました。

●室堂:雷鳥に遭遇

立山といえば、もうひとつのお目当てが、特別天然記念物の雷鳥です。雪の季節にはまっ白になり、やつには黒く衣替えする羽。小さめのニワトリぐらいのずんぐりした体とあまり飛ばない性質。遙か昔の氷河期の生き残りであり、日本では北アルプスを中心に、わずかな個体死か生息していない貴重な鳥です。

立山に行ったら雷鳥を見たいと思うわけですが、果たして見れるものなのか? あまり多くは期待せずに、2日目の朝ゆっくり、ホテルをチェックアウトしてから、近くのミクリガ池を散歩しつつ、探してみました。

まず、ホテルに隣接するネイチャーセンターによって、情報収集。雷鳥は室堂周辺に生息していること、朝型摂食のためによく見られること、食事は雪が融けたハイマツの周辺で、木の芽などを食べていること、昼間はあまり動かずにハイマツの影に隠れてじっとしているので、見つけにくいことなどを教えてもらい、出発。

周囲はまだ数メートルの積雪なので、雪の上に立てられたポールを目印に歩いて、ミクリガ池に向かいます。ミクリガ池は火山の噴火のあとにできたカルデラ湖ですが、「池」という日々以上に大きく、やはり噴火口という感じがぴったり。蟻地獄型に凹んだ底が平らに結氷して、端の部分が一部青い水色になっていました。「蟻地獄のふち」に周回路がつけられているのですが、雪の道なので歩きにくい。時々雪に足が埋まってバランスが崩れるし、すべることもあるし、天気がいいので、暑くて汗をかき、消耗します。

ミクリガ池を3分の1ほど回り込んだところに温泉があり、その前のハイマツのブッシュに、一組のカップルを発見。やった?。大きさはニワトリのチャボぐらい、♂の眉毛の部分にある肉垂が真っ赤できれいです。動きはゆっくりで、人が道から見ていても逃げる気配は全くなし。歩道からの距離は5メートルという感じでしょうか。場所的にはもう少し近づける感じですが、このぐらいの距離でゆっくり観察します。

雷鳥は人間が天敵でないことを知っているのでしょう。ツバメや四十雀があえて人家の近くで巣作りするように、人の活動の近くにいた方が、オコジョやイヌワシなどの天敵が近づきにくく、かえって安全であることを知っているのだと思います。そのぶん、立ち止まってじろじろ見られたり、写真を撮られたりするのは少々うっとうしいのでしょうが、それが嫌いな鳥は、たぶん、もうちょっと奥の茂みにいるのだと思います。特別天然記念物にして、氷河時代からの生き残りという貴重な鳥が、こんなに身近に見ることができることに、まずは安心しました。

とはいえ雷鳥の生活環境は決して安泰ではないようです。黒部峡谷側では鹿や猿が増えて、雷鳥の食糧を食べ尽くしてしまったり、猿は雷鳥を補食することもあるようで、個体数が減少しているということでした。鹿や猿は下流や山裾で人間の生活圏と競合し、山の上に上がってきた結果、雷鳥と競合しているのでしょう。また温暖化で高山地域でも生活できるようになってきたのも理由のひとつです。

雷鳥はニュージーランドのキウイやオキナワのヤンバルクイナと同じように、あまり飛ばない鳥です。捕食者が少ない場所だからこそ生き残ってきたわけで、このまま雷鳥の生活環境が守られるかどうかは、注意深く見守る必要があります。


ところで、クイズ。この写真の中に、つがいの雷鳥がいます。写真をクリックして拡大し、見つけてみてください。ハイマツ帯の地形をうまく利用して生き抜いてきたのです。
答えはこちら。


●室堂:星に一番近いリゾートホテル

最後は、立山黒部アルペンルートのホテルについて。やはり山岳地域なので、いわゆるリゾートホテルはほとんど無く、山小屋がアップグレードされたようなところが最上位になります。それ以外には、基本的に登山の基地としての山小屋になるので、山に登らない人は、ルートの外の、立山地区や扇沢の下のホテルの方が快適です。とはいえ、せっかくの立山ですから、らしい場所に止まろうということで、室堂でもっともグレードの高い「ホテル立山」を予約していきました。トイレ付きバスなしの3ベッドルーム、2食付きでひとり2万円弱と決してお安くはないですが、標高2400メートルのホテルと考えれば、まずまず納得できるところです。

建物は、真冬の豪雪にも耐えるように非常に強固に造られているものの、道路が閉ざされるので、営業期間はルートの営業と同じ、4月から11月まで。オープンは昭和40年代で、全体にレトロなテイストにあふれていますが、設備はきっちり更新されているので快適です。何よりすばらしいのは食事です。富山市内から毎日運ばれてくる食材を使って、クリエイティブなフレンチコースが出され、窓の外に夕日に染まる立山を見ながらゆっくり食事をとるのは、ぜいたくな時間でした。朝食は、バイキングで、種類も多く、こちらも満足。

夜?翌朝にかけて、いろいろエンターテイメントも用意されていて、夕方は雪の大谷ウォーク、夜はホテルスタッフによる手作り感覚のスライドショウ&観星会、翌早朝、ご来光を見るツアー、雷鳥見学ツアーなど、大がかりではないものの、ていねいに楽しませてくれるホテルでした。

そうそう、もうひとつ忘れてならいのは、室堂の水です。「立山玉殿の湧水」と呼ばれるここのわき水は、文句なしのおいしさです。あちこちでおいしい水を飲んでみましたが、ここの水は特別です。歯を磨いてうがいのついでにごくごく飲んでしまいたくなる水というのは、初めてでした。ホテルの昭和な薫りのカフェでは、この水で水出しコーヒーをつくっていて、これが実にうまい。カフェだけでもオススメです。

●扇沢

帰りは、来たルートを逆にたどって、「立山トンネルトロリーバス→ロープウェイ→地下ケーブルカー→黒部ダムを徒歩で渡る→関電トンネルトロリーバス」と移動して、出発点の扇沢に。昨日止めておいたクルマに戻って、六兼屋まで2時間ちょっとです。

朝8時に六兼屋を出れば、11時には黒部に入り、昼過ぎには室堂でコーヒーが飲めます。日帰りも十分可能であることがわかったので、また来ちゃおうか、と思った旅でした。