2006年12月アーカイブ

(by paco)2006年、最終のコミトンになりました。そんなわけで、今回は今年あった大きな変化について考えてみたいと思います。

今年、2006年が、歴史の中でどのような位置づけになっていくか。つまり、今年起きたことの中で、将来につながる大きな事柄は何かを考えてみると、世界帝国、米国の劣化が非常に明確になったことだと思います。米国の劣化は、これまでも様々な角度から指摘されてきましたが、それでも米国が世界の唯一の超大国であることは誰も否定できませんでした。しかし、もしかしたら、2006年は米国の凋落が明確になったターニングポイントとして記憶されることになるかもしれません。そしてそれは同時に、「欧米」と表現される西洋文明の時代が少しずつ崩壊していく時代の始まりを意味するはずです。

西洋文明が世界で優位に立ったのは、実はそれほど古いことではありません。スペインやポルトガルが世界を分割した、というような歴史を習ったことがありますが、あれは当時のヨーロッパ人、特にローマ教会がスペインとポルトガルがケンカをしないように分けただけで、実質は中国やイスラム文明圏にヨーロッパ人が来て交易をしたというレベルで、力関係は決してヨーロッパ優位ではありませんでした。中央アメリカや南米大陸の文明がつぶされていったという例外を除けば、おおむね世界はいくつかの文明圏が独立して力を持っていて、西洋文明が優位ではなかったのです。

(by paco)先週の僕の記事「教育基本法改正と靖国神社」に対して、Toshiさんがコメントをつけてくれたので、そのあたりをもう少し考えます。


▼Toshiさんのコメント
────────────────────────────────────
「人のための国」ではなく「国のための人」と考えているというのも確かにあり
うるなあと思う。ただ、仮にそうだとしたら、どうしてこの人たちはそう思うん
だろう? それって結局みんなにとっても自分にとっても、つらい結果につなが
る可能性が高いのに。

そんなことを思うのは、この人たちと議論をしようとしたとき、ここを理解して
いる必要があると思うんだね。
────────────────────────────────────

このToshiさんのコメントについて考える時のポイントは、「戦争」という選択肢をとることが「結果的につらいことになる」可能性があるという点を、どう理解すればいいのか、と言うことだと思います。

(by paco)Toshiさんが知恵市場のオープンサイトに、教育基本法改正について書いていました。(「人のための国、人のための人」)

Toshiさんの指摘している論点はよくわかるし、僕も同感なのですが、今回は、Toshiさんの記事への返歌として、実は政府やそれを支持する保守本流の人々の考え方は、もっとかなり違って、怖い話なのだということを書きたいと思います。

Toshiさんが論点としているのは、「『国』とか『公』といった抽象的なものを強調した時に恐いのは、「人」が不在になってしまいかねないことです。たとえば、多くの人にとってプラスにならないのに「国」が負けないために戦いが行われるとか」という点です。この指摘はまさにその通りなのですが、僕が研究してきたことによれば、「人が不在になってしまいかねない」というようなことではなく、「人を不在にする」という意図を実現するために、このような改正が行われているという理解をするべきです。

この違いは小さいように見えるかもしれませんが、決定的な違いがあります。Toshiさんの説明では、

「本来は人を大切にしていきたいのだが、いつの間にか、その目的が見失って、公が優先されてしまう」

(by paco)森をひとつ、買うことになりました。ひとりで買うわけではないので、たくさんの人の協力が必要です。資金面、森を管理する作業面、そしてそれを通じて森を楽しむ人が一人でも増えればと思っています。

六兼屋ができてちょうど6年というタイミングの年末、裏の山で林の伐採が始まりました。六兼屋のすぐ北は、山になっていて、結構広い森です。ちょっとした隣地を挟んで上の林で伐採が始まったのですが、その伐採中の林のすぐしたのMさんから、「伐採するからよろしく」と聞いていたので、驚くことはありませんでした。

今年の9月、台風のあとに、Mさんの裏山の松が倒れて、Mさんの別荘にぶつかって、屋根が壊れそう、というという危ないところでした。林はアカマツと雑木の混淆林で、マツクイムシにやられていた松が台風で倒れたのでしょう。このあたりではよくあることで、六兼屋のすぐ隣地の松も一昨年切りました。