(by paco)Toshiさんが知恵市場のオープンサイトに、教育基本法改正について書いていました。(「人のための国、人のための人」)
Toshiさんの指摘している論点はよくわかるし、僕も同感なのですが、今回は、Toshiさんの記事への返歌として、実は政府やそれを支持する保守本流の人々の考え方は、もっとかなり違って、怖い話なのだということを書きたいと思います。
Toshiさんが論点としているのは、「『国』とか『公』といった抽象的なものを強調した時に恐いのは、「人」が不在になってしまいかねないことです。たとえば、多くの人にとってプラスにならないのに「国」が負けないために戦いが行われるとか」という点です。この指摘はまさにその通りなのですが、僕が研究してきたことによれば、「人が不在になってしまいかねない」というようなことではなく、「人を不在にする」という意図を実現するために、このような改正が行われているという理解をするべきです。
この違いは小さいように見えるかもしれませんが、決定的な違いがあります。Toshiさんの説明では、
「本来は人を大切にしていきたいのだが、いつの間にか、その目的が見失って、公が優先されてしまう」
という、結果の議論をしていることになります。この議論では、たとえば太平洋戦争に負けたことも、
「国民を大切にしようと思ったあげく、戦争という選択をしたけれど、結果として負けて、犠牲者が出てしまった」
という、政府側の説明と対応してしまいます。つまり「結果はともかく、意図は正しかった」という説明を許容してしまう可能性を含んだ議論なのです。「ある意図を持って行った結果がどのようになるかはだれにも明確にはわからない、だから、意図が正しければ、結果が悲惨になっても許されるべきだ、それが人間の限界なのだ」という説明を、保守本流の人はしばしばするのです。
それに対して「いや、結果は事前にわかっていたではないか、こういう分けで勝てるはずはないことが、事前にわかっていたはずだ」とあとで反論しても、そういう反論は「結果論だ」「歴史に<もしも>はない」などと反論され、そこで議論は終わってしまうのです。
本当に「<人>が不在にならない」ようにすることを願うなら、「<人>を不在にしようとする意図」の段階で、その意図をはっきり指摘する必要がある。そして、今回の教育基本法の改正は、政府とそれを支持する保守本流の人々が、「そろそろ<人>を不在にする仕掛けを作っておかないと、これからの政治はできない」という意図をはっきり持ったと言うことを意味している、と理解するべきなのです。
やや、込み入った表現をしてきたので、すっきりと言い直しましょう。
「今回の教育基本法の改正は、公のために個が犠牲になることはすばらしいことだというメッセージを小さなころから植え付けることを目的に、行われた」のです。
なぜ?
その答えを出す前に、「公のために個が犠牲になることはすばらしい」というのはどういう概念かを説明します。
戦前の日本では、その役割の中核を靖国神社が担ってきたのです。
昭和20年までの日本では、産業の発展が十分ではなく、主に農家の次男坊以下の男子はこれといった進路を社会が提供できていませんでした。日本の主たる産業である農業は、世代交代のたびに子どもの数でのうちを分割していては、1戸あたりの農地が少なくなって農業経営が成り立ちません。そこで、農家の相続は長男が単独で行いました。すると、次男坊三男坊の進路がなくなってしまう。プー太郎のように暮らしたり、職を転々とせざるを得ない人も多かったわけです。別の言い方をすれば、次男坊三男坊は、戦争がなくてもあまりほめられない生き方をして、ろくでもない死に方をすることもやむを得ないという状況だった。
軍による徴兵は、このプー太郎たちを吸収する役割を果たしていました。わずか一銭五厘で兵隊になる若者はいくらでも徴用でき、それが雇用対策になり、社会の不安定化を防ぐという意味があった。
そういう中であっても、軍が戦争を起こし、戦況が思わしくなくなって、戦死者が増えていったときに、戦死した若者の親たちからは「なんでわたしの子を死なせたのだ、わたしの子を帰せ」という非難が出てきます。しかしそこに靖国神社が、この非難を逆転させる浄化の装置として機能するのです。赤紙1枚で戦争に送られ、骨も戻らずに息子は死んでしまった。しかし、その悲しみを癒すために、死んだ兵士が戻ってくるという靖国神社に参拝してみたら、そこには、総理大臣も大元帥も、天皇陛下までも参拝し、死んだ自分の息子に敬意を表し、頭を下げてくれる。あの、神様のように尊敬されている天皇までが、自分のプーな息子に頭を下げてくれる。あの子はどうせ生きていても、ろくな生き方も死に方もしなかったに違いない。戦争で死んだから、陛下が参拝してくれるような立派な人(軍神)になった。靖国神社に参拝する遺族は、こういう思いに打たれ、さっきまでの「国に殺された」の気持ちが「すばらしいことをして死んだのだ」というように180度転換してしまうのです。
靖国神社とは、「赤紙1枚で殺された」という悔しい遺族の思いを、「ろくでもない我が子が、みなから尊敬される子になれた」という「自慢の思い」に転換し、浄化する装置だったのです。
このような装置は、実は日本では古くから存在していました。古代から日本では「怨霊信仰」があり、不本意に死んだ人、たとえば政敵に殺されたり、左遷されて失意の撃ちに死んだ人の例は、悪霊となって漂い、人々に悪影響を与えると考え恐れてきました。有名なのは菅原道真で、吸収に流された道真の怨霊を恐れた藤原氏が、道真の怨霊を沈めるために道真を「褒め称える」ためにつくったのが、天満宮、つまり天神様です。天神としてたたえ、人々の尊敬を集めれば、失意の撃ちに死んだ道真の怨霊が朝廷と藤原氏に害をもたらすと考えたわけです。
このような古代日本からの信仰を、近代の明治国家の中によみがえらせた装置が靖国神社です。国が強制的に徴用し、国が命じて死地に追いやった国民の霊が「怨霊」になって戻ってこないように、その霊を人々から褒め称えさせる仕組みをつくったわけです。この褒め称えることを、靖国神社では「顕彰」という独特の表現します。
ところで、靖国神社に祀られる御霊は、靖国神社が一方的に、遺族にもなんの断りもなく行われているのを知っていますか? 戦争で軍人として死んだ人は、無条件に靖国に神として祀られ、遺族がそれを拒絶することも、遺族からの要求によってリストからはずすことも受け入れていません。裁判も何度も起こされていますが、認められていないのです。その理由はここまでの説明でわかるでしょうか。遺族が個人的な考えて「顕彰の対象」からはずしてしまえば、その霊は怨霊となって社会に災いをもたらすという思想がその背後にあり、靖国がすべての戦争による軍人の戦死者を等しく浄化するという約束が、多くの遺族の「親族を殺されて悔しい思い」を浄化しているからです。
遺族の中には、「兄は国家の命令で(戦争で)殺され、死んでも靖国で国家のために働かされている、不憫でならない」といって、裁判を起こしている人もいます。しかしそれは少数派であり、多くは靖国での浄化を受け入れているのです。なぜ受け入れるのかと言えば、上記の流れからわかるとおり、靖国という浄化装置がなくなったら、自分の親族の死はムダ死にになり、「自慢」が「国家への敵視」に戻ってしまうからなのです。
国家による兵の募集と、兵の戦死、その死を「顕彰する」装置、そしてこのメカニズムを理解させ、すり込むための教育。この一連のシステムは、すべてつながっていて、どれかひとつかけても、機能しない、軍事を支える「環」なのです。
今回の教育基本法改正は、この中の「教育」部分から手をつけるという政府の戦略の中で実行されています。「ゆとりの教育」が失敗したと喧伝し、その修正をアピールする中で、保守的ない教育への回帰の世論をつくり、その流れの中で教育基本法を改正する。この改正は、ゆとりの教育の「失敗」をどうやって改善するかというようなイシューで行われているのではなく、「失敗」だと危機感をあおった上で、まったく別の「国家による国民の強制的な死=戦死」を受け入れさせるための最初のコマをはめ込んだのです。
この話を読んで、「それはいくらなんでもうがった見方だ、サヨクの見方だ」と思う人もいると思います。では、以下のような政府の行動を、どう説明するのでしょうか。
「今」という時期は、非常に貴重なタイミングです。与党は300議席を持ち、野党が何を言っても機械的に法案は通ります。来年夏の参議院選挙では、反動で与党が負ける可能性もある。それまでの間に、重要法案をなるべく静かに通してしまおうというのが、政府と保守本流の人々の考えです。この戦略に沿って、防衛庁が防衛省に格上げされ、核武装の議論が堂々と行われるようになっています(核武装論議の真意は、本当に核武装を狙っているのではなく、核を含めた軍事について議論すること自体に、アレルギーをなくすことがねらいでしょう)。防衛省昇格の法案には、今は臨時立法で対応している、米軍への軍事協力(国際活動)を、本来業務に組み込むことになっています。サマワでの自衛隊の活動は、幸いにも(薄氷を踏む思いで)犠牲者なしでやり過ごすことができました。しかし、今度イラク戦争のような場所に派兵すれば、戦死者なしにはすまないでしょう。その時に、上記の「戦死を受け入れさせるサイクル」が機能するようにしておく必要に迫られているのです。
もうひとつ、僕の意見を「サヨクだ、うがっている」と考える人に考えてもらいたいこと。靖国神社は、なぜ民間の戦死者は祀らずに、軍関係者の戦死者のみを祀るのでしょうか。いったん祀られた人を、遺族の依頼があってもリストからはずさないのはなぜでしょうか。政府が、「国家の戦争犠牲者追悼施設」をつくって、靖国神社の役割を変質させるという議論に対して、yesといわないのはなぜでしょうか。
僕の説明は、これらすべてに、回答を与えているはずです。政府は、これから本当に戦争をやり、犠牲者が出るかもしれないことを、視野に入れているのです。でなければ、今回の教育基本法の改正を、こんなに素早く、ひっそりと実行するということの説明が付きません。
戦争は、政府にいる一部の人間が、戦争をしてでも何かを獲得しようという明解な意図のもとに始まります。そして「戦争をしてでも」という言葉の意図は、「兵士がたくさん死んでもかまわない」という意味です。もっと言えば「兵士に死んでもらってでも、その代わりに何かを獲得しようと、政府の一部の個人が明確に意図して行うのが、戦争だ」ということができます。
そういう流れが、今つくられつつあるということを、僕は明確に感じています。
参考:「靖国」という問題
「人のための国」ではなく「国のための人」と考えているというのも確かにあり
うるなあと思う。ただ、仮にそうだとしたら、どうしてこの人たちはそう思うん
だろう? それって結局みんなにとっても自分にとっても、つらい結果につなが
る可能性が高いのに。
そんなことを思うのは、この人たちと議論をしようとしたとき、ここを理解して
いる必要があると思うんだね。