2008年12月アーカイブ

(by paco)先週に引き続き、人の生の有限性について書いてみます。

先週の記事で、「問題なのは、普通の楽しい生活が送れるはずだった今日という日を、思い煩うことで、普通に楽しい生活が送れないこと」と書きました。

僕たちにとって、今日という日を、不安に心を揺さぶられることなく、安心して、そして希望を持って生活することがいちばん基本的な幸せだということですが、これについては反論があるかもしれません。今日が充実していたとしても、1か月後、1年後、10年後の今日も充実していると思えないと、いやだし、まさに今日の充実も帳消しになるような気がする、と言うことがあると思います。

また、今日という日が充実していなかったので、明日こそ、1か月後こそ、充実させたいと思う人も多いでしょう。そして充実させたい1か月後の日が病気の悪化で充実させることができないとしたら、そんな悲しいことはないと思うこともあると思います。

でも、いま仮に病気でなかったとしても、明日、1か月後、1年後に、充実した日を送れるという保証はどこにもありません。それどころか、今日病気でなくても、1か月後には事故にあって死んでいるかもしれません。自分が健康で1か月後を迎えられても、家族や親友など、身近な人が不幸な状態になっている可能性も十分あります。

僕たちが充実した、幸せな今日を終えることができないことは十分あるのですが、だからといって先の日に期待をかけても、それが現実のものになるわけではありません。

(by paco)bibiちゃん(妻)が体調を崩して、秋に入院して治療しました。基本的には大きな心配があるような病状ではなく、今はごく普通に生活しています。

しかし、そんなこともあって、bibiちゃんと命について話をすることが増えました。今回は、「人生の有限性」について、僕が彼女に話していることを書きたいと思います。

健康診断や検査の結果が疑わしくて、「もしかして命に関わる病気かも?」と思うと、死にたくないと感じるのは当然のこと。それがほんのわずかな疑いの段階であっても、「もうダメだ」と深刻になることも珍しくないでしょう。そうなると、「せめて○○までは生きていたい」と考えることになります。

「せめて自分が結婚するまでは。結婚ぐらいしたいけど、今のところ相手もいないし」
「せめて子供が生むまで」
「せめて子どもが1人で学校ぐらい行けるようになるまで」
「せめて子どもが成人するまで」
「せめて子どもが就職するまで」
「せめて子どもが結婚するまで」
「せめて孫の顔を見るまで」
「……」

ごく自然な感情だと思います。

(by paco)今週も、2本立てていきます。

★日本経済は踏みとどまる

以前、原油相場についての先読みをして、コミトンの記事を書きました。150ドル前後で、原油はピークアウトしているので、今後は下がることはないと言われていた時期です。このときの原油高は投機マネーによって上がっているので、いずれ、特にサブプライム問題の表面化に伴って下がる、ということを書いたのですが、実際原油価格は下降して、予想した60-80ドルラインに達しました。しかし、現実はさらに大きく下落し、今や40ドル台、さらに下落して30ドル台もありそうな気配です。そういう意味では、下落は当たりましたが、予想を超えて下がってしまったので、大はずれです、トホホ。

で、さらにしつこく、今後のことを予想してみたいと思います。原油価格は、おそらくこれ以上大きくは下がらないでしょう。サウジが原産を検討しているし、一方、ドル自体が暴落してくので、ドル建ての原油価格を見ても、価値がよくわからなくなるからです。

そこで、今回は、景気全般について考えてみます。

世界経済は「100年に一度」の危機とか言われていますが、それについてはよくわかりません。日本経済はどうでしょうか。