(by paco)先週に引き続き、人の生の有限性について書いてみます。
先週の記事で、「問題なのは、普通の楽しい生活が送れるはずだった今日という日を、思い煩うことで、普通に楽しい生活が送れないこと」と書きました。
僕たちにとって、今日という日を、不安に心を揺さぶられることなく、安心して、そして希望を持って生活することがいちばん基本的な幸せだということですが、これについては反論があるかもしれません。今日が充実していたとしても、1か月後、1年後、10年後の今日も充実していると思えないと、いやだし、まさに今日の充実も帳消しになるような気がする、と言うことがあると思います。
また、今日という日が充実していなかったので、明日こそ、1か月後こそ、充実させたいと思う人も多いでしょう。そして充実させたい1か月後の日が病気の悪化で充実させることができないとしたら、そんな悲しいことはないと思うこともあると思います。
でも、いま仮に病気でなかったとしても、明日、1か月後、1年後に、充実した日を送れるという保証はどこにもありません。それどころか、今日病気でなくても、1か月後には事故にあって死んでいるかもしれません。自分が健康で1か月後を迎えられても、家族や親友など、身近な人が不幸な状態になっている可能性も十分あります。
僕たちが充実した、幸せな今日を終えることができないことは十分あるのですが、だからといって先の日に期待をかけても、それが現実のものになるわけではありません。