(by paco)bibiちゃん(妻)が体調を崩して、秋に入院して治療しました。基本的には大きな心配があるような病状ではなく、今はごく普通に生活しています。
しかし、そんなこともあって、bibiちゃんと命について話をすることが増えました。今回は、「人生の有限性」について、僕が彼女に話していることを書きたいと思います。
健康診断や検査の結果が疑わしくて、「もしかして命に関わる病気かも?」と思うと、死にたくないと感じるのは当然のこと。それがほんのわずかな疑いの段階であっても、「もうダメだ」と深刻になることも珍しくないでしょう。そうなると、「せめて○○までは生きていたい」と考えることになります。
「せめて自分が結婚するまでは。結婚ぐらいしたいけど、今のところ相手もいないし」
「せめて子供が生むまで」
「せめて子どもが1人で学校ぐらい行けるようになるまで」
「せめて子どもが成人するまで」
「せめて子どもが就職するまで」
「せめて子どもが結婚するまで」
「せめて孫の顔を見るまで」
「……」
ごく自然な感情だと思います。
でも、実際には病状によっては、こういった希望が叶えられない可能性もある。それが不安をかきたてるのです。できれば「せめて……」などと言うことは考えず、毎日を元気に過ごすことだけでいいはずなのに、将来を思い煩ってしまうのが人間です。
ではこの不安を、僕たちはどう扱っていけばいいのでしょうか。
まず考えなければならないのは、病気になって何が問題なのか?という点です。脳卒中や心筋梗塞のような、発作が起きたらそのまま数日で死に至る場合もある病気は別ですが、それ以外の、がんのような病気の場合は、がん細胞自体は、何年もかけて体の中で育っていきます。これまで自分が何年そのがんと付き合ってきたのか、知ることは不可能です。健康であるつもりが、体のどこかに、今もがん細胞を飼っているかもしれません。それでも、検査で疑いをかけられるまでは、気にしないことがほとんど。症状を自覚していても、重病だとは思わないことも多いし、自覚症状がなく、検査結果で初めて病状をしらされることも多いのです。
そうなると、これから先、病気と付き合うことになるとしても、それは実は今急に始まったわけではなく、単に知っているか知らないのか、ということだけの問題ということになります。がんであってもほかの病気であっても、大事なことは毎日の自分の日常生活がきちんと送れることであって、生活が維持できるなら、病気でもそうでなくても、変らないということになります。
つまり、Quality of Lifeの問題です。大事なことは病気かどうかではなく、病気によって、自分が望んでいるいつもの日常生活が、これからも維持できるかどうか、なのです。
それなのに、病気がわかると、上記のような「せめて……」をいろいろ考えて不安になり、不安に押しつぶされそうになってしまうのが普通です。そして病気自体の症状がなくても、また症状があってもそれがごく軽いものであっても、不安のほうが大きくなって、暗い表情になり、泣きはらしてしまうことが普通です。でも、むしろ問題なのは、普通の楽しい生活が送れるはずだった今日という日を、「せめて……」と思い煩うことで、普通に楽しい生活が送れない、ということのはずです。
治療にも同じことが言えます。手術をして直してしまおうと考える場合でも、手術の体への負担が大きくて、術後になかなか普通の生活に戻れないとしたら、Quality of Lifeは下がってしまいます。極端な例で言えば、手術をした結果、寝たり起きたりの生活の状態で10年生きて死ぬ人生と、手術をしないでほぼそのまま元気な状態で4年すごし、その後、悪化してしまい、5年目に死ぬ人生は、どっちがよい人生だったと言えるのか、ということでもあります。元気な今の状態で考えれば、「それは少しでも長生きした方がいいに決まっている」から、手術をして10年は生きる、と思いがちですが、本当にそうでしょうか。病気になって、体調が優れなくてすぐ疲れてしまい、やりたいことがなかなかできない10年間なら、本当にそれが自分の望みなのか、よく考えておくべきです。
まして、体調ではなく、心の持ちようで不安が募り、もし病気が発見されなかったら今日やっていただろうことや仕事が不安で手につかなければ、病気のせいではなく、自分のメンタリティのせいでみすみす大切な時間をムダにしてしまう可能性があるのです。
問題は、病気よりも、不安のほうが大きい、ということがわかります。
では、「せめて……」と考えるたくなる当然の気持ちを払拭して、考えないようにする方法はあるのでしょうか。
「がんばって考えないようにする」というのは、できそうでできないことのひとつです。つい考えてしまうようなことを頭から追い払おうとしても、知らないうちに戻ってきて、そこに向き合ってしまうのが、人間なのです。
こういう場合は、「つい考えてしまう」ようなことに、徹底的に向き合って、考え抜いてしまうのが一番です。そのイシューについて十分咀嚼し、吸収してしまえば、もう頭には浮かんでこないものなのです。というより、浮かんでは来るのですが、すぐにまた、引き出しの中に入ってくれるので、煩わされるところまでは行きにくくなるのですね。
まず、一番重要なことは、「人間はいずれにしても死ぬ」ということをしっかり理解することです。健康で過ごしていると、ずっと生が続くと感じるものです。自分は早死にはしないと思い込んでいるので、病気になると動揺する。でも現実の人間の生は、「遅かれ早かれ、いずれ死ぬ」ことには代わりがなく、それは変えようのない事実です。そして、その人生の長さは、人それぞればらばらです。平均年齢が80歳であっても、平均ということは、若くして死ぬ人から、もっとずっと高齢まで行き続ける人までの平均に過ぎず、自分にとっては、平均に達しないで死ぬ可能性もあれば、それ以上に生きる可能性もあるということ。平均までは生きたいと思うものの、実際には自分の生の長さが平均以上か、平均以下かは、まったく同じ確率で起こることなのです。平均以上に生きたいという願望は、しょせん、希望に過ぎず、現実の自分の人生の長さは、平均とはほぼ無関係なのです。
そうはいって、長く生きたいと思う気持ちは当然のこと。でも長く生きることが幸せにつながるのでしょうか。高齢まで生きても、不幸だと感じてばかりの人も実際には多くいます。僕の母親は50代で夫(僕の父)と死に別れていて、その後は、「早く迎えに来てくれればいいのに(そう悲壮感はないのですが)」と仏壇に向かって頼む日々です。しかし結局は、その後30年も長く生きて、最近はだいぶ身体は弱ったものの、今も自宅に健在です。本人は若い頃から体が弱く、まさかそんなに長く生きるとは思っていなかったし、それほどアクティビティが高い人ではないので、結局夫の死後の30年は、自分でもおまけという感じの年月でした。時には幸せとは言いがたい状況に陥ったりすることもあり、果たして夫より長生きすることが本当に幸せだったのかというと、そうは断言しがたい部分があります。長く生きても、生き甲斐を見つけられずに、他人の文句ばかり行って過ごす人も実際には珍しくないし、長く生きることが幸せになるとはまったく言えないのです。長生きの方がいいに決まっていると思う人は、ぜひ長生きの人をよく観察してください。意外に幸せ感がない人も多いと思います。
さらに、「せめて子どもが成人するまでは」と考えるのは、合理性があるのでしょうか。「せめて……」を見てみると、こどもが少しでも大きくなるまでは生きていたいという願望が見て取れます。では、どこまで見届ければ死んでもいいと思えるかというと、ほとんどの人が考えていません。大学入学までは生きたいけれど、子どもが大学をはいるのを見届ければ、あとはいつ死んでもいい、とは思わないものなのです。際限なく、「せめて……」は続いていきます。そうなると、子どもの方もどんどん大人に?中高年になってしまい、ヘタをすると自分より早く死んでしまうかも、というような年齢になってしまうことも珍しくありません。自分が長く生きることを願うことは、突き詰めれば、子どもより自分の方が長生きしたいという願望につながります。そして願いが叶って長生きすれば、もしかしたら子どもががんで手術して、命の心配をしなければならなくなる、そんなことを願っていることになる、という逆説が含まれているのです。
子どもの方が先に死ぬことを「逆縁」と言いますが、親が長生きしすぎれば、自ら逆縁を招く可能性を引き寄せていることを意味していて、親はなるべく早めに、逆縁にならないように死ぬ方が、ずっと合理的で、子供にも受け入れられるのだと思います。長く生きたいという願望が突き詰めれば、子どもや友達よりも長生きして、逆縁にあう可能性を引き寄せていることになります。自ら逆縁の不幸を引き寄せる願望を強く持つのは、決していいことではありません。長すぎない程度に生きられればいいや、と考えていつまで生きるかを考えすぎない方が、実際には幸せになれるのです。
「せめて○○だけはやりたいのに、できないかもしれない」と不安になって苦しむこともあります。未完成な状況で死にたくないと思うのは僕も同じです。でも、逆に、もしその何かが完成してしまったらどうでしょうか。もうやることは十分やりきった、これ以上の何もやることはない。こういう時間を過ごすのも、一見良さそうに見えても、それは精神的に廃人のような状態でゆっくり死んでいくようなものです。しかも、本当にいつ死ねるかはわからないまま、時をやり過ごすことにあります。やるべきことをやったあとの時間とは、幸せな時間なのでしょうか。むしろ、あれもやりたい、これもやりたい、と思って希望を持って最後まで日々を生きるほうが、ずっと密度が高い、幸せな人生です。ということは、人生というものは最後は未完成で終わるのが普通だということです。未完成で終わることは、不幸なことではありません。むしろ、最後まで希望を持って生きられたという点で、その方が幸せな人生なのだと僕は思います。
人間は死ぬ直前まで生きています。何かを成し遂げたあとに希望を持たずに時間をやり過ごすより、直前まで何かをやっていた方が幸せなら、幸せな人生とは、未完成、完成しない人生のことです。「せめて○○をやってから死にたい」という願望は、決して不幸なことではなく、ごく普通の幸せの一般論を語っているに過ぎず、その気持ちに振り回されるのは、一番もったいない時間の使い方と言えます。
ということで、ちょっとまとめてみます。
★人生の有限性を認めずに、少しでも長生きしたいと思うことは、子どものほうが先立つ年齢まで生きたいといっていると同じです。★人生の未完成さを認めずに、何かをやり遂げたいとこだわることは、何もすることがなくなってしまった最後の時間を退屈に過ごすことを望んでいることです。
★「せめて……」に煩わされて、自分がやりたいことができない時間を過ごすことが、一番もったいない人生の使い方だ。
★病気がこの先どうなるかを悩むより、自分が人生でやっていきたいことを、限られた時間と生活の中で、どうやってひとつ、またひとつと実現するかを考えた方がいい。
こんな感じで、「せめて……」の気持ちに整理を付けていくと、次第に心が落ち着いてきて、今やっていきたいことをしっかりやることの大切さに目が向くようになります。そして、思い煩わされる時間があるなら、その時間で、やるべきこと、やりたいことをやる方がずっとよい人生の使い方だという、あたりまえのことに気がつくのです。
bibiちゃんにはこんな話をして、具体的に、自分の知っている人、自分たちに共通の思いを話し合いながら、考えていきました。これを数回繰り返していると、だんだん彼女の気持ちも落ち着いてきて、今は、特別なきっかけがなければ、思い煩うことなく、自分のやることに向き合っています。病気がわかる以前より、ずっと前向きに生きているように感じます。もちろん、実際の健康状態もいいからですが、ちょっとしたことで気持ちが弱くなっても、短時間で立ち直れるようになりました。
死ぬことは、誰もが避けられないものです。死という境界ポイントを考えるとき、死ぬ直前までは生であり、よく死ぬことは、よく生きていること、という言葉の意味に思い至るのです。死ぬのが怖いときは、生きることが怖いのでしょう。
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