(by paco)先週に引き続き、人の生の有限性について書いてみます。
先週の記事で、「問題なのは、普通の楽しい生活が送れるはずだった今日という日を、思い煩うことで、普通に楽しい生活が送れないこと」と書きました。
僕たちにとって、今日という日を、不安に心を揺さぶられることなく、安心して、そして希望を持って生活することがいちばん基本的な幸せだということですが、これについては反論があるかもしれません。今日が充実していたとしても、1か月後、1年後、10年後の今日も充実していると思えないと、いやだし、まさに今日の充実も帳消しになるような気がする、と言うことがあると思います。
また、今日という日が充実していなかったので、明日こそ、1か月後こそ、充実させたいと思う人も多いでしょう。そして充実させたい1か月後の日が病気の悪化で充実させることができないとしたら、そんな悲しいことはないと思うこともあると思います。
でも、いま仮に病気でなかったとしても、明日、1か月後、1年後に、充実した日を送れるという保証はどこにもありません。それどころか、今日病気でなくても、1か月後には事故にあって死んでいるかもしれません。自分が健康で1か月後を迎えられても、家族や親友など、身近な人が不幸な状態になっている可能性も十分あります。
僕たちが充実した、幸せな今日を終えることができないことは十分あるのですが、だからといって先の日に期待をかけても、それが現実のものになるわけではありません。
今日より、先の日の方がきっと充実し、幸せになっているはずだと期待をかけることは、つらい日常を生き抜くためのよりどころにはなりますが、しょせんそれは、可能性のひとつに過ぎません。
だったら、今日病気であっても、1か月後にはなぜか重病が全快していると期待をかけても、実は同じことで、希望は生きるよりどころになるとすれば、それは今病気であってもそうでなくても、まったく等価なのです。「病気ではないけれど、今日は充実していなかった、1か月後はきっと充実しているに違いない」。そう考えることと、「今日は病気でつらかったけど、1か月後は全快して幸せだ」と考えることとは、実は同じ構造を持っています。違いがあるとしたら、病気がわかっていれば、全快する可能性が小さくなり、期待も小さくなる、ということですが、でも実際に1か月の日、充実しているか、そうでないかは、確率で測れるものではありません。あるのは、その日、充実しているか、そうでないかの、2つにひとつです。今日という日が、70%幸せで30%不幸という日はありません。夜寝るとき、今日は充実していたなと思うか、そうでないかと思うか。別の言い方をすれば、今日という日を納得して概ね終われるか、そうでないか。今日がふたつにひとつなら、1か月後もふたつにひとつです。
逆に、充実した人生を求めるなら、日々繰り返される「今日」を充実させ、幸せにする以外に、人の幸福はないとも言えます。今日も、1か月後の今日も、充実して終われたと思えるなら、その積み重ねの上に幸せな人生というものが描かれていくのです。
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人は死ぬその日まで、充実していられるといいと考えます。ぽっくり死にたいと言う人が多いのですが、ぽっくりとは、死ぬその日まで充実していて、そのあと充実していない日々を過ごすことなく死ねたらいい、と言う意味です。
でも、それは本当に納得できる死でしょうか。
少なくとも、残された家族にとっては納得できないでしょう。家族が死を受け入れられるとしたら、その人の生が少しずつ弱くなり、このまま言ったらいのちの火が消えてしまうのはやむを得ないと思えるから、死を受け入れることができます。いのちの火がはっきり燃えているのに、翌日急に死んでしまうというのは、事故死などがそれにあたりますが、なかなか受け入れられるものではありません。また、本人としても、実際に唐突に死が訪れたら、ちょっと待って、聞いてないよ、とおもはずで、「どうやらこれがぽっくり死ねるということだ、希望が叶ってよかった」とはなかなか思えないものでしょう。
死を受け入れ、納得するには、本人にとっても、家族にとっても、いのちの日がじょじょに弱まっていき、これはもう戻って来れないと感じられる時間が必要です。そしてその時間をいかに心静かに過ごせるかがカギを握っている。だとすると、幸せな死、納得できる死とは、生をゆっくり弱めていく時間が必要で、病気になって死ぬというのは、事故死などに比べれば、納得できる死である可能性が高いのです。
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もうひとつの場合を考えてみましょう。
十分長く生きて、老衰で死ぬ場合です。bibiちゃんの祖父は101歳で老衰で静かに死にました。僕らは死期が近いということで、死の数か月前に会いに行きました。ふたりは自分の部屋にこたつとベッドを入れて、トイレや食事は自分で取りながら生活していました。最後まで寝たきりにもならずに夫婦そろって生活できるというのは、今どき幸せなことだなあと思ったのは事実です。でも、果たして今の生活が、生きられてよかったと思える日々なのかと考えると、素直にそうは思えないものがありました。
病気などの苦しみはなかったのですが、すでにかなり身体も弱っていたので、普通に食べて飲んで出して寝るという生活をするだけでも、けっこう大変そうでした。言葉を口に出すのもおっくうそうで、夫婦間は長年の関係でコミュニケートがとれていたようですが、息子(おじ)夫婦や僕らから見れば、何をどうコミュニケートしているのか、よくわからないような状態でした。耳も遠くなるし、大きな声も出ないし、ちょっとしたものを取るのも大変そうでした。健康で長生きしているのは間違いなかったのですが、年を取って衰えれば、つらいことには変わりがないように見えました。
病気になって死に近づくことはつらいことです。でも、死に近づきつつあっても、痛みや苦しみが無く、じょじょに体の能力を失っても、最期の近くまで自分で食べて出して寝ていられるなら、病気でそうなっても、老衰でそうなっても、違いはないだろうと感じられました。もちろん、寿命が長い、短いの違いはあります。でももし老衰でゆっくり死ぬのが幸せな死だとすれば、病気で死ぬのも、苦しみのコントロールさえできれば、違いはないと思えました。
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寿命は、長い方がいいのでしょうか。
誰もが長い方がいいに決まっていると答えるかもしれません。でも100歳を超えた老人を見ていると、それも疑問です。自分と同世代の友だち、親類、そして自分の子供の世代さえも、自分より先立ってしまうのが100歳の長寿命です。誰も友だちがいなくなり、最期は子供ともコミュニケートがとりにくくなると言うのは、とても孤独な最期です。一方、比較的若く死ねば、自分の最期は多くの友だちに囲まれて死を迎えられます。というより、死の直前までの生の時間、友だちや家族と一緒に過ごすことができます。長寿命になってしまえば、生きているのに、会うべき人がいない状態になります。どちらが幸せな最期の日々かは、簡単には決められません。
ではちょうど平均寿命なら幸せなのか。そうかもしれません。でも平均寿命というのは、早死にする人と長寿命の人との平均値であって、あくまでも結果です。どういうことかというと、実は平均寿命というのは、ゼロ歳児の平均余命のことです。50歳になれば、50歳の平均余命があります。80歳も同じように平均余命があります。平均寿命、つまりゼロ歳児の平均余命が80歳であっても、80歳になったときの平均余命は5?8年あり、85歳の人の平均余命も2?5年あるのです。つまり、生き延びれば生き延びるほど、平均は先に延びていく。それが平均寿命というものです。だとしたら、50歳の人にとって、何歳まで生きればちょうど幸せな、納得できる寿命と言えるのかは、もちろん簡単に決めることはできません。79歳になったひとが、「平均寿命が80歳だから来年死ぬといいね」と言えるのか? 79歳の人の平均余命は5年あるにもかかわらず、です。そんなことを言う人は見たことがありません。
一方、僕の母親は前回も書いたとおり、50代で夫に死に別れてから30年間、早く死ねればいいのにと言い続けてきました。そういう「余生」が不幸だとは言わないものの、望ましい30年なのかと言えば、望んでいなかったと本人はいうでしょう。人生の長さは、長くても短くても、結局のところ、納得できるわけではないのです。
短い人生は納得しにくいでしょうが、長いからといって納得できる人生になるわけではない。こういう理解は、人の幸福を考えるときにとっても重要な理解の仕方です。
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もうひとつの観点を考えてみます。自分の人生でやり残したことがないか、という点です。人生の意味や目的という考え方が、人生を見るときのよい視点なのかは疑問がありますが、それはひとまずおいておきましょう。自分がめざしていたことを達成できたと感じられれば、納得して死ねるのではないかという考えがあるのは事実です。
では、70歳で自分のめざしていたものが達成できたら、80歳で死ぬまでの10年間は、これを達成したいという、さらなる目標を持たないものなのでしょうか。もし持たないとしたら、それは希望をまったく持っていないと言うことに等しく、ただ生きていること以外に、何も求めていない10年間です。70歳で達成した何かに思いを巡らすだけで、ほかには特に達成しない10年間が、幸せな時間なのか。
僕は、自分が生きて、何かをする力が残っている間は、わずかな力であっても、何かをなしていきたいと考えているし、そういう生き方が幸せな生き方と思っています。でもこのことは、逆に言えば、達成したいことを達成できずに、未完に終わる可能性が高い生き方だと言えます。ある時点で「自分はすべてやることをやった、もう何も求めない、そうすれば中途半端な人生ではなくなるから」ときっぱり考えることはできますが、たぶん、それは充実感が少ない生き方だと思います。自分の人生が未完のまま終われば、「あれができなかったのは本当に残念だ」と思いながら死ぬことになるでしょう。それは不幸な死に方なのでしょうか。
昨年、「ヤマガラの森」をつくり、この点について迷いが吹っ切れました。人生は未完でよかったんだ、未完だから幸せだったんだ、と。
「ヤマガラの森」は、僕の人生の間に完成することはありません。自分の生を超えて残したいから始めたことですから、完成したら元も子もありません。自分が生きている間、何とか自分が求めていた姿であることぐらいしか、望みようがないことを始めてしまったのです。僕が死んだあと、森がどうなるのかは、僕がコントロールしようがありません。それを承知で始めたことです。未完を求めているのですから、未完成で終わる事は自分の望みが叶って幸せなことです。
未完であることは、不幸ではなかったのだ、自分が精一杯生きたことの証なんだと思えたら、達成できていないことがあるという事実が、受け入れられるようになりました。達成することを求めながら、達成しないことこそ幸せだと考えるのが、人生の幸福なのです。
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こういう考え方は、もしかしたら、若い人には受け入れがたいかもしれません。僕が10?20代のころも、こういう考えは理解できなかったように思います。それでも、僕は過去においてきた20歳の時の自分に、こういう考えを話して聞かせたいという気持ちがしています。今の年齢の自分が説得すれば、20歳の自分は納得させることができるような気がします。
結局のところ、病気になって死が身近になっても、日々を充実させてさえいれば、幸せな人生は送れる、というのが僕の考えです。人生の幸せとは、それ以外にはないのではないかと思えるのです。
病気になることの問題は、痛みや苦しみや治療に妨げられて、今日を充実させることができないことであって、早く死ぬことそのものではない。だとしたら痛みや苦しみや治療の時間を最小限にすることが重要で、病気になったことを嘆くことや、不安で心が振り回されることは、もっとも避けるべきことだとわかります。嘆くヒマがあったら、不安になるヒマがあったら、今日を充実させるべきなのです。充実させるのに十分な程度に苦痛がないなら、そんな貴重な日を嘆いて過ごすことはもっとももったいないことです。
もちろん、実際に僕自身が死に至る病を患ったら、こういう気持ちになれるかどうかはわかりません、なれないでしょう。でも、何をするべきかに迷うことはなくなると思います。家族が病気になったとしても、同じように、何をサポートすればいいかもはっきりわかります。うまくいくかどうかはわからないけれど、道は見えている。これは大きな違いを生むはずだと僕は思っています。
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