2011年12月アーカイブ

(by paco)これまでエネルギーについて意思決定をしてきたのは、経産省の官僚、電力会社、そして自民党の一部の(経産族などの)政治家だった(→Click!)。

■合意形成型の意思決定システムを日本で機能させる

これに対して、一般市民の意見をこの意思決定にどうのように影響力を与える力を持つことが、エナジーシフトに対する政治シフト(ポリティカルシフト)だ。

政治シフトには、大きくふたつのレイヤーがあり、ひとつは国政レベル、もうひとつは地域レベルだ(→Click!)。両者は基本的には同じ考え方で整合性がとれている必要はあるが、実際にはそれぞれ独立して変革することになるだろう。

国政レベルになると、関わるステークホルダーも増え、動くカネも大きくなるので、意思決定が難しくなる。いろいろな考えがあるからむずかしいよね、という一般論で考えがちになり、意思決定のプロセスや、決定事項に多くの人が疑問を感じていたとしても、あきらめてしまうことになりがちだ。

議会の多数決というのは、その点、納得感が出しやすい方法だとはいえるが、構造を見る(→Click!)と、国会の本会議で、代表者全体で議論することはなく、一部の関係者のみで決めている。小さな部会をつくってワンサイドで決め、その部会の決定に権威付けして、次の会議対を通過させ、国会を通過させ、というようにやっていくと、結局ごく少数の人たちが決められるようになる。

(by paco)エナジーシフトを実現するには、政治シフトが必要だ。

福島原発事故以後、エナジーシフトを考えると、単にエネルギー利用を変えればいいというものではないことに気付く。

■原子力村は55年体制の国会運営から生まれた

これまでエネルギーについて決めていたのは、電力村、原子力村と呼ばれる経産省と電力会社の複合体だった。この体制が始まったのは、実質的には1970年代だと思われるが、その根は「55年体制」(1955年に保守合同で自由民主党が誕生した)と呼ばれる、自民党一党支配の政治にある。

55年体制では、自民党が衆議院と参議院の両方で多数派を占めることが多かった。しかしその一方で、自民党内部は政策中心に集まった一枚岩の政党ではなかった。自民党は1955年に自由党と民主党(旧)が合併して誕生した経緯もあり、またそれ以前に、日本の戦後の政治体制になってから、新たに政治家になった議員が多かったため、意見がばらばらになりがちだった。また選挙制度から来る性質もあった。当時の日本の選挙は中選挙区制で個人に対して投票する方法だった。議員は有権者が「自民党の私」にではなく、どちらかというと「私個人に投票した」と理解しがちだったために、政党の理念(政策)より、自分の主張(有権者が支持した主張)を優先する傾向があった。そのため、自民党政治(55年体制)では、自民党の内閣(総理大臣)の意向には必ずしも従わず、自分の主張を優先する傾向が強かった。自民党の議員であっても、自民党によって当選したと言うよりは、自分の力と自分の選挙区の有権者によって当選したという意識だったのだ。

(by paco)現代社会では、身近な情報以外のほとんどすべてをメディアからの情報に頼って生活している。メディアの中でも、テレビ、新聞の二大マスメディアは圧倒的な影響力を持っており、エネルギー問題や原発事故を正しく理解するためには、大きな役割を果たしてほしいと期待されている。

しかし、実際には、市民がほしいと思う情報が伝わってこないという経験を、今回の原発震災で多くの人が実感することになった。

マスメディアからは大量の情報が流されたが、どのテレビ局、どの新聞も、あまり変らない内容の情報が多く、また内容的にも納得がいかないと感じられるものが多かった。

  1. 大メディアがどのように事実を伝えなかったか
  2. なぜ大メディアには、事実が伝えられないのか

の2回にわけて分析する。

(by paco)僕を含め、脱原発、エナジーシフトの立場に立つ人にとっては、原発事故の影響の大きさは説明するまでもなく重大としか言いようのないものだが、逆の立場に立つ人にとっては、実は「事故の結果はそれほど大きくない」という見解になる。

●なぜこのように真逆な見解になるのか。
●この見解の相違が何を意味するのか。

について、考えたい。

まず、順番を逆にして、下のイシューから考える。

■原発容認・脱原発の対立の中で、正当な判断が出来なくなること自体がリスクである。

「両者の見解の相違が何を意味するのか」と考えると、原発容認の立場から見れば、事故の被害やリスクが小さいほど、自らの立場を強固にできるということが背景になる。

当然、脱原発の立場では、事故の影響を大きく説明できた方が、有利になる。