(by paco)550((( c l u b p a c o ))) の構想(2)

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(by paco)今週も((( c l u b p a c o ))) について書く。

前回こんな話をした。

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先日電車の中で隣り合わせた夫婦が、右翼と左翼について話していた。ふたりとも基本的には右寄りの意見だが、とり立てて右の思想の強いシンパシーがあるわけではなさそうだ。しかし、自分たちは右だと考えていて、右寄りの思想について話していた。

さて、あなたは右翼と左翼の違いを説明できるだろうか。

実は、この話の中には、政治思想としての右翼・左翼と、経済システムとしての市場経済と統制(計画)経済が含まれている(含まれがちだ)。両者がごちゃ混ぜになることで、あまり適切ではない自己認識が生まれてくる。政治思想の右・左とはどのような違いか。経済システムの違いはなにか。
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政治的思想的立場を、よく右寄り、左寄り、という言い方をする。しかし、それが具体的に何を表すのか、その内容を理解した上で使っているのか? 自分が右寄りという認識がある人が、正しい理解の元に左寄りの人の主張を理解したり反論したりしているのか? そんな基本的なことも、((( c l u b p a c o ))) で押さえていきたいと思っている。

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一般に、政治思想や信条の点で右・左を使う場合は、次のように区別される。

現在の日本で「右」は保守であり、保守的とは、その社会(国)のその時点までの過去に支配的だった考え方を尊重する立場だろう。日本で今、保守といえば、大日本帝国憲法が支えた天皇中心の政治体制や家父長制的な家族制度、天皇を最高の神官とする宗教観などをさすことが多いだろう。民主的な政治体制そのものは、明治天皇の「五箇条の御誓文」にも「公論」という言葉が出てくるとおり、天皇制と必ずしも矛盾しない。旧憲法下の昭和元年に普通選挙法が成立していることからも、「右」寄りの思想と民主主義は矛盾しない。しかし天皇制と民主主義、議会主義が矛盾を示し始めると、天皇制のほうが優先される傾向があり、民主主義は優先順位が低くなるのが、日本の「右」の発想だ。よって「行きすぎた民主主義はダメだ」という言説になる(民主主義を肯定するのに、民主主義の問題点があらわになると民主主義を否定しようとする)。

これにたいしてに日本で「左」は、天皇制や国家神道、家父長制などを否定する立場になる。しかし、これが大統領制などの民主的な共和制(たとえば米国のような)につながらないところが日本の政治思想の特徴になる。日本を代表する左派政党として、社民党と日本共産党があるが、そのいずれもが、現行健保をすぐに廃止するという政策は打ち出していない。どちらも、民意に基づく憲法改正によって、天皇制を廃止すると主張している者の、現状、政治的な立場は護憲なので、少なくとも、天皇制廃止を前面に出して選挙を戦い、政権を取ることはないだろう。長期的に彼らが政権を維持すれば、憲法改正による天皇制廃止を提案するだろうが、そこまでの道のりはどう考えても長い。つまり、日本に実際にある左翼政党は、天皇制という立場ひとつとっても、急進的な主張はしていない。

その一方で、上記の夫婦の会話から、彼らが「左翼」をどのように理解しているかを考えると、次のようになる。左といえば、ソ連のような国家共産主義をさし、天皇制は否定され、すべての私有財産を否定して、個性も否定され、強制労働と引き替えに画一的な職住を支給する社会だと思想だという理解だ。確かにソ連や中国型の共産主義、社会主義はここにしるしたとおりだが、これはに本に存在する左翼思想とはかなり異なっている。

「隣り合わせた夫婦」の会話でソ連型・中国型の「左」が語られていたことに、僕はびっくりしたのだが、まあ、そういう認識が意外に一般的かもしれない、とも思う。

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この先の話に行く前に、左・右の区別の話をもう少し一般化してみよう。

もし「今」が明治時代の初期なら、保守とは江戸幕府を中心とした武家政治のことで各地を大名が独占的に支配した徹底した地方分権政治のことを指すだろう。天皇制や四民平等、中央集権的な政治は、進歩的な考え方だ。

1917年にロシア革命が起こったあとの1920年代のロシアでは、保守はツァー(皇帝)を中心とした政治体制だし、1990年(ソ連崩壊以降)以降のロシアで保守といえば、共産主義社会の復活を望む立場になる。

18世紀後半の独立戦争間もない米国なら、右(保守)とはイギリス国王の元で植民地として生きる立場で、左は独立して合衆国政府をつくる立場になるだろう。

このように、左・右の立場は、どの時点のどの地域で考えるかで、変ってしまう。

さて、「隣り合わせた夫婦」の「左翼・右翼」観に戻ろう。

日本の左・右では、民主主義(みんなで決める)は、左右どちらの立場なのかが、実は意外にわかりにくい。

帝国憲法には帝国議会(参議院・衆議院)が規定され、実際、1925年以降は衆議院が普通選挙で選ばれた議院で運営されている。ということは、民主主義は保守の伝統、ということになる。

一方で、せっかくつくられた普通選挙の議会は、始まってほどなくして軍によるテロ(5.15事件、2.26事件)や治安維持法による言論弾圧によって力を失い、民主主義の信任の薄い軍政内閣に移行してしまう。その後、日本は敗戦によって米国の占領統治を受け、現行憲法によって、再度民主国家になった。

改めて考えると、民主主義は右(保守)の領域なのか、革新(左)の領域なのかといえば、それぞれがたがいを「行きすぎた民主主義」(右からの批判)、「名ばかりの民主主義で実質独裁」(左からの批判)と非難し合っている状況になっている。

重要なことは、こういった構図をそもそも一般の市民が知らないことにある。こういった構図を知らずに、右と左を捉えていることが問題なのだ。

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ここに、経済運営のコンセプトへの理解が加わる。右寄りの人たちは、資本主義を「自由」と同義に捉えている。確かに資本主義は自由経済の上に成立するが、何もかも自由であればいい、と言うように理解されていたのは、資本主義の初期のころだけだ。アダム・スミスが「資本論」で、自由放任にすれば「神の見えざる手」に導かれて、市場経済はうまくいく、と考えたということをそのまま信じているかのように、右(保守)は自由を重んじ、いっさいの制約がないほうがいいと考えがちだ。右というのはそういう思想だと考えている。

これに対して左は共産主義で計画経済で、自由に経済活動ができないと考えていたりする。左翼が政権を取ると自由に経済活動ができないから、右寄りの方がいい、と考える。

実は、市場経済も自由放任ではうまくいかず、さまざまなルールが必要なことをすでに僕らは知っている。独占禁止法、株式市場の透明化、公正化など、実は多くのルールがあり、ルール(規制)があるからこその経済的自由だ。ではどのようなルールにすればいいか。ルールづくりの思想そのものに、実は左右があるわけで、左翼がすべて、市場経済を否定しているわけではない。

思わず、右翼と左翼の話が長くなったが、右・左の基本的な理解さえ、実はとても危ういのが日本のおとなの現状だ。

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((( c l u b p a c o ))) ではこういった知識をつかむきっかけを、ネット上(facebookグループ)でやってみようと思う。

こういった基礎的なことの理解は、<おとなの社会科>で教えていることも多いが、((( c l u b p a c o ))) はどちらかというと<おとなの社会科>より原理的、基礎的なことになるだろうと考えている。

とはいえ、両者の違いは、リアルセミナーでていねいに教えられる<おとなの社会科>と、ネット上で密度は低いが、ファクトを押さえつつ進められる((( c l u b p a c o ))) という、「会場」の特性によることになるだろう。さらにいえば、<おとなの社会科>はある程度フォーマットのある内容であり(毎月1テーマ、月3回でまとめる)、((( c l u b p a c o ))) はテーマの頻度もまとまる期間もまったく自由に伸縮したり、密度を変えたりできるという点で、それぞれの特性に合ったものにになるだろう。

実際のところは、やってみないとわからない。

[知恵市場 Commiton](web記事)と、以前のネットディスカッション型の知恵市場の両者を融合し、さらに<おとなの社会科>のゴール感を加えたもの、というぐらいの位置づけて、スタートしてみたい。

月額1000円というのは、たぶんかなりおトクだと思う。しかし、これとこれをやりますと明確に約束はしないで始めることにして、会員からの要求ハードルを下げつつ、それ以上の価値が提供できるとおもしろいと思っている。

2012年3月にスタートし、第1期を1年と少し、2013年6月までとして、その成果を見ながら、来年度の((( c l u b p a c o ))) をどうするか、考えていくことにしたい。

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