(by paco)521伝記を読むことは生きる助けになる

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(by paco)友人が伝記を書いて出版した。読んでみて、じつに示唆的な本だった。

■伝記が読まれなくなった

伝記、あるいは伝記小説というカテゴリがある。

日本では、すっかり廃れてしまった感があるが、世界では、伝記は子供や若い世代が読むべき本として、定着していると聞く。

日本でも、かつては伝記がよく読まれた。教科書にも載っていた記憶がある。野口英世だとか、キュリー夫人、ヘレン・ケラーなどは代表例だろう。娘の小学校の教科書にも、玉川上水をつくった庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)の話が載っていたようだが、以前より少ない印象だ。

伝記の題材になるのは、いわゆる「偉人」だ。エライ人、すばらしい人が、どのように育ち、何を学び、どんな業績を上げたのかを書いたのが伝記。その伝記があまり読まれなくなったのは、というか、読むように推奨されなくなったのは、おそらく「偉い」という価値基準が明確でなくなったからだろう。どんな人にも、さまざまな面があり、どれどれほどの業績を上げても、それが結局お金のためだったとか、実は周囲に対して威圧的だったとか、マイナス面もあるもので、そういった一面も知れ渡ってしまうと、「偉人」というイメージから離れてしまい、伝記の対象としてふさわしくない、と思われてしまう。

あるいは、特定の一面だけが強調されて、肝心なところが見えなくなってしまうこともある。野口英世でいえば、左手のやけどのことばかりが印象に残り、最も重要な、アフリカでの細菌学の研究成果については、印象が薄くなってしまうこともありそうだ。

伝記が読まれなくなった背景には、「偉人」についての誤解がありそうだ。「偉人は、どこまでも偉人で無ければならない=偉くないところがあってはならない」というような、「偉人の神格化」であり、神格化に邪魔なエピソードまで書いてある伝記は、シンプルなメッセージになりにくく、かえってめんどう、と言うことかもしれない。

とはいえ伝記は、志を立てるにはとても大切な意味を持つのも事実。今の社会をつくっている重要な発見や発明、業績を、一個人が自らの意思で行った、という事実を知ることで、その人物にあこがれ、近づきたいと考えたり、この人にできるなら自分にも何かできると考えて、行動を取ろうする動機もあるだろう。

伝記を読まなければ、人がどのように業績を上げるのか、あるいは何に躓き、どのようにあえぎながら前に進んだのかが伝わらなくなる。ある業績に至るまでには、さまざまな道があり、一瞬で着く人もいれば、努力を積み重ねる人、偶然からヒントを得る人など、さまざまな方法があることも分からなくなる。結果が出て以降も、すぐに評価される場合もあれば、時間がかかる場合、さらに本人の死後に評価される場合もあることなども、伝記によって伝わる。人が優れた業績を上げるのはどのようにしてなのか、参考になる事例を伝記は提供してくれる。

と、くどくど書いてきたが、実は友人が伝記を書いた。

■「池田菊苗」の伝記から学ぶ

上山明博著「うま味を発見した男」
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%86%E3%81%BE%E5%91%B3%E3%80%8D%E3%82%92%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E7%94%B7-%E4%B8%8A%E5%B1%B1-%E6%98%8E%E5%8D%9A/dp/4569795994/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1311445957&sr=8-1

著者の上山さんとは古くからの友人で、以前は広告的な仕事や、サイエンスライターとして科学をわかりやすく紹介する記事などを書いてきた。その上山さんが、ここ数年、集中してきたのが、この伝記小説の執筆だった。「小説を書いている」とは聞いていたものの、伝記小説だとは知らず、発行されたと聞いて読んでみたのだった。

主役は、池田菊苗(いけだきくなえ)。1864年生-1936年没。昆布のうま味成分「グルタミン酸」を抽出し、味の素として商品化した人物だ。

伝記は、淡々と進む。ドラマチックな人生であっても、故意に盛り上げて書いたのでは伝記にならない。そのぶん、退屈にも感じるが、淡々としていても、人生そのものではない。何を省略し、何を書くかで、書き手の力量が現れる。上山さんは精緻な筆の運びと、愛情ある視座で、淡々としていても、躍動感あふれる人物像を描き出した。実際、330ページの本を、一気に読めてしまうのだから、驚きだ。改めて告白するが、僕は長い本が苦手で、250ページを超えるとだいたい放置してしまうことが多いのだ。

菊苗の人生をなぞりながら、改めて、伝記を読む喜び、価値とは何かを整理してみたい。

冒頭のシーンは、菊苗の幼少期、家族で食べた湯豆腐の夕餉のシーンだ。湯豆腐が好きだった父親に習い、淡泊な豆腐料理をおいしく食べる食習慣や、うまい、という言葉を多用して、食に関心を持つ経緯を描いている。

僕はLife Design Dialogueという仕事もしているので、自分のやりたい仕事の原点について、子どものころや学生時代にさかのぼって考えてもらうことが多い。伝記には、その人物がなぜある領域で名をなすに至ったか、その領域に取り組む必然性が必ず描かれるが、池田菊苗の場合は、その原点が幼少期の食生活におかれている。

ある人がどのような理由で、志を立てるか。その構造を、伝記は必ず明らかにする。逆に言えば、何かしら根っこがなければ、志は生まれず、志がなければ優れたアウトプットは生まれない。こういう構造を、シンプルに見せることが伝記の価値のひとつである、伝記の読み手にとっては、「もし自分に何か根っこがあるとしたら、なんなのか」「菊苗にとっての<幼少期の湯豆腐>にあたるものは何か」を自問することになる。この自問から、自分自身の志を探る機能が、伝記にはある。

次に、志を絞り込んでいく過程が示される。どんな人でも、ひとつの志をストレートに進むわけではなく、いくつかの選択肢や分岐点がある。菊苗の場合は、化学を志す傍ら、英語や英文学(シェイクスピアなど)を教えていた時期がある。もしかしたら、化学者の道を進む人生だが、この時点では、菊苗には、英語教師の道や文学者の道もあったのだ。なぜ菊苗が化学者の道を歩むのか。その答えとして、筆者の上山さんは文豪・夏目漱石との出会いを挙げている。

池田菊苗は、この分岐点の直後、国費留学で欧州に学び、その際、イギリスに留学中の若かりし日の夏目漱石と一時ロンドンで同居して、文学や化学、世界観についてたくさん議論を交わす。この経験から、菊苗は、漱石の文学に対するセンスや真摯な態度には勝てないと感じ、自分の化学者としての道を定める、と上山さんは描いている。

志の根っこがあり、方向を決定づける経験があり、努力の時代がある。

日本に戻って、帝国大学教授になってからは、菊苗は後進の指導に当たるだけでなく、自らの研究を行うために、自宅に研究室をつくり、妻に昆布だしを大量に作ってもらいながら、うま味の研究をする。単に仕事としてではなく、自分のこころざしのために、仕事を離れても研究する姿を見れば、「会社の仕事だけをしていていいのか?」という疑問が生まれてて来るだろう。

他にも学ぶべきことはいろいろあるのだが、最後に一つあげておきたいのは、明治期の日本人のありようだ。

明治32年にドイツに留学した菊苗という日本人を、ドイツの教授がどのように受け入れるのか。また、日本人が臆せず先進国ドイツで研究活動をする姿を見れば、すでにこの時代の日本人が先進国人としての風格を持っていたことが感じられる。経済力から見れば日本は後進国で、まだ不平等条約の改正もできていなかったころではあっても、明治維新後、30年で、日本人は堂々と振る舞える実力をつけていたことが分かる。ドイツ人も日本人の研究を尊重し、よいものはどんどん取り入れる姿勢があり、実際、留学先の教授(後のノーベル賞受賞者)は菊苗が開発した実験手法によって、自身の研究を進めている。

日本と日本人の美点がどのように発揮され、どのように受け入れられたか、100年前のグロバリゼーションについても学べるだろう。

■伝記を子どものころから読む

かつては、子供たちに伝記をたくさん読ませた。僕も小学校のころ、夏休みに伝記を読む宿題が出ていたことを覚えているが、あなたはどうだろうか。

実のところ、小学校のころは僕は本が大嫌いで、特に退屈な伝記を読む宿題など、最悪な宿題だった。だから、子供に伝記を読ませよう、と今になっていうと、子供時代の自分から思い切り冷たい視線を浴びせられそうだ。だから、あえていわない。

しかし、伝記の価値は思っていた以上に大きかった、とは思う。

もしあなたに子供がいて、本、伝記が好きなら、ぜひたくさん読む機会をつくってあげてほしい。いずれ自分で将来を決める時期が来たときに、直接的な助けになるはずだ。

もし子供が、本や伝記が嫌いなら、あなたが読んで、話を聞かせてあげるといいだろう。小さな子供なら、寝る時の絵本の代わりに、ある人の生き様を話してあげるのもいいと思う。もうちょっと年長なら、たとえば子供が音楽が好きなら、音楽家の生涯を。ゲームが好きなら、小説家の生涯を(ゲームは、電子的に構成された物語、または擬似的スポーツかも)。子供と一緒に大賞になる人物を選び、伝記を読み、話すプロセスは、子供の心に残るだろう。

実のところ、僕は自分の娘にこういうことはしてこなかった。だから、今あなたに勧めているのは、ちょっと後出しじゃんけんのようにも感じられる。でも、もし昔に戻れるなら、絵本の代わりに、伝記の話ならしてあげてもよかったなと思う。

と、同時に、よい伝記は意外に少ないのかも、とも、思う。伝記を書いても、今の時代、そもそも編集者が出版を認めてくれないし、出版できたとしても、売れないだろう。でも、伝記が売れない社会は、やっぱり大事なものが伝わらない社会なのだ、と思う。

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