(by paco)先週、民主的な合意形成について書いた。
僕自身が書いたわけで、書いたことは正しいと思っている。しかし同時に、今行われているさまざまな議論を見ると、合意形成プロセスなど、軌道に乗るわけがない、という疑問も浮かんでくる。
なんとかできるはずだという確信と、実際にはきれいごとだろうという思いの両面で、往復運動している感じが、自分の中にある。そして、ここに確信が持ちきれないことによって、【iwato】の活動をこれからどうやって表に出していくか、自分の中に落ちない状況が続いている。
【iwato】の公開版の活動を、「エネこみ」という名前でやろうというのは決めているし、構想はすでに公開済みで、それ自体は揺らいでいない。しかし、それを通じて、誰が動くのか、そこに確信が持てない。
そんなことはやってみなければわからないじゃないかと、考える人もいるだろうけれど、僕はそうは考えない。これまでいろいろなことをやってきたけれど、どんな人が、どんなふうに動きそうか、それを自分が求めているのかについては、自分なりの確信がない限りやらなかった。やった結果、予想通りいくかいかないか、もちろん、やってみないとわからない。でも自分なりの見込みに確信が持てないでやったことはほとんど無い。
今回は、どうにも見込みが立てられない。そのことが、動きを鈍くしているし、何かをやっていても、居心地の悪さにつながっています。
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今、ニコニコ生放送で、菅総理を囲んで、<自然エネルギーに関する「総理・有識者オープン懇談会」>を放送している。菅首相、サッカー元監督・岡田武、音楽プロデューサー・小林武史、教授・坂本龍一、ソフィアバンク・藤沢久美、ジャーナリスト・枝廣淳子。
菅さん、楽しそうに話している。笑っている。メンバーが自然エネルギーの肯定派だし、菅さんはもともと市民活動の出身なので、未来に向けての夢を語る状況には、とても居心地がいいのだと思う。
そして、本来、社会の未来はこうやって、未来を楽しく笑いながら語れるミーティングの中でつくられ、生み出されていくべきなのだと思う。
で、この懇談会が、今のタイミングで公開で行われたことについての、政治的な意味については、別途分析するとして、一方で、この懇談会を聞いていての、違和感を感じ続けていることも事実としてある。
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居心地の悪さは、予定調和に過ぎることにある。
すべてのメンバーが自然エネルギー賛成派。市民として独自の活動をやってきていて、活、原発反対はそれほど声高に入ってきていないし、反対運動もしていない人たち。市民から見て、クリーンで、「自然エネルギー派」ではあっても、原発、反原発の色の付いていない人たち。
僕は、今日の懇談会を否定はしない。あとで書くように、これは政治的なアピールであって、今後の議論を起こすためのディスカッションではない。確かに、総理大臣が「市民」とフランクに議論する場が合ってもいい。しかしこれは民主主義ではないし、民主的な合意をめざす場でもない。
議論の公開性は重要だが、すべての議論をリアルタイムで公開すべきかどうかといえば、僕は必ずしもそうは思わない。ある部分の準備的なディスカッションは、非公開で徹底議論することが重要なこともある。そこで大勢が決まってしまうのはよくないが、すべてが公開で進むことはなく、すべて公開すれば、非公開のやりとりが地下に潜るだけだ。
今日の懇談会を、原発賛成派、自然エネルギー懐疑派の人たちは、冷笑してみていただろう。レームダック(死に体)状態の首相が売った苦し紛れの芝居、と受け取ることもできるし、実質的な価値も効果も何もないという批評もあるだろうし、登場した人を偽善者ということもできる。
それらの批判は、日頃、ツイッタなどであふれているものだ。
結局、今日のような懇談会は、脱原発派、原発推進派、どちらにとっても、新しいものは何も生んでいない。孫さんや枝廣さんが日々ツイートしたり、日刊温暖化新聞に書いてきたことを、再確認したにすぎないし、菅さんも、それ自体は始めて知ることではないだろう。
つまり、脱原発、原発推進、どちらの立場も、同じテーブルに着こうしていないという状況は、原発事故前とまったく違っておらず、唯一違うのは、脱原発の意見や人物が以前より増え、明かな少数派から、立場として市民権を得た、というレベルに過ぎない。
原発推進(容認)派が権力の中枢を押さえている構図にはまったく変化がなく、その力は多少揺らいでいるとはいえ、ほぼ破綻なく機能している。一般市民、特に産業界で実質的に力を持っている、経営者やマネジメント層は、基本的に以前から変化なく原発推進(容認)であり、どの企業にいってヒアリングしても、政府と東電への批判精神は、社内的にはまったく皆無といいきってもいいだろう。主要企業も、経営層から少し下がってマネジャークラスになると、批判的に見ている人も増えるが、それもあくまで個人の立場であって、企業人としては何もいわないか、話す試みをしても壁に当たって引っ込んでしまう。
たとえば、東洋経済 6月11日号「暴走する国策エネルギー 原子力」の中の記事「節電しないとこの夏、大停電もウソ」(p.49)のなかでは、東電の供給量は5620万キロワットまで回復できることが書かれていて、東電自身の予測5500万キロワットをすでに超え、電力は不足する可能性はぐっと低くなった。
一方で現在、各企業に節電協力依頼(命令)が経産省からのルートで下りている。節電時間は午前8時から20時まで。あれ? 夏のピーク電力は、昼間の数時間であり、日中ずっと節電するのは、ピークカーブとあわないじゃないか、と考える企業人は、残念ながらほとんどいない。電気がないんだからしょうがないよね。と無批判に従う。日頃から、国や役所に恩義を感じているような産業にいるならまだわかるが、役人の顔など見たこともないような人たちが、一方的な指示に疑いをもつより先に、「どうやってやればいいか教えて?」とはじめから従う姿勢を示している。
社会のメインストリーマーは、原発推進(容認)、現状維持でまったく変らず、主役の交代の気配もない。一方、脱原発、変革を求める声は、一定の市民権は得たものの、メインストリーマーに影響力を行使することはほぼできていない。総理大臣が脱原発派数名と懇談したところで、メインストリームから見れば、痛くもかゆくもない。
ネット上では原発推進と脱原発の議論は拮抗しているように見えるが、それは、ネット上なら、会社の中では言わない、脱原発の言説を語れるからに過ぎない。メインストリームには、今のところ、影響を与えられていない。
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たとえばグロービス代表の堀義人氏は、「電力安定供給論者」を自称し、「「脱原発」と叫ぶ前に、よく考えよ!」にあるような主張をくり返している。
止まっている柏崎刈羽原発を動かしてでも、電力を供給すべしと主張し、その一方で、節電には無批判に協力する。脱原発・自然エネルギーを主張する意見に対しては、「非現実的、考えていない」と批判する一方で、官僚や電力会社の主張には、現状の課題に批判の目を向けようとしない(「もっと電気をつくれ」という批判はするしているが)。
もちろん、このような主張には、いくつもの反論が可能で、前述の東洋経済に、すべて反論が書いてある。堀氏も反論は承知の上で、書いている。
脱原発・自然エネルギー推進の言説は、孫正義氏の主張をツイッタで追えば、あるいは、ISEPのサイトをブラウズすれば、さらに個人のサイトでも、無数に出てくる。これ以上いらないぐらい、出てくる。
しかし、両者は決して同じテーブルに載らず、合意形成は進まない。
ちなみに、同じテーブルに載らないのは、基本的にはメインストリームの方だ。彼らは、何もしなければ、自分たちは強い立場にいられる。無理に反対者と議論をする必要がないのは、今に始まったことではない。
堀氏の見解に対する僕の見解は、最後に述べる。
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さて、そろそろ結論に行きたい。
現状、脱原発・自然エネルギー推進の声は、メインストリームにはまったく影響を与えていないに等しい。
そんなことはないと考える人もいるだろうけれど、冷徹に見て、この3か月の成果は、そこまで大きくなっていない。結局、今の延長上に、メインストリーマーの交代劇はまったく見えていない。
仮に、脱原発・自然エネルギー推進派が人数的に国民の6?7割を超えるほどになっていたとしても、権力構造を変えることはできないだろう。なぜなら、これまでも権力構造を支えてきた人たちは国民の2?3割の人々に過ぎないからだ。
※国政の投票率は60%台であり、そのうち、与党を支持している人は実は半分以下であることが多い。当選者数と、得票数は一致しない。
つまり、「ネットなどで国民の声を大きくしていけば、(民主主義だし)多数派の意見が国を動かすだろう」という考えは、まったく当たらない。国民の声が実際に大きかったとしても(多数派になったとしても)、それとは別に、国民の声がメインストリーマーに影響を与えるような行動を起こさなければ、結局、意見は無視される。
無視された状況は、無力感を生み、自ら信じることを過小評価させ、ふくらんだ脱原発の動きは急速にしぼむことも考えられる。
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「ではなにをするべきか。」
実のところ、それが、わからない。
「何もしないより、何かした方がいい。」
それはそうだろう。しかし
「同じやるなら、何かが変る可能性のあることを考え抜いて選ぶべき」
「今のまま続けても、何も変わらない。これまでと同じように」
と思う。
そこで最初の問いに戻る。
「では、なにをするべきか」
それでも、前に進まなければならない。
意味のない結論だが、現状を書いておくこと自体にもすこしは意味はあるだろう。
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菅総理の懇談会が、今のタイミングで公開で行われたことについての、政治的な意味は、一言で言えば、四面楚歌の菅総理が、国民の中の脱原発派の心をつかむことで、支持を回復し、政権を延命しようとするものだろう。このような行動について、批判のほうが多いのはわかる。
しかし、僕は今のところ、この行動については支持している。菅総理が脱原発だから、ということもあるが、それは主な理由ではない。菅総理が辞めたとしても、よりよい総理大臣が生まれる可能性は感じられないし、よい政策が打ち出される可能性も感じられない。誰がやっても、画期的な変化はない。
それ以上に、密かな期待もある。
すでに菅総理は、与党内からも、党幹部からも、官僚からも支持されていない。国民の支持もない。逆に言えば、誰からの影響も受けずに、意思決定できる。支持母体があれば、支持母体の意向を反映することになり、支持母体の意思がまとまっていなければ、意思決定はあいまいになる。支持母体がないのに、権力の上に立っていれば、自由に意思決定できる。母体がなければ、意思決定しても、実行には移されないのが普通だ。しかし、それでも総理大臣である。その権限を最大限に使えば、やらざるを得ない状況をつくることもできるかもしれない。浜岡原発を止められたように。
このようなはちゃめちゃな意思決定は、僕が考える民主的な合意形成とはほど遠いものだ。しかし、それでも、何も変わらないよいかもしれない、と思うこともある。こういう発想は、非民主的でよくないとは思いつつ。
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堀氏の見解は、自分がメインストリーマーにいるからこそ書けることであることに気づいていない、という点で、彼らしくない。こんなにもあっさり、彼が「ベンチャー」としてメインストリーマーに挑戦してきた立場を忘れられるものかと、立場に対する理解の浅さに驚く。堀氏は書く。
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ジャーナリストや無責任な評論家が、「脱原発」と叫ぶのは、まだ許せる。だが、社会的に影響力がある企業家や知事、更には国会議員が叫び始めると、もの申したくなる。なぜならば、影響力の大きい責任ある立場の人が、国民を導く方向性が間違っていると、国民全体に多大な損害を与えるからだ。
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脱原発を、「ベンチャービジネス育成」に置き換えたら、そして時代を20年ほど戻し、彼がグロービスを起業したころに戻れば、この批判は、20年前の彼の行動をそのまま否定していることに気づくだろう。
90年代、僕らネットワーカーの間では、堀氏も含めて、「日本ではなぜベンチャーが育たないのか」という議論が盛んに行われた。メインストリーマーがベンチャーの存在を煙たがったり、ことさら無視していた時代だ。堀氏は彼の分野でそれに挑戦し、ある部分を破壊し、成功した。
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