(by paco)514民主主義の新しい形、社会正義の新しい形

| コメント(0) | トラックバック(0)

(by paco)社会的意思決定の話をしたい。

■現状の解釈は分裂し、和解は進まない。

原発事故以来、ずっと民主的な意思決定について考えている。

福島原発事故は、日本の意思決定システムが機能不全に陥っている結果として起きた。

(1)【技術】安全性を判断するための技術者の意思決定が、技術、科学の立場での議論が不十分なまま、あるいは強引に安全である可能ような数字を作ることによって、行われた。浜岡原発設計時の耐震強度「偽装」が好例。

(2)【立地】原発の立地自体が、民主的でない方法で行われた。地元の同意を得るために、多額の税金が支払われ、カネのためなら受け入れる人たちと、カネのためであっても受け入れないと考える人たちの間で、地域に深い溝をつくり、民主的合意形成に対する信頼が失われた状態で、原発がつくられてきた。

(3)【安全議論】原発がつくられて以降も、安全性を疑問視するさまざまな議論が示されたが、それを合理性のある議論を通じて判断する機会が無く、実質的に無視され続けた。

(4)【意思決定システム】経産省、資源エネルギー庁、電力会社、国会がすべて談合状態で、原発推進を前提にすべての意思決定を行ってきた。意思決定を行う合議機関に多様なステークホルダーが関わるしくみがなく、批判が封じられた。すでに崩壊している「核燃料サイクル」が今も放棄されずに、無駄金が投入されているのは、その最たる例。

このような現実について、「見たくない」人たちがいるのは一方の事実で、これらを「おかしい」と思う人と、「おかしいと思わない」人がいま日本の中で分裂状況をつくっている。この両者の溝は原発事故直後から生まれたが、事故から3か月を経て、さまざなな情報と意見交換が、多くの場で行われたが、結局、両者が和解することはなく、溝は決定的となっている。どちらも、議論に疲れ、お互いに問題に触れないようにし始めている。

典型的なのが、僕と堀義人グロービス代表とのやりとりで、事故から2週間程度のころは、自然エネルギーの導入ポテンシャルについて議論ができたが、今は完全に別の向きを向いており、堀さんは自然エネルギー導入に積極的な孫正義ソフトバンク社長を「政商」といわれのない言葉でののしっている状況だ。

僕から見ると堀さんの物言いはまったく合理性がないと見えるが、「自然エネルギー導入によってコストアップになり、経済が悪化する」と考える彼から見ると、僕の方が頑固者に見えるのだろう。彼は風車や太陽光パネルの金額を「コストアップ」と見なし、僕はこれらを「投資であり、将来回収して余りある」とみる。彼は「コストアップによって日本経済がつぶれれば、将来回収すべき<日本経済>さえ残っていない」と考え、僕は「適切な投資を行わなければ、将来日本経済は存続基盤を失う」と考える。両者の溝は、予想以上に広く、深い。

■合意形成の中で、哲学が果たす役割が重要

では、本当に両者の溝は埋まらないのか。

この溝を埋める努力こそ、民主主義そのものだ。

僕はどこまでも民主主義者であり、独裁的意思決定に反対するものだ。

一方、堀さんは、究極的には民主主義者ではない。彼は意思決定は最終的には、「責任を委譲されたリーダーが自らの責任を持って決めるべきだ、意思決定の結果が間違いなら、職を辞して責任を取るべき」と考えている。

僕はこの主張を究極的には否定する。このタイプの「リーダーシップ論」は、僕から見ると、旧モデルに見える。なぜなら、堀さんのリーダーシップ論は、結局のところ、「議論がまとまらなければ、リーダーが決着をつける」という、独善を背景にもっているからだ。僕はどこまでも独善を認めない。

この、僕の議論に対しては、違和感を感じる人が多いと思う。

多くのビジネスパースンは、こう考える。

多様なメンバーが集まって議論をする。十分議論を尽くしてもひとつの合意にならなければ、最後はリーダーの決定に一任する。そしてリーダーが自らの責任で決定する。それで十分民主的じゃないか、と。

僕はこのやり方は、民主的ではない、と言う。

僕が示す意思決定の方法はこうだ。

多様なメンバーが集まって議論をする。十分議論を尽くした結果、A、B、C、3つの案に分かれて、決着が付かなくなった(堀さんなら、ここでリーダーがどれかを選ぶべきという)。

実は、ここに、別の議論が必要なのだ。

A、B、C、どの案を選ぶべきかを判断するための、判断基準をどうするか。

このような場面での基準を、「哲学」と呼ぶ。どのような哲学をもってものごとを決めるか、と言うことだ。

実は、欧州では、ABCの案を作る前に、どのような哲学をもってこの議論を進めるべきかを議論する。

スウェーデンでは、この場面で、「経済に過度な負担をかけない限り、原則的に自然エネルギーを優先的に使う」と言う哲学を提示した。

この段階で、他にも「哲学」を採択する可能性があった。

「エネルギー選択には、経済性を最も重視する」
「エネルギー選択には、最先端技術の成果を重視する」
「エネルギー選択には、環境汚染・環境破壊が最も小さなものを選ぶ」
「エネルギー選択には、短期的なメリットが最大化するものを選ぶ」
「エネルギー選択には、長期的なメリットを最大化するものを選ぶ」

何が最も重要な価値なのか、どのような社会をつくるべきかを先に議論する。その中で、欧州では、「すべて自然エネルギーでまかなうのが理想だ」という理想の合意を行っている。できるかどうかはわからないが、理想的にはこれを選ぶべきだという点を合意する。

この段階で、経済性や技術論などは出るだろう。しかし、「もし可能なら、自然エネルギーでまかなえるのが理想」という見解に、NOといえる人はいるだろうか。少なくとも欧州の人々は、現在の意見は違っても、この点には合意できると考えた。これが一つ目の価値になる。

次に、ではそれは実現できるのか、という議論になる。技術的にできるのか、できたとして、停電が起きたり、不都合はないのか。もちろん、経済的にできるのか。この点では議論が分かれるだろう。分かれるとことは、哲学にしにくい。そこで、さまざまな人が合意できる「経済性」の観点を残す。

現状、石油やガスや原子力を安価に使うことで、経済的繁栄を享受できている。これをいきなり失ってまで、自然エネルギーを進めることには、合意できないだろう。しかし、経済の観点で負担が許容できるなら、なるべく自然エネルギーであるべきだろう。

こうして、原則が生まれる。

「経済に過度な負担をかけない限り、原則的に自然エネルギーを優先的に使う」

この場面で、過激な自然エネルギー推進論者は、妥協を強いられる。「経済優先で自然を破壊し続ければ、人間は生きていられないだろう。自然への負荷を減らすことを最優先すべきではないか」と考える人々にとっては、上記の原則は、受け入れがたい。しかし、ここで合意できなければ、その後、意見を反映させるためのポジションが、後退してしまう。合意に参加しなくても、外から意見を言うことはできるだろう。しかし、合意の中の留まった方が、影響力は行使できるだろう。

逆に、経済最優先の人々も、同じように考える。「自然エネルギーを増やすなど、経済的にはまったくあり得ない。優先して使うなどと非現実的な合意は納得できない」。そこで、この会議を蹴って、立ち去ることも考える。しかし、踏みとどまる。原則の中に「経済に過度の負担をかけない限り」とある。経済への影響を限りなくゼロにするように求めることはできるかもしれない。求めているのは経済の発展であって、原発や石油かどうかの優先順位は低い。また、会議から抜ければ、影響力が落ちてしまい、どんな不経済な決定がくだされるかしれない。であれば、原則に同意しよう。

合意に入りたくない両極の意見であっても、なんとか合意できる原理原則を作る。

そのうえで、ABC案の検討に入るのだ。

■ドイツが意思決定を変えられるのは、哲学があるからだ

福島原発の事故の直後、ドイツは脱原発を宣言した。いや、もともと脱原発派決まっていたが、当初の予定より、後退して、長期間使うことになっていた。しかし、すぐさま意思決定を変えて、もともとの計画通り、早く原発をやめる案に戻した。

このような意思決定ができるのは、国民が原発が嫌いだったり、意思統一ができているからではない。日本と同じように、多様な意見がある。しかし、違うのは、原理原則を作り、合意形成を行ってきたことだ。

福島原発の事故で、状況が変わった。何が変わったのか。ひとつには技術水準の高い日本で、これだけの大事故が起きたことで、安全性の評価を変えざるを得なくなった。ふたつには、福島原発の事故の影響範囲を科学的に予測したときに、経済的、国土的、時間軸的な影響が従来の予測以上に大きいことが分かったこと。

このふたつをかけ算すると、ドイツの原発の事故の可能性は間違いなく高く見積もらざるを得なくなり、事故になったときの損失も高くならざるをえず、原発を運転する想定コストがぐっと高くなる。どの程度と見積もるかの計算を事前にやっているので、パラメータの変更をするだけで、すぐに計算ができるのだ。

さらに、原則に戻ると、「経済に過度な負担をかけない限り」という哲学に行き当たる。自然エネルギーは、ここ10年の推進で、経済負担がだいぶ下がってきた(技術開発と、社会的コスト負担のしくみの開発)。その一方で、原発のコストがぐっと上がらざるを得ないことが分かった。であれば、自然エネルギーにさらに優先順位を置くことになるのは、当然だ。

こうして、原理原則から、自動的に新しい答えが導かれる。

日本で事故が起きてから、あらためて議論をして、意思決定をしたわけではない。議論の方法はまったく変える必要はなく、パラメータの代入数値を変えただけで、結論が変るのだ。合理性が高い。

もちろん、実際には、パラメータはもっといろいろあるだろう。原子力産業の勤めている人たちの雇用問題とか、欧州全体の電力系統に与える影響とか。しかし、これらは意思決定に関わるステークホルダー(労働組合の代表とか、電力技術の企業とか)が事前に影響範囲をもっていることで、容易に議論に参画できる。

因果関係、パラメータといった考え方をもとにした徹底した合理性があるから、結論がクリアに出る。しかも、あとになって結論がひっくり返ることも少ない。変ったとしても、合理性がある。

■日本に合理的意思決定はできるのか?

論理思考を教える立場にある僕としては、そして、民主主義を大切にする僕の立場としては、欧州流のやり方(エネルギーデモクラシー)をぜひとも日本に導入し、あらゆる意思決定を変えたいと思う。

そしてそのために、これまで数千人の人々を教えてきたのだと思いたい。

しかし、クリティカル・シンキングクラスを開発したグロービスの長が、真逆の立場をとっていることに、暗澹たる気持ちにもなる。

それでも、あきらめるつもりはない。

困難であっても、肝心な人々をまるで動かせなくても、可能な限り力を尽くすことだけはやめたくない。

理解者と、共感者に、行動をともにしてもらいたい、と思う。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://w1.chieichiba.net/mt/mt-tb.cgi/335

コメントする