(by paco)あ?珍しく、くだらないやりとりをしてしまいました。今日(2011/05/21)のtwitterで「@ohagiya」という人とのやりとりを見れてしまった人、見苦しいものをお見せしました。
ちょっと反省文を書かないと、コミトンを書く気持ちになれなかったので、書いてみました。
この議論を続けても、相手を傷つけるだけなのはわかっていたのですが、やらずにいられなかったのは、このところの僕自身のメンタリティを象徴しているのでしょう。原発事故以来、珍しく力んだ状態になってまして、もっと力を抜いた状態でやらないといけませんね。余分な力が入っていると、かえって本当の力が出ないのは、何ごとも同じ。
さて、なんの議論をしていたのかという話をしましょう。
大阪府の橋本知事が選挙に勝って、「学校の式典で国旗国歌に対して起立しない、歌わない教員をクビにする、その条例を作る」と言い出したことについてです。
議論としては、以下の議論が参考になると思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1062478705
http://hogehogesokuhou.ldblog.jp/archives/51723950.html
今回twitter上での僕がやった議論は、上記サイトの内容とは違いますが、大筋ではほぼ同じような議論です。
僕の立場は、コミトンの読者であれば話すまでもないと思いますが、当然のことながら、この橋本知事の立場とは真逆で、こういった発言、そして条例案はすべてとんでもない暴挙であり、憲法違反であり、世界人権宣言を含めた、人類の知的達成への醜悪な挑戦だと思います。阻止しなければなりません。
ということに、みなさんが同意してくれるかどうか不安になってきますが、僕がそういう立場であることは分かってくれるでしょう。
が、実際にネット上の議論を見てみると、橋本知事の意見に賛成してしまう人の多さに愕然とします。驚くべきことです。この議論ではよく、「右傾化」という言い方で説明されたりしますが、どうやら違うようです。イデオロギー(思想)としての右傾化ではなく、社会的な合意形成についての理解不足、徹底したアウトソーシング意識、無関心にありそうです。
上記サイトでの、橋本支持の意見の代表的なものとして、「公務員なんだから、議会の決めごとに従うのは当然でしょ」という主張があります。
これは妥当なのでしょうか?
先ず、現段階では、橋本知事が「起立しない、国歌を歌わない教員はクビにする」という条例をつくると言っている段階で、条例自体はまだできていません。できたら、首になるのは当然、というわけです。
現段階で考えなければならないのは、「起立しない、国歌を歌わない教員」をクビにすること自体、妥当なのかどうか出会って、ルールが決まったら、首になるのは当然かどうかではありません。
では、国が国旗、国歌を定めたら、公務員は規律、斉唱しなければならないのでしょうか。すでに国旗国歌の法律はできているし、学校の式典は校長と教育委員会に内容を決める権限があるので、式典で国旗国歌を歌うこと自体は、同意する必要があります。同意しない場合は、法律を変える運動をする、ということですね。
では、式典で国旗掲揚、国歌斉唱のときに、座ったままで歌わないことについて、どう考えるか、です。
これを強制的に排除しようというのが、橋本知事がつくろうといっている条例案です。
この条例案(の案)には一見合理性があるように見えますが、実は問題があります。
最初の問題は、憲法が保証する思想信教の自由に抵触するという問題です。例えば、教員がキリスト教徒の場合、君が代を「神道の信仰を歌った歌」と認識して、これを歌わないとすれば、歌わないことを認めるのが、憲法の趣旨に沿っていることになります。
「歌わなくても、立って、クチパクすればいいじゃないか」という意見もありそうですが、これは信仰を尊重しない立場です。かつて、江戸時代初期にキリシタンが禁教になったとき、幕府は踏み絵を強要しました。信仰を象徴することに反すること(踏み絵や、異教の歌を歌うこと)を強要することは、充分に宗教迫害に当たります。
でも、今回の橋本知事の条例は、キリスト教徒を主な想定ターゲットにしているわけではなく、いうまでもなく、「サヨク」的、「日教組」的、「非国家主義」的、思想信条を対象にしています。さらにいえば、国が決めたことには従え、という国家中心主義の考え方に反論する人たちが対象です。
ではなぜ、国家中心主義に反論するのか。
それは、日本で、かつて国家中心主義によって、たくさんの無意味な死が強制されたからですね。
国家が国の主張を優先し、個人の主張を無視、あるいは棄却することがあたりまえになると、国と反する意見を持つ人は社会から虐げられ、さらには国と意見をともにする人まで、ムダな犠牲を払うことになる。
※1945年、3月の東京大空襲、ふたつの原爆をおとされても、日本がなかなかな降伏できなかったことによって、数十万人以上が犠牲になりました。戦争をやめるべきという意見をまったく言えなくしてしまったために、戦争をやめることさえできずに、無駄な死が積み重なったのです。
国家は、個人の自由を最大限にするために存在している。国家は、個人が個人の自由が互いにぶつかって解決困難なときに、はじめて介入してルールを作る。
これが自由主義の考え方であり、日本国憲法の理念です。(憲法11?14条)
橋本知事のやり方は、個人の自由を最大限尊重するようもとめた憲法の趣旨に反している、と考えられるのです。しかし、日本では、条例そのものが憲法に反しているかどうかを審査する憲法裁判所はありません。あくまで、条令や法律によって何らかの不利益を被った人が、憲法を縦に争うことができるだけです。そして、多くの場合、こういった憲法論争は、憲法に踏み込まずに、手続きが適切かどうかで判決が出されて敗訴します。弁護士である橋本知事は、日本の裁判のこういう構造を熟知して、意図的に憲法違反の可能性のある条例を作り、それでも憲法違反は問われないと高をくくっているのです。あるいは、仮に憲法違反という判断が示されても、その時までには何年もかかり、橋本知事のねらいは達成できていると踏んでいるのでしょう(おそらく、その時彼は知事ではない)。非常にずるがしこいやり方です。こういう頭の使い方をしてはいけないのですが、このように見え見えの使い方しかできない橋本知事は、小物です。
では、橋本知事は、なぜこの条例を作ろうとしているのか?
橋本知事がこの条例案をつくろうといしている背景は、イデオロギーの対立ではなく、都道府県など行政で決めたことを、広く社会に、強引に導入しようという、リーダーシップの問題と考えた方がいいでしょう。
橋本知事は、自分が主張する考えの実現を拒む公務員、教員の存在を許せない。いうことを聞かない人たちを排除するために、いうことを聞くだけの人を残そうとしているのが、この条例のねらいです。つまり、橋本知事が考える公務員改革に反論する人(橋本知事から見て、改革の仕事をサボタージュする人)と、国旗に起立せず、国歌を歌わない人は、オーバーラップしている、と言うことだと思います。
いわば、見せしめ的に、知事に従わない公務員を排除しようとしている。そのための条例と見ることができます。
ここで、実はふたつの問題が出てきます。
(1)国旗、国歌に異議を唱える教員が排除されることに、現実的な問題があるのか
(2)公務員改革が叫ばれる中、公務員の抵抗を排除するために、この方法は妥当なのか。
まず、(1)から。
(1)国旗、国歌に異議を唱える教員が排除されることに、現実的な問題があるのか
これは非常に問題があります。教育、特に公教育の現場で、行政の主張と違う考えを持っている教員が、強制的にやめさせられたとなると、学校の現場で子供と親たちに、「行政に逆らうと、ペナルティがあるし、それは当然」というメッセージを与えることになります。これを受け入れていけば、行政の思想に容易に従う市民を育てることができます。
よく、「大学の自由」「教育の自由」という言葉が言われますが、これは「たとえルールであっても、異議を唱える自由があり、異議を唱える個人の信条の自由は保障されなければならない」ということを、学校にいる次の世代に伝える必要があるからです。学校の現場で教員が思想信条によって排除されれば、異議を唱える自由の重要性を、学校自らが否定しているように見える。逆に、これが実現されれば、為政者は政治的な決めごとを市民に容易に導入することができるため、非常に楽になるのです。
国旗、国歌に異議を唱える教員が、ときに存在するという事実を排除しないことは、実は大きな意味があるのです。
ちなみに、気に入らない教員は、別の私立学校に行けという主張がありますが、これは違います。公教育の中で、異なる意見をどう受け入れるかを示すこと(異なる意見を排除しないことを示すこと)に大きな意味があり、排除した先に行き先があるかどうかではありません。
では次。
(2)公務員改革が叫ばれる中、公務員の抵抗を排除するために、この方法は妥当なのか。
公務員の横暴については、僕自身、繰り返し論難してきたので、仕事のしかたが間違っている公務員をどのように扱うかは、重要なイシューだと思っています。しかし、だからといって、思想信条を理由に解雇、というのは、合理性がありません。
この場合、教員は起立せず、国歌を歌わないだけで、他の仕事はやっているはずです(やっていてもクビになる)。これでは、間違ったメッセージを伝えてしまいます。
やはり、なんの仕事をすべきかを示し、その仕事に対する評価で、その後の処遇を考えるべきです。
では、国旗・国歌に異議を唱える教員に、国旗国歌のすばらしさを教える専門教員になれと命じたらどうでしょうか。
これは一見正しそうに見えますが、合理性がありません。国旗国歌を専門に教える教科や教員は規定されていないし、もしその仕事を定義したとしても、最もふさわしくない人(国旗国歌に異議を唱える教員)をそこにアサインした上で、仕事ができていないと評価するのは、単なるいじめです。
国旗、国歌とは別の、能力や考え方に合った仕事を与えて、充分にやるかどうかで判断すればよいことです。
公務員改革は重要ですが、それを実現する方法として、国旗国歌を見せしめ的に使うという方法は、合理性もない上、副作用も多すぎる。さらに、憲法や世界人権宣言の趣旨にも反する、スマートでない方法です。
★ ★ ★
ということで、僕にとっては天敵のような橋本知事ですが、せめて遠い大阪の知事でよかった?かな。
仕事をしない公務員に立ち向かう正義の味方のように見えるのかもしれませんが、やり方はあまりにも幼稚です。
コメントする