(by paco)今回の地震の後に起きた原発事故は、「人災」であり、もっと踏み込んでいえば、「防げたのに防ごうとしてこなかった人々による、未必の故意による犯罪の結果」と僕は考えている。もちろん、これには、さまざまな反論や意見があるだろうことはわかっている。多様な意見があること自体、よいことだ。
ただ、ひとつ、ぜひ共有しておきたいことは、今まで同じ人々に、同じようなプロセスでの意思決定をゆだねていると、問題の本質はまったく変らず、形を変えて同じようなことがくり返されるだろうということだ。
今回、原発が事故を起こして批判を受けているので、当面は原発推進は表には出てこないだろう。しかし、これまでの意思決定システムが温存されれば、わずかな冷却期間をおいて、再び原発温存と推進に乗り出すことは間違いない。その理由は、今回は書かない。しかしもし現状を変えようと思ったら、単に原発反対をいうだけでは、何も変わらない。声がちょっと弱まったすきを突いて、巧妙に推進に転じる。それが彼らのやり方だ。
では、現状を変えるために、なにをしなければならないのか。
その答えは、民主的な意思決定システムを機能させることにあり、核になるのは「中間団体」を再構築し、新しくリニュアルすることだ。
中間団体とは、ジュライは「圧力団体」と呼ばれていた機能だ。農業者(農協)がまとまり、自分たちの主張(たとえば農業補助金をふやす)を自分たちの支持した政治家や農水省に伝え、法案成立によって目的を勝ち取る、といった機能をさす。日本ではこれまで圧力団体と呼び、米国などでは「ロビー」と呼んだ。たとえば米国の政治に影響力を持つユダヤ人の団体を「ユダヤロビー」「イスラエルロビー」と呼ぶ。
民主主義は議会の多数決によってものごとを決めていくと、学校では習ったかもしれないが、実際には、中間団体が果たす役割が大きい。議会に持ち込まれたときには、法案として十分練られたものになっているのが普通で、ほとんどの法案については議会は形式的な承認機関と化している。だからこそ、法案成立率は95%を超えるのだ。予算委員会などで議論が紛糾する案件は実際には全体の中のわずかであり、事前の調整でどうしてもまとまらないような案件だけだ。国の決めごとのすべてに議会が論戦をやっていたのでは、効率が悪すぎる、という現実的な問題も生じる。
では中間団体はどのような役割を果たしているのか。
たとえば農業の中間団体である農協(JA)では、農業に関わる人の生活が豊かになり、農業生産が増えて日本の農作物が多くの人に食べられるように、いろいろなことを国や自治体に要求する。
これまで行われてきた代表的な要求と施策としては、農地の大規模化のための土地改良がある。日本の、特に山間部の農地は、かつては棚田が多った。田んぼは水をたたえて稲を育てるために、水平でなければならない。傾斜地に田を作るには、等高線に沿って水平を出してつくる棚田になるのが、昔ながらの他の作り方だった。等高線は、普通、山の形にうねっているし、登校の幅は狭い。田も曲がって狭くなる。耕作が人力のみで行われていたときは、これで十分だったが、トラクターなどの機械化が進んでくると、狭い棚田では効率が悪くなる。1枚の田を大きくして、なるべく四角形に近くすると、機械での作業がやりやすい。そこで、田を調査して、大規模な田に変えられる場所とそうでない場所を区分し、できるところを優先的に改良する事業を行った。
こうして、農業振興地域の農地と、それ以外の農地が分けられ、農業振興地域には公費で土木工事が行われて、機械化に向いた広い田と、それにふさわしい水路が作られた。1960?80年代あたりのことだ。日本中の田畑が改良された。生産性が上がり、米作りはさんちゃん農業、つまり、母ちゃん、じいちゃん、ばあちゃんだけの片手間仕事できるようになった。農家の主は農業をやらずに、新しくできた工場に働きに出た。機械化農業と工場労働で、農家の生活は成り立つようになり、東北や山村でも出稼ぎに出なくて済むようになった。
「出稼ぎがたいへんだ、出稼ぎのない農村にしてくれ」
「農作業がきつくて腰が曲がる、機械化できるようにしてくれ」
「トラクターが高くて買えない、融資のしくみと助成金をくれ」
農協という圧力団体は、農家がやってほしいことをどんどん言葉にした。これらは基本的にWish List、ほしいものをどんどん並べただけだ。
農協にはたくさんの農家が参加にいる。農協が自分たちのいうことを聞いてくれる人を候補者として立て、農家に「この人に投票しよう」という。農家は黙って投票する。農家の利益を代表する議員を、農水族議員と呼んだ。族議員と、圧力団体としての農協は、農水省に対してWish Listを次々として出した。農水省は「わかりました」とそれをうまく法案にして、国会に提出。族議員が賛成して、法律を通した。Wish Listは長くなり続け、願いは叶えられ続けた。ある時期までは。
国全体が成長しているときは、これでよかった。農業、工業、労働組合、医療業界、法曹界などさまざまな団体がWish Listが提出され、どんどん法案が作られ、税金が投入された。ときどき別の団体と利害が対立するものが提出されたときだけ、国会が紛糾したが、それ以外はハッピーだった。
この体制を、自由民主党結党から始まったと見て、1955年体制、と呼ぶ。
しかし、その影で、ハッピーになれない人たちが実は、いた。若い世代、大企業に所属していない労働者など。こういった人たちは、圧力団体を持っていなかったために、圧力団体のいうことを聞いてくれる議員もいなかった。自分たちの要求を、国や自治体の意思決定に突きつける機会がなかった。それでも、経済全体が成長して、税金が増えているうちは、少しはおこぼれがもらえた。それで若者は選挙に行かず、損をし続けたことに気がつかなかった。
もうひとつ、問題が発生していた。利害調整機能がまったく育たなかったのだ。中間団体が政治に影響を与えて、やるべきことを実現していたのは事実。しかし、その機能は、あくまでWish Listの作成だった。やってほしいことをひたすら並べ、優先順位を付けて、何番目までは実現できますか?と交渉していたに過ぎなかった。
本来の利害調整機能とは、ゼロサムゲーム(一方が多くとれば、他方が少なくなる)の中での優先順位付けだ。たとえば、農業に税金と投入すると、教育予算を減らさざるを得ないということが分かっているとして、それでも農業に投じるのか、農業は減らして、教育に投入するのか。あるいは、都市型のIT産業を育成することにして、農業に税を使うのはやめるのか。その場合、どんな観点から、なぜA案がよく、B案よりよい結果がもたらされるといえるのか、という議論をしてから、結論を出すことだ。
ある意味、あたりまえの、利害調整機能を日本は確立することなく、ここまで来てしまった。1980年代、バブル崩壊までは、経済の右肩上がりが続いたので、55年体制のやり方でよかった。バブル崩壊後の1993年頃から以降、「失われた10年」と呼ばれるが、なぜ「失われた」のか、その本質を見ると、55年体制の右肩上がり、予算ぶんどり型の圧力団体政治から、経済が右下がりのゼロサムゲームの時代に入っているにもかかわらず、同じようなWish List要求型の意思決定システムをまったく変えられなかったことだ。
小泉政権を評価する人は意外なほど多いが、彼が改革と称してやったことは、単にいちばん大きな圧力団体である「郵政族」の要求を突っぱねたというだけで、それ以外はまったく55年体制に手をつけなかったという点で、彼は結局なにもやっていないに等しい。無為に時計が過ぎただけで、日本の国レベルでの意思決定システムはまったく進歩していないのだ。
右肩上がりの経済によって、右肩上がりの税収入がなくなり、すでに20年が立つ。この間、国家予算、地方政府予算は、55年体制のまま、ぶんどり要求に応えてきた。当然、税収が足りないが、国債を発行してやりくりしてきた。
問題なのは、国債の発行自体ではない。ゼロサムゲームになっているのに、意思決定システムを変えられない、未成熟な政治の形そのものにあるのだ。
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原発問題に戻そう。
原発問題も、同じ構造の中にある。一度作り始めたら、止められないWish List型の電力行政。電力が必要だと市民や企業がいえば、なにがなんでも発電量を増やすしかないと考える、Wish Listに答える型の意思決定システムが、危険と分かっていても、原発を使い続ける思考停止を生んできた。
思考停止の象徴は、原発の耐用年数だ。建設当初の耐用年数は30年だった。減価償却は16年。今回事故を起こした福島第一原発1号機は、最も古い原発のひとつで、建設から40年を超えている。30年経過したときに耐用年数は10年延長され、一昨年、さらに10年延長された。確かにすぐに壊れそうで危険ということはなかっただろうが、ルーズに延長されてきたことには間違いない。その背景には、原発の危険を察知した世論によって、新規原発がつくれなくなってきている中で、電力供給の義務を果たそうとするジレンマにある。
成熟した意思決定システムでは、このような場合、電力会社や電力行政は、市民に問いかけなければならない。
「原発をつくりたくない人がたくさんいるし、このまま原発を使い続けるのは、本来の耐用年数を超えていて、危険かもしれません。かといって、原発をやめたら、電力供給に不安があります。みなさん、どうしたらいいでしょう?」
そこで、問題に関心がある市民や専門家が集まってきて、議論をすれば、このゼロサムゲームを解く答えがきっと見つかったはずだ。しかし、こういった意思決定の方法は、はなから考えられていなかった。そんな方法があるとは、電力村の関係者はまったく思いもよらないことだったし、自ら進めてきた方法が「行き詰まった」と公表すること自体、「絶対やってはいけない、あり得ないこと」とすり込まれてきたのが、55年体制なのだ(官僚の無謬性)。
日本の最大の危機は、成熟した社会の状況に対応した、意思決定システムを構築できていないことであり、その最も象徴的な結果が、今回の原発事故だ。それゆえ、原発事故以後、これの反省のもとに改革をしようと思えば、どうしても55年体制の破壊をやることに直結する。話は、とても根が深い。しかし、関係の誰もが、自分たちのやり方の限界をうすうす、あるいは明確に感じ始めている。だからこそ、電力関係者からこんなぼやきが出てくる。
「原発もダメだという、火力はCO2が出るからダメ。じゃあいったいどうしろというんだ!」
55年体制のなかでは、すでに意思決定できないと告白しているわけだ。
だったら、「あなたは下りてください、新しい人たちで、新しい意思決定をします」。これが僕らがいわなければならないことになる。
実際には、このような正直なぼやきをする人は少なく、多くはじっとガマンしている。自分からいち抜けたはい得ない、激しい横並びのマインドコトンとロールと利害ネットワークができているからだ。しかし綻びは、彼ら自身が誰より感じている。
では新しい意思決定システムはどうあるべきか。
今回は書ききれなかった「新しい中間団体」について、次回、書いてみようと思う。
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