(by paco)今週は二本立てです。
◆「白夜行」映画と原作のエンディングが違うことでヒロインの結末が変わる
前回も登場した「白夜行」ですが、映画公開最終週に「二度見」してきたので、追加でさらに。
原作と映画は微妙に違うという話を先週書いたのですが、特にエンディングの違いが何をもたらしたかについて話したい。
貧しい母子家庭に生まれ、母親から児童売春を強要されていた少女雪穂と、彼女を救おうと犯罪を重ねる幼なじみの亮二。元刑事に追い詰められた亮二は、自殺する。しかし、自殺の場面が原作と映画で違う。
原作では事業家となった雪穂が開いたセレブで華やかなブティックの店内で自殺する。映画では、そのブティックの前の古いビルの屋上から飛び降りる。即死の亮二を抱き起こす元刑事……。
原作では、亮二の死は開店当日の華やかなブティック内であり、開店を亮二の死でけがされた雪穂は、亮二がなぜそこで死んだのかを捜査されたり、噂が立ったりして、危機に陥ることが示唆されて終わる。亮二と雪穂は一蓮托生、二人でひとりであって、亮二の死は雪穂の社会的な終わりが示唆されている。善悪判断でいえば、確かに雪穂にも亮二にも不幸な出発点はあったものの、二人が(ゆるやかに)結託して、他者を踏み台にして(邪魔者は消して)生きてきたことの決着を付けさせられる、という「悪は滅ぶ」結末、と見立てることができる。
一方、映画。亮二の自殺はブティックの前の古いビルであり、ここに雪穂が何ごとかとブティックから出てくるシーンがある。「この男を知っていますか?」と尋ねる元刑事に、雪穂は冷たく「知りません」と突き放し、ブティックに戻る。エンドロール。背景に、華やかなブティック開店のようすが映し出され、雪穂の「成功」は陰りなく続くことが描かれる。このエンディングでは映画では亮二の死を踏み台に、雪穂がさらに成功していくようにも見える。亮二の支えを失って、雪穂の成功に陰りは出るものの、彼女本来の強さを発揮して、さらに成功していくようにも見える。
亮二の人生の意思は、自分の父親がけがした雪穂を守り、本来の彼女の道を歩ませることにあったと考えられるので、自殺した亮二は、自らの生と死によって成就したことになる。雪穂に捧げた人生に見える。
つまり映画では亮二の死をブティックの外にすることで、亮二の愛の成就が描かれ、雪穂が冷たく「知りません」と言い放つことさえ、亮二への彼女の愛の発言だ。雪穂が亮二にすがりつけば、雪穂と亮二が共同して罪を犯してきたことを認めてしまうことになり、亮二がそっと彼女を支えてきたことが暴露されてしまう。雪穂が亮二の愛のためにも、「死んだ男のことは知りません」というしかなかったし、それによって雪穂は亮二の愛に応えたのだ。
悪を悪として描く原作と、愛ある悪が雪穂の成功につながることを示す映画。原作は不毛であり、映画は愛を描いている、という印象になり、これが両者のメッセージを分けていたのだ。
深川監督は、亮二の死の場面を微妙に描き変えることで、堀北真希という「生身の雪穂」に救いを与えた。もし女優が堀北真希じゃなかったら、もっと悪女が似合う女だったら、原作のエンディングのほうがあっていただろうし(たとえば、「告白」の松たか子だったらどうだろう?)、堀北真希があまりにも美しく、清らかに演じたために、エンディングに救いを与えたのかもしれない。
深川監督は原作者の東野圭吾よりずっと、雪穂に恋をしてしまったのかもしれない。
実は、「白夜行」にはTBS系で放送されたドラマ版があり、こちらは原作より、映画より、はるかに饒舌です。全部見たわけではないのですが、映画と原作が会席料理なら、TVドラマ版はこってり味の付いたイタリア料理か中華料理、という感じで、まあ、一般ウケするにはTVドラマ版なのでしょう。ドラマ版の方が泣けるし、感動できるし。でも、何もかも作り手が解釈してしまい、読み手の解釈によって深まる、というおもしろみがないので、ドラマ版は見なくて良かった。濃い味に慣れてしまうと、素材のよさを味わう楽しみがなくなっちゃう。
さて、後半。
◆サンデル教授への回答:悪に対しては、善で応える必要がある。
Facebook上で、こんなやりとりがあった。
「白熱教室 正義の話をしよう」のハーバード大学サンデル教授が、たけしの番組に出て正義について話したとことについて。こちらのページに番組の内容が詳しく出ているので、参照。
●Sさんの質問-------------------------------------
北朝鮮の拉致問題で、5名の拉致被害者の行方を知っている北朝鮮の工作員1名を日本が拘束したという設定で、工作員を拷問すると5名が救える。拷問しないと5名は命を失う。あなたは工作員を拷問しますか?それはなぜ?という問いでした。
5名を助けるためには1人の人権を侵害しても良いのか?人権の侵害はいかなる場合も許されないとするのか?という議論の対立でした。
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●pacoの回答-------------------------------------
この話は「私刑」のことを考えると、理解できます。
私刑とは、国家(裁判)によらずに、個人が犯人(と思われる)相手を殺すなど、懲罰を行うこと。これを認めると、私刑を行った人物は極悪非道でもっとも憎むべき犯人と同じ行為をすることになり、自ら進んで極悪非道に陥ります。
相手が間違いなく犯人だとしても、私刑の行為(たとえば仇討ちで殺すこと)が妥当かどうかもわからず、過剰な仕返しになって、社会から非難を受けることもあるし、もし相手が真犯人でなければ、冤罪で罪のない人を殺すことになります。
で、sさんのお題ですが、某国が明らかに無謀な行為で我が方を攻撃(や、拉致や殺人)すれば、某国は極悪非道です。それに対して、こちらが拷問という極悪非道を行えば、当方は某国と同じ極悪非道の地平に下りてしまい、第三者から見ればどっちもどっち、つまり極道者同士の殺し合いに見えてしまう。
これが、米軍がイラクのアブグレイブ刑務所で行ったことであり、アブグレイブ事件によって米軍は決定的に世界の信頼を失いました。ブッシュもフセインと同じ穴のムジナだ、と。
当方が某国を非難し、当方が某国より正当だと主張するためには、某国がどれほど極悪非道でも、いや、極悪非道であればあるほど、当方は正当な手段をとる必要があるわけです。
ここからわかることは、正義は人の命より重い、ことがある、ということあるわけで、身もふたもない結論になるのですが、さらに重要なことは、不正義(拷問)をせずに、命を守ることが、人間社会ではもっとも尊敬されるべきことであり、不正義によって生物学的な命を守れても、社会(国際社会)的な意味での命は守れない、という言い方もできます。
第二次大戦に向かう昭和の日本は、自ら考える正義のために、国民の生物学的な命をないがしろにしました。しかし大日本帝国が非難されるのは、そのことではありません。当時の日本の為政者が正義と考えたことが、実は不正義だった、という点です。そして、この点を認めたくないヘタレ愛国者たちが、靖国神社という形式的な正義のもとに行って、不正義を正義と言いつくろうとしているわけです。
それでも、石破さんのように拷問してでも日本人を助ければ、多くの日本人は石破さんをヒーローにするでしょう。一般ピープルは、正義のことがわからないからです。でも、もし拷問のひどい状況が明らかになれば、石破さんは東条英機と同じように、ダーティーヒーローにならざるを得ないでしょう。特に国際社会から見れば。同情は集めるでしょうが、正義の勝算は集まらず、救出された日本人たちは、肩身の狭い思いをすることになるでしょう。ベトナム帰還兵やイラク帰還兵に心の病が多いのは、こういう構造によります。
実は、もともとの設定である、「拷問してでも拉致被害者を救うか?」という行動の、真逆をやったのが、小泉元首相です。イラク戦争開戦当時にイラクに行った日本人3人に対して、自らの責任を放棄して「自己責任」を振りかざし、3人質三人を「悪」にしてしまった。結果、人質になっている間、家族は社会的に大虐殺にあい、当人たちは無事に国に戻って、本当は(海外の国では)ヒーローになれるはずなのに、社会的に抹殺された。
小泉さんのやったことにまったく不当なのに、人質と家族はその不正義によって抹殺されたわけです。
小泉さんは死ぬまでに彼らに真剣に謝り、彼らの名誉を回復するべきです。キリスト教を軸にするヨーロッパ世界は、魔女狩りなど、とんでもない過ちもする代わりに、間違いだと認めれば、ジャンヌダルクの名誉も回復するなど、反省もする。この辺は、日本の曖昧さとは違うところですね。
ちなみに、もともとのたけしの番組で「拷問をする」と応えた自民党の石破さんは、小泉内閣で防衛大臣です。
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たけしの番組では、サンデル教授は、拷問もするもしないも、哲学では答えが分かれている、というように応えていたようだが、たぶんそれは、大衆向けの番組であることを考慮した回答だろう。
番組では正義についてそれなりにきちんと考えていたのは、勝谷誠彦さんだけのように見えた。勝谷さんには一度取材で会ったことがあり、彼の発言などについては特段評価はしていないのだが、それでも一定の見識は持っていると感じた人だった。サンデルの番組の内容からも、それは伝わってくる。
たけしの番組にサンデル教授が出ること自体を、良いことと言うべきかどうか、正直、この点はよくわからないが、石破さんはやっぱりだめだな。
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