(by paco)今号は、気づけば500号。ざっと10年、ということになる。ずいぶんたくさん書いているものだが、記念じみたことを書く気持ちにもならないので、今週も淡々と書く。
◆twitterとfacebookを再開しても、「わからない」
前号で「ソーシャルメディアの価値がわからない」と書いた。先週、原稿を書きながら、twitterとfacebookをメンテして、その後、rsideとの連携も設定して、ツイートの量を増やしてみた。
何か変わったか?というと、特に変化はない。書き込みをしているから、もちろん、一方的な発信だけでなく、やりとりもある。フォローしている人、「友達」のようす、特によく書いている人の様子がわかったし、やりとりでこちらも気づいたこともいろいろある。でも、それが必要だったか、それによって何か変化が起きたかというと、そういう感じではない。たまたまメールより伝が多い週で、用件以外の雑談もけっこうしました、というのに近い。
rsideと連携し、rsideのアップロードをtwitterとfacebookにアップされるようにしたが、rsideのアクセス数が伸びているわけではない。ソーシャルメディアからブログへの誘導効果は意外に少ないようだ。
ま、見に来ている人はすでに見に来ているということでもあるし、逆に、ソーシャルメディアにいる人は、そこからあまり出ないで動いているということでもあるようだ。
原稿を書いたことで、ソーシャルメディアについての情報がアンテナに引っかかるようになり、いくつか新しい情報に当たることができた。米国では自社ドメインサイトに誘導するより、facebookサイトに誘導する方が増えた、という記事も読んだ。facebookがインフラ化している、ということだが、これが継続・進行していくのか、一時的な流行で別のサービスに移行していくのかは、今のところわからない。
ひとつ言えるのは、これだけ変化が早くなると、ひとつのサービスやサイトにかけた投資が回収できる前に次のサービスに動く、というように、消耗戦になるのではないかという可能性。儲かるのはサービス運営者だけで、その部隊の上で踊っている人にとってのメリットは限定的になるような木がする。
前回の記事でも「日本ではソーシャルメディアをきっかけに革命が起きることはないだろう」という意見が多かったと書いたが、これはつまり、メールやブログでもできる(おきる)ことが、たまたまtwitterやfacebookで起きている、というだけだという理解に見える。少なくとも僕にはそう感じられ、ツールとしては新しいが、実質はインターネットが生まれたとき以上のインパクトはない、というように感じられる。
今後、注目しなければ行けないと思っているのは、スマートフォンからのインターネットが、従来のPCベースのインターネットとどう共存し、別の世界を構築していくか。音声入力が現実的になってきて、「本当のつぶやき」がtwitterに乗るのも時間の問題だろう。そうなると、入力のめんどうが解消され、パラダイムが変るかもしれない。
と、前号のレビューをした上で、本題。
◆「白夜行」と「モンスター」を重ね合わせて、「犯罪」を考える。
このテーマでは、
494「自由と罪」の明確な関係
497「モンスター」から「人格破壊が悪を生む」を学ぶ
を書いてきていて、その続編になる。
コミック「モンスター」では、ヨハンとニナという男女の双子を中心に物語が回わる。物語では、双子という、もともとはひとりの人格(になったかもしれない存在)が、男女二人の人格に分裂しているように描かれている、ように見える。
ヨハンは徹底した悪。普通、犯罪を描く物語では、悪人が悪を行いながらも、自責の念にとらわれて苦悩する、といった二律背反が描かれる。人間には善を行う力も、悪を行う力もあり、その二面性が物語の作者を物語を書くという行為に駆り立てる。
「モンスター」では、双子という設定によって、ヨハンは悪だけの存在、悪をまったく良心の呵責を伴わずに行う存在として描かれ、いっぽうニナは明るく誰にでも愛され、悪に心を痛める存在として描かれる。ヨハンの妹でありながら、悪に染まらない清らかな存在だ。浦沢直樹は、人間をヨハンとニナに分離することで、善と悪をクリアに描こうとした。
さて、今回はここに、「白夜行」という物語をかぶせてみる。「白夜行」は東野圭吾が1999年に完成させた長編ミステリで、今年映画がいま公開されている。今回は、物語がすでに10年前に発表されていること、映画も公開後半ということを考え、ネタバレで書く。
「白夜行」の主人公は双子ではない。一見「モンスター」とは別の構成のように見えるが、よく読むと、意外に共通点がある。「白夜行」のヒロイン雪穂(ゆきほ)には、影のように支える桐原亮二(きりはらりょうじ)がいる。ふたりは同じ小学校の同学年。亮二の父親の殺人事件の前後からふたりは対になって行動し、雪穂は社会的に成功し、亮二はそれを支えるために悪を重ねていく。
殺人事件という悪を出発点にして、それを「抱えながら、克服しつつ成長する」のではなく、悪を亮二が、善を雪穂が引き受け、二人が対になって物語が進む、ように見える。
実は、この構成は原作の小説と、映画とでは微妙に描き方が違う。
物語。二人が小学校5年生のとき、亮二の父親は児童性愛者であり、近所の貧しい母子家庭の母親に金を払い、娘の雪穂を性の対象にしていた。雪穂と亮二は近所の児童館で知り合い、雪穂は児童館にいる間だけは、亮二といるときだけは、子供らしい気持ちで生活ができていた。ある日、亮二は雪穂と自分の父親が廃屋に入っていくのを目撃する。廃屋に忍び込むと、雪穂に性行為を強制する父親がいた。持っていたはさみで父親を殺し、雪穂を逃がす亮二。子供が犯人とは思わず、事件は迷宮入りし、それ以降、亮二と雪穂は事件を共有しつつ、19年間を過ごす。雪穂のまわりで次々に起こる事件。母親の死、事件を知る者の死、事件を言いふらしたものが婦女暴行に遭う、雪穂の恋敵が婦女暴行に遭う。雪穂の過去の調査を依頼された探偵が殺される……。
これらの事件は、すべて雪穂が社会的に成功するために、邪魔者を始末していくために起こされていた。事件は亮二が雪穂への愛の形として起こしたのか、雪穂が亮二に指示を出し、亮二の父親の罪を償わせるために起こさせたのか。
映画では、明確には描かないもののどちらかというと、亮二の雪穂への愛の形として描かれる。小説ではどちらかというと、雪穂が亮二に指令を出しているように描かれている。
と書くとちょっと違うかもしれない。より厳密にいうと、映画では亮二は「雪穂へのかなわぬ愛の証」として事件を起こしているように見え、小説では「雪穂が父親の罪を償わせるために」亮二が事件を引き起こしているように見える。
映画と小説、両方を読んでみて、僕は映画に軍配を上げたい。これはたいへん珍しいことだ。圧倒的に評価が高いベストセラー小説を映画化した結果、映画のほうが評価が高くなるということは、なかなかない。の意味で33歳の若手・深川栄洋監督の力量を高く評価したい。
ここで、「モンスター」との対比を考えてみよう。
「モンスター」では双子のうち、ヨハンが悪を引き受け、ニナが善を引き受けた。「白夜行」では、不完全ながらも、亮二が悪を引き受け、雪穂が善を引き受けた。この点では非常に類似したモチーフを持っているといえる。
一方、物語の動機はかなり違う。
「モンスター」では善悪の分離は、「旧東ドイツの人格改造→何も恐れない戦士の育成」という極秘プロジェクトの結果として描かれる。人工的で意図的だ。
「白夜行」では、善悪の分離は、亮二の父親の児童性愛とその背景としての貧困の結果として描かれる。不可避の社会問題が背景にある。
この動機の違いが、ふたつの物語にまったく違う結末を与えている。
「モンスター」ではヨハンは眠ったままになり、悪は収まって、ニナは快活に世界に貢献しようとする。ハッピーエンドだ。ニナの将来に曇りはない。
(ラストシーンでヨハンがベッドから消え、次の物語が示唆されるが、続編はまだ描かれていない)
「白夜行」では、追い詰められた亮二が自殺し、悪は消滅しているように見えるが、生き残った雪穂のその後は描かれない。亮二を失った雪穂のパワーはどこに行くのかは、読者の想像に任される。しかし、いずれにせよ、雪穂はニナのように完全に善なる快活な存在としては描かれていないので、雪穂の将来には暗雲が見える。
★ ★ ★
「モンスター」については、善悪の判断力を失ったヨハンがためらいなく悪(殺人)を犯していく様が描かれる。ここでは、善悪判断能力こそが人間の証であることが読み手に突きつけられている。
「白夜行」では、善悪判断力や、その背景に必要な自由意思は、雪穂にも亮二にもあるように見える。ただ、2人とも子どものころにあまりにも理不尽な悪を経験したために、それを理由に、それを補償するためになら何をしてもかまわない、という考えを持つに至ったと考えられる(この点、「モンスター」のほうが設定がアバンギャルドで、「白夜行」のほうが設定がノーマルだ)。
「白夜行」では、まず雪穂が非常に理不尽な状況に置かれる。貧しいがゆえに、母親が自立して子育てができないがゆえに、10歳にして近くの金持ちの性の対象にされる。生きていくためには受け入れざるを得ない。それがひどいことなのかどうかさえ、判断できるほどの年齢ではないし、周囲の誰もがその点をケアする余裕がない。亮二は初恋の相手である雪穂が、自分の父親によって最悪の状況に置かれていることを知る。亮二にとって父親は、普通の尊敬できる親だった。しかしその父が自分の初恋の相手を陵辱していたという激しい理不尽。父親を殺すことで亮二が雪穂に対する罪をあがなったかに見えたが、はたして雪穂にとってはどうか。
物語では、雪穂は亮二に対して、父親殺害だけでは償いにはならないと考え、母親殺しなど、次々と雪穂を状況から救い出す犯罪に手を染めさせていく。あるいは、亮二にとってそれが、唯一の雪穂に対する愛の表現になっていく。タイトルの「白夜行」は、雪穂の口から意味が語られる。「私はずっと夜だった、でも暗くはなかった、亮二が私の行く先を照らしてくれたから」。雪穂は照らされていることに感謝していたのか、それともそれを「当然の償い」と考えていたのか。物語では内面は描かれない。
物語の進行役になっている刑事の笹垣は、最初の亮二の父親殺人事件の時になぜ亮二と雪穂を逮捕(補導)できなかったのか、悔やむ。確かに2人には動機があったし、亮二が殺した理由は同情できる。しかし罪は罪であり、償い、どうすべきだったのかを学び直させるべきだった。
これはおとなの正論だ。
果たして、雪穂と亮二、2人に、他にどのような方法があったといえるのか? 訴える場所もなく、逃げ出しても生きていけない子供の彼らに。行き場がない状況の中で、笹垣の願いは意味を持たない。
★ ★ ★
<おとなの社会科>では「罪と罰」を考えた。その中で、罪と償い、罪と反省、罪と更生を考えてきた。
雪穂と亮二の罪にどのような更生の方法があったのか、<おとなの社会科>としてはどこをイシューにしたい。僕もまだ答えが見えない。
ただ、「白夜行」で残念なのは、なぜ彼ら二人が罪を重ね続けたのか、罪を犯さずに前に進むことをなぜどちらも考えようとしなかったのか、それについて学ぶ機会はあったはずなのに、なぜ気づかなかったのかについて、説得力のある解が描かれてない。物語としては、(社会から受けた被害に対する)被害者意識に凝り固まっていて、その被害者意識に誰も気づくものがいないことで、サポートがなかった、ということなのだろうが、このあたりがイシューになってきそう。
罪を犯した者に、何を与え、道を回復させるのか。それは可能なのか。
罪と罰の問題は、道の回復(更生)が可能なのか、その可能性に行き着く。この点について、人間はまだあまりに、人間自身を知らなすぎるようだ。
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