(by paco)先週は<おとなの社会科>セミナーを2回、行った。月曜日に「罪と罰」のday4、木曜日に「哲学と宗教」のday1。
我ながらタフなテーマを続けるものだと思うけれど、やっていて感じたのは、僕はこういう話がやっぱり好きなんだなあということ。今週のコミトンは、
[知恵市場 Commiton]494「自由と罪」の明確な関係
の続編です。
<おとなの社会科>「罪と罰」で浦沢直樹の名作コミック「モンスター」を使った。
そもそもpacoさんはコミックなんか読むんですかと聞かれることが多いのだが、もちろん、読む。といっても読むものは限られているが、岡崎京子なんか好きだ。1996年に交通事故で重傷を負い執筆に復帰できていないのは本当に残念だが、彼女の作品は人間に対する洞察に富み、かつコミックとしても実におもしろい。
で、浦沢直樹。実は、「モンスター」以外読んだことがない。一昨年の秋、映画「二十世紀少年 最終章」を見て感動し、気になっていたものの、コミックは読むことなくここまで来た。それが、この年末年始に急に読みたくなり、ヤフオクで「モンスター」全巻セットを1800円でゲットして読み始め、はまった。で、「モンスター」に僕を誘ってくれたのは、バンド「相対性理論」のボーカル、やくしまるえつこだ。
相対性理論のアルバム「シンクロニシティーン」収録の「小学館」の詞
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地球がなくなって三日 退屈だよ
私の救助信号とどいてるかな
気がかりなのは大好きだった少年マンガ読めないこと
どうしたらいいの
ひいきは小学館スピリッツ読ませてベイビー
モンスターの最終巻 謎解き任せてベイビー
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というわけで、やくしまるえっちゃんの軽量ボイスが歌う「モンスター」の謎解きが、にわかに気になり、冬休みに全巻制覇。が、おもしろくて結局3回読みしてしまい、まだ謎が解け切れていない。
さて、「モンスター」はすでに初出から10年経過しているので、ネタバレは気にせず書いていく。読んでない人はぜひ読んでみてほしい。人間の悪や人格破壊について、これほど示唆的な題材は珍しい。さすが浦沢直樹。
★ ★ ★
ざっとあらすじを紹介しておく。
「モンスター」の主人公「ヨハン」は、8歳の時、養父母が殺害されたときに、頭を打たれて病院に担ぎ込まれた。双子の妹「ニナ」とともに。瀕死のヨハンを助けたのは、天才脳外科医で、日本人の「テンマ」。ヨハンは意識を取り戻すと、ニナとともに病院を抜け出し、行方不明になる。その後、次々と殺人事件が起こるが、その犯人がヨハンであることに気づいたテンマは、自らが手術によって怪物を生き返らせてしまったことに気づき、モンスターを殺害すべく、職を捨ててヨハンを追い始める。実はヨハン、旧東ドイツの共産主義政権が行った人格改造によって、自我を失い、人の悪意を引き出してためらいなく人を殺させ、殺していくモンスターだった。テンマはヨハンを追い詰め、再び重症を負ったヨハンを前に……。
「モンスター」が示唆するのは、人格を破壊すると悪を行うことにためらいがなくなる、ということだ。
物語の中で、ヨハンは東ドイツの特殊な孤児院「511キンダーハイム」で「実験」の対象になる。ここでは天才的な心理学者であり精神科医であるクラウス・ポッペの指揮のもと、孤児たちの人格改造実験が行われていた。数十人の子供たちに対して行われたのは、孤児が持っているわずかな家族や親の記憶をお互いに話させ、交換させることだった。これを一定の強圧的な空間で断続的に行うことで、子供たちは自分の記憶と他の孤児の記憶が混乱状態で混同していき、自分が何者だったかわからなくなる。自分の記憶と別の孤児の記憶がごちゃごっちゃにミックスされ、名前も混同していくと、ただでさえあいまいな孤児立ちのかすかな過去の記憶が失われて、不安定な状態になる。そこに、本人の存在理由を失わせるようなストーリーをインプットする。
「親はおまえを捨てて欲望の国(西側諸国)に行った」
「おまえは望まれて生まれてきたわけではない」
「誰もおまえを認めていない」
「誰かがおまえを攻撃しよう、抹殺しようとしている」
「危険が迫ったら、相手を殺してもかまわない、そうするのが当然だ」
人間らしい感情が失われ、相手を攻撃することをなんとも思わない、良心のない状態にする。自分が尊重されていないと理解すると、他者を尊重しようという考えは浮かばず、他者も自分と同様に乱暴に扱っていいと理解してしまう。
その上で、改めて「どんなときにどんな表情やどんなことを話せばいいか」を機械的にインプットする。感情がなくなった子供に、笑っている表情を教える。泣き顔の作り方を教える。怒った顔を教える。鏡を見ながらできるように練習させ、鏡がなくてもできるようにする。どんなシチュエーションの時にどんな顔をし、どんな言葉をはっすればいいか、定型的にインプットする。
その結果、子供たちは、人間らしい感情がなく、攻撃衝動は持っているが、表向きは普通の人のように初対面の人にはえがおであいさつし、同情すべき時に涙を流す、機械的な動作ができる人間になる。
東ドイツ内務省は、こうして生まれた改造青年たちにテロの使命を与えて西側に送り込み、西側の人間の破壊欲求に火を付けて社会を破壊しようとした(というのが作品の設定)。
これがヨハン誕生のストーリーだ(「モンスター」ではここまで詳細に説明されていないので、一部脚色した)。
「モンスター」ではたくさんの人間が殺されるが、ヨハンによる殺害現場では「まったく感情というものが感じられない。ただ殺すためだけに殺した殺人現場」と表現され、ベテラン刑事さえ震え上がるような寒々しい殺害を提示していく。
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「モンスター」の中でたびたび登場する類型的なストーリーとして、ヨハンが凶悪犯罪歴のある人物に示唆を与えて、さらなる殺人を行わせるシーンだ。人格が破壊され、人を殺すことにまったく感情がないヨハンは、精緻な知能で自分にとって不要な人間を殺そうとする。自分で殺すよりも、誰かを動かして殺させる。その際、社会や人間に不満を持っている誰か(元殺人犯など)に語りかけ、殺人を正当化する言葉を投げかけて、ヨハンが望む人物を殺させる。ヨハンは手を下さなくても、もともとまったく動機のなかった人間がヨハンの殺したい人物を殺していく。
ヨハンが、孤児の人格を崩壊させようとするシーンがある。親を捜し求める孤児の少年に「母親を探しに行こう」と誘う。母親がいたであろう売春街に連れて行き、「さあ探してごらん、本当にいるのかな、母親はおまえを望んで産んだのかな」と確認させる。孤児である少年は、母親はどこかにいて、自分に会いたがっていると言うことをアイデンティティに、厳しい境遇に堪えてきた。しかしヨハンはその母親に対する「信頼」を、勝手な思い込みだと見せつけ、少年の存在理由を崩壊させる。少年は街外れで自殺しようとする場面で、テンマたちに救われる。「死んじゃだめだ、私はおまえに生きていてほしい」。そう言って抱きしめるのは、ヨハンと同じ人格破壊教育を受けたグリマーだ。グリマーは殺人者ではなくなっているが、人格は失われている。
「こんな時、どんな顔をすればいいのかな、これでいいのかな」
グリマーがテンマに聞くシーンは、心を打つ、というより、寒々しくて心が凍りそうになる。
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ストーリーを長く説明したが、以下の話をしたいためだ。
「モンスター」の中で東ドイツの「511キンダーハイム」で行われたとされた人格喪失プログラムは、いま日本で行われているように見えないか? 児童虐待の現場で。あるいは、いじめが激しい学校の教室で。
昨年ヒットした映画「告白」では、母親に捨てられた秀才少年「ワタナベ」は、有名大学の教授となった母親に振り向いてほしくて、殺傷能力もあるような財布を「発明」し、それを幼児に試して、結果として殺してしまう。「ワタナベ」からバカにされもののように利用された「ナオ君」は、幼児の死に直接手を下す。
鬼才岩井俊二監督の映画「リリィシュシュのすべて」はいじめをモチーフにした映画だが、上記のような人格否定の場面がたくさん出てくる。
人間は、親や周囲の人に望まれて生まれてきた、という思いがないと、自分の存在生きが見いだせなくなり、人格があいまいになってしまう。普通に生まれ、親に愛されて育った人には、そうでない人がどれだけ不安定な存在になるか、なかなか想像できないが、「モンスター」「告白」「リリィシュシュのすべて」と言った作品を見ると、それがどれほど思いかがわかる。
少女連続殺人犯の宮崎勤は、死刑判決後の獄中から「児童虐待や子供にひどい扱いをする行為は、人格を破壊し、自分のような殺人犯を生む可能性がある、やめてほしい」と訴えている。
殺人や性犯罪など凶悪犯の多くが、幼児期に虐待の経験があるという分析もある。虐待によって、苦しい状況に置かれた人間が、自我を殺して分裂し、多重人格症になることも知られている。
凶悪な殺人犯や「たましいの殺人」と呼ばれる性犯罪者、児童性犯罪者などは、確かに本人が悪いことはもちろんことではあるが、なぜそういった人間になったのかという点を考えると、本人の生まれつきであるとか、本人の性格によると言うように、本人だけ責任を求めても、適切ではない、という可能性が、示唆されている。
殺人者をつくったのは誰なのか、という点を、どう理解するかが重要だ。
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僕たちは、凶悪犯を自分たちと別種の人格、まったく関係のないタイプの人間(人間じゃない人間)として社会の外に出せば、何となく安心する。だから、凶悪犯は私刑でいいと考える。刑務所に入れておいてほしいと考える。
しかし、凶悪犯がなぜ生まれたかについて、僕たちはどれほどのことを知っているのか? 凶悪犯の誕生を防げるかどうかについて、どのぐらい努力しているのか? 結果を見て凶悪犯を排除するだけでは、不幸な被害者は永遠に絶えることがない、だろう。
凶悪犯を死刑にしてしまえば、なぜその人物が凶悪犯になったのか、知る機会は永遠に失われる。何らかの方法で、凶悪犯罪を犯さない人間になれるのかどうかを試す機会も永遠に失われる。そして、僕たちの社会は凶悪犯の犠牲になる人を永遠に亡くすことができない。それを、仕方がないこととして容認していることを意味する。
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児童虐待やいじめが、そのまま凶悪犯を生むといっているわけではない。もっと慎重に見なければならないのはいうまでもない。しかし、無関係ともいえない。まだ、多くのことを知らないのだ。知る努力は続けられなければならない。凶悪犯を死刑にしても、その知見は得られない。
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