(by paco)今週は二本立てです。
■スマートフォンはどこがスマートか?
去年秋に発売されたauのアンドロイド携帯第一弾「IS03」を買った。知っての通り僕は何かにつけてものにこだわる方なので、よく「iPhoneは持ってないんですか?」と聞かれていたのだが、そう、iPhoneは持たなかった。
長年auと契約していて、スイッチするのがめんどうだったし、Softbankの3G回線のインフラ密度と速さをいまいち信用していなかったこともある。それにiPhoneはApple製で、まあだいぶ昔にMacをつかっていろいろとめんどうや不自由(Windows系との連動やwebサイトが提供するツールバーが使えないとか)が多かったので、トラウマになっているということもある(もちろんMacのよさもよくわかっているのだけれど)。それに、音楽プレイヤーとして考えると、iTunesとの連携になり、「母艦PCの奴隷」という基本構造があるのだが、母艦自体を複数使っている(東京と六兼屋とか)僕としては、これが一番めんどうなのだった。
スマートフォンに当たる機能は、もちろん大昔から使っていて、ZaurusにWi-FiやCFカード型のau回線をつないでとか、他にも説明してもわかる人がいないぐらい変ったマシンも使ってきた。Zaurusについては、メールはばっちり使えたし、スケジューラ、Officeとの連携、webも基本的にはできて、アプリもある程度揃っていて今のスマートフォーンとの決定的な違いはない(そういえば音声電話はできなかったけど)。
IS03を買う前は、EMOBILEのTouch Diamondというスマートフォンを使っていた。これはiPhoneよりさらに小さく、普通の携帯サイズで、タッチパネルで操作するもので、もちろん音声から音楽再生、Wi-FiやBluetooth、webまですべてできた。おまけにEMOBILEの高速回線。
しかし、実際にはあまり使い勝手が良くなかった。それは、Zaurusやそれ以前のモバイルツールにも言えること。
要は、マシンが遅いのだった。
iPhoneもアンドロイドも、インターフェイスに工夫があって、確かにかっこいいし、使いやすい。でもその本質は、動作が速いことだと思う。サクサク動く、あるいは実際はそれほどではなくても、動いているように見える。これがとても重要なのだ。昨日は確かに、上がっているし、増えているし、アンドロイドのアプリやヴィジェットで楽しいものも多い。でもそれがために使っているのかというと、そうでもない。基本はメール、Web、添付ファイルの閲覧であり、いじっているように見えて、同じような作業を繰り返している。それが速いかどうか、スムーズかどうか。これがスマートフォンがこれまでのデジタルガジェットとの違いなのだろう。なんてことはない、持ち主がやりたい作業に付いてくるかどうかなのだ。
あ、もちろん、iPhoneにしてもアンドロイドにしても、インターフェイスのよさ、作業性のよさは、大きく貢献している。でも、このあたりはTouch Diamondも、大差ない。それでもIS03の方がずっと使いやすく感じるのは、やはり動作が速いことなのだ。
で、2か月ぐらい使って感じることは、やっぱまだ遅いな?と言うこと。慣れちゃったのだ。もっともっとサクサク動いてほしい。
身もフタもない言い方をすれば、結局、動作の速さ、動作を速く見せる工夫が、スマートフォンの神髄なんだと思う。
ちなみに、ひとつ脱線して余談を話すと、日本の携帯はガラパゴス(独自の進化で世界に送れている)と難癖を付けられているが、これはちょっと不当な言われ方だ。iPhone以前は、世界の携帯にはweb機能もメール機能も、それほど充実していなかった。iモードやez webなど携帯向けのwebサービスは、当時の携帯端末の能力でスマートフォンの性能を出そうとしたら当然の選択で、それ故に普及した。HTMLとの互換性もあり、非常に優れた仕組みだったのだ。携帯のマシンパワーとOS処理速度が上がったことで、(フルブラウザ、メールがつかえる)スマートフォンに移行するのは自然な流れとしても、だからといって日本型の形態進化をガラパゴスとまで言うのは、自虐だ。
日本型携帯のもうひとつの美点は、シンプルなweb機能にすることでマシンパワーを押さえ、バッテリの持ちが非常に長くできたことが上げられる。IS03は、朝から夜まで外出するときは、予備バッテリが欠かせない。USB充電ケーブルかエネループを使った「補助タンク」も持ち歩いている。希望としては、あと5倍ぐらいは長持ちしてほしい。夜充電を忘れても、翌日1日は使えるぐらい。
スマートフォンはまだまだ発展途上だ。
■電子出版元年とは、何が元年なのか?
去年2010年は、なぜか「電子出版元年」と呼ばれた。本を出し、デジタルガジェットも好きなので、これについてよくコメントを聞かれることがある。
僕の意見は、「なんでいまさら電子出版<元年>なの?」である。
日本人はすぐにモノから発想するので、キンドルだのiPadだの、モノが出てくると注目するクセがあるが、日本ではもうとっくに電子出版市場なのだ。
数年前から月に何冊も携帯本を買ってきた。普通の本だ。角田光代の「空中庭園」も、「貞子」シリーズも携帯で読んだし、新書もたくさん読んでいる。1冊100円から、1000円、本よりは安いものの、携帯でダウンロード、という感じでは高く感じるものも多い。でも、本よりメリットも多い。何しろ、軽い。いつも持っている100グラムの普通の携帯に何冊も保管でき、読み終わったらその場で次の本が買える。普通の書店ではおいていないような、水木しげるの古いマンガ作品なんかもすぐに買えたりする。マンガは特にいい。衝撃的なコマに移るときはバイブレータが動いてどきっとさせるとか、小技が聞くのも、楽しめる。コンテンツの数自体も、もっともっとほしいとは思うが、決して少なくない。
そう、ちゃんと電子出版は進んでいたのだ。
そういう自分たちのアクションを見ることなく、iPadがでたから急に電子出版史上が海外からやってくると浮き足立っている出版業界やガジェット業界の人を見ていると、くくくっと笑いたくなる。いちいち話題にするようなことではなく、スマートフォンが普及して、本を携帯で読みたい人が増えそうなら、それに粛々と対応すればいいだけでじゃないか。今までやってきたインフラがあるし、何しろ、携帯通話料金と合算して買えるというめんどうのないシステムができているのだから、それを発展させていけばいい。
村上龍が独自の電子出版会社をつくったと話題になっているけれど、まあ、彼のビジネスとしてはアリだと思う。
それに対して、一般の出版社がやろうとしていることは、ちょっとピントがずれているような気もする。雑誌を電子化するときに、紙ではできないことをしようと動画や音声を入れたりしようとしているが、それってどうなの、と疑問が湧く。手軽さ、軽快さが電子出版の魅力のひとつのはずなのに、わざわざコンテンツをリッチにして、動作を重くしたり、ダウンロードを重くしたりしている。それより、これまであったコンテンツをなるべく軽く、本ならテキストのみを取り出して、かんたんにつくり、少しでも安く、いろいろなものを読めるようにすることの方を歓迎したい。それでは儲からない、と思っているのだろうけれど、1冊1000円の電子本を読みたい人のだろうか。僕は、安いけれど、内容がしっかりした本をたくさん読みたい。
動画を入れるよりは、むしろ、音声朗読機能を付けてほしい。目の不自由な人だけでなく、電車の中で携帯をのぞき込むよりは、イヤホンで朗読を聞いた方が楽、というのは、ミドルエイジ以上には特に歓迎されるかもしれない。そうなると<おとなの社会科>セミナーを録音した<otoshaラジオ>も、電子出版の一部として有力になる。実際、<おとなの社会科>ラジオのユーザーで携帯プレイヤーに入れて通勤時間に聞いている人は多い。
このあたりもゼロベース思考が重要なところだ。
そもそも、電子出版って、何だっけ、今までなかったんだっけ?と考えてみれば、日本はすでに電出版先進国であることがわかるし、ガジェット側から入るのではなく、携帯するという手軽さから考えれば、リッチなコンテンツがいいのかどうか、新しい視野が生まれる。
動画が入ったリッチコンテンツをつくるビジネスモデルに頭を悩ますぐらいなら、電子化したときに、収益をどう配分するか、そのあるべき姿を考える時間をとってもらいたい。電朱出版化の際に出版社(コンテンツプロバイダー)から提示される条件を見ると、なぜその条件なのか、説明がつかないものがほとんどなのだ。
ひとまずこれでやってみませんか? なんて言われることが多い。
もちろん、実験的にやるのはよい。そうであっても、なぜその条件でスタートするのか、仮説が必要だ。のちに、条件を変えるとしたら、どういうときにどういう条件に振るのか、行き当たりばったりになるからだ。
こんなところにも、日本のビジネスパースンの戦略性や構想力のなさが露呈している。
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