(by paco)排出量取引のこんなニュースを見たのだが、そこから深めて、哲学の話をしてみよう。
■CO2排出枠を家庭から売る仕組みを経産省などが検討中
1月7日に流れたニュース。
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ある家庭が省エネ家電で二酸化炭素(CO2)を削減した際、それを企業などに「排出枠」として売れるようにするにはどうしたらいいか。経済産業省と電機関連4団体がこの仕組みを作ろうと検討を始める。
経産省によると、省エネにすぐれたエアコンや冷蔵庫、テレビなどを買い、これまでより減ったCO2を「排出枠」とする。売り手は家庭、買い手はCO2削減目標がある大企業。家庭は削減分がお金になるし、大企業からすれば、排出枠を買って削減目標に近づけることができる。売買の仲介は商社などが担う。
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このしくみは、2003年に僕が「環境経営の教科書」を書いたころから僕が言い続けてきたもので、とにかく、日本中(世界中)あちこちに排出枠を発生させて、それと売れる状況をつくれば、温暖化対策が進む、という考え方。排出量のカウントの仕方には注意が必要だが、省エネ性能の評価を、単にメーカーの表示に頼るのではなく、実際に電力計を付けて一般家庭で実証し、データを集めてから行えば、かなりの精度が期待できるので、排出枠を売ることと実際の削減量に大きな乖離が起きることは、ないだろう。
では、創り出した排出枠は誰が買うのか。
ここにキャップアンドトレードによる排出量取引制度を組み合わせる必要がある。
東京都は昨年から、都独自のキャップアンドトレード制度をスタートさせていて、都内の主要な事業の4割に、8%の削減義務を課している。削減できなければ、排出量は外から買ってくることになる。キャップアンドトレードの「キャップ」は、帽子の意味で、排出量に上限をはめることを意味しているが、上限をはめられることで、企業は削減の必要性(明確な義務)が生まれ、そこが需要になる。
この需要に対応して、上記の排出枠販売が現実的になる。上記の話はまだ「検討中」であることもあり、東京都の排出量売買の対象にはなっていないが、東京都の場合は、個人住宅ではなく、中書企業の削減努力を、大企業が買うしくみになっている。
では企業は排出量を一方的に買うだけなのか? それでは大企業が一方的に損をして、中小企業や個人が利益を得るだけだが、実際にはそうではない。
個人や中小企業の排出量削減は、主に大企業によって開発された省エネ機器によって生み出され、大企業である金融機関が提供するローンによって買い、生まれた排出量は、大企業が取引を仲介する。大企業は削減のために支出があったとしても、この取引やCO2削減に積極的に関わることで、支出を取り返すこともできるのだ。つまり、この取引のしくみの全体の流れを理解し、自分たちのメリットも想定して行動をとれば、支出の一方で、むしろ利益を多くとることもできる。
このしくみを、単に「削減義務が生まれて大企業は損失を被るだけだ」と理解するか、「そこから何かを得られないか」と考えるかで、結果は大きく異なり、企業の戦略性の有無によって、赤字になる企業と黒字になる企業にくっきりと分かれてくる。
排出量取引というのは、そもそもは産業を規制するものではなく、規制をきっかけにして、新しい取引を生み出し、結果として、新産業を起こし、しかもCO2が削減という目的も達することができる、というとてもリアルな仕組みだ。この仕組みをどう使うかが、社会の質を見るバロメータになる。
日本の企業人は、こういった全体感のあるものの見方が苦手なのだが、それ故に、排出量取引にも反対している。そのことは、結局、日本の競争力を失わせ、日本人のやる気をそいでいることに、気がつかなければならない。
■ゼロベース思考は哲学の本質
ロジカルシンキング研修では、社会性のあるテーマ、たとえば、貧困問題や生命倫理などを【ネタ】に考えてもらうことがある。これを重点的にやっているのが<おとなの社会科>だ。
社会性のあるテーマを考えもらうと、受講者から「前提は何ですか?」「前提が合わないと議論をしても意味がない」といった意見をもらうことが多いので、気になっていた。
もちろん、前提をもらえば、議論はしやすい。貧困問題では、「貧困は政府が解決するべきものだ」という前提をもらえば、考える範囲が限定されるし、自分の責任ではないので何でもいえるようになる。逆に「貧困問題に対して個人として何ができるか」を考えてと指示すれば、「小さなことでもできることがある」と、範囲をうんと小さく狭めることができるので、楽になる。
僕は、ものを考えるときに基本的には前提をもうけない。金がないとか、自分の責任ではないとか、政府について考えるとか、そういう前提はすべて取っ払って、どう考えればいいのかを考える。あるいは、何が実現できれば理想なのかを考える。
これをゼロベース思考という。
答えが見えない時代には、ゼロベース思考が重要だとよく言われるようになったので、ゼロベース思考という言葉は知られているが、では実際どのように行うものなのか。そこの認識はまったく不足している、ということが、上記の「前提は何ですか?」という質問に現れているのだと言うことに、最近気がついた。もちろん、以前からわかっていたのだが、「前提がほしい」イコール「ゼロベースでは思考できない」という思考習慣が、こんなにもはびこっていることには、気がついていなかった。
ゼロベース思考は、思考の自由だ。考えるだけなら、何をどう考えてもかまわない。理想も描けるし、現状を無視してもいい。もちろん、自分の知らないことを思い浮かべてもいい。でも、自由に考えて、というと、空間に放り出されたような気がして、考えられなくなる。何か狭い範囲に閉じ込めてもらって、壁や床を手がかり、足がかりにしたい、と感じる。それが「前提がないと考えられない」という思考だ。つまり、前提がほしいというのは、自ら思考の自由を放棄して、縛り付けてほしいという、マゾヒズムの表れだ。さらにいえば、子供時代から含めてずっと縛られてきたので、開放されるのになれていないし、怖い。もっと縛って、というMな人たちが、日本人なのだ。
ちなみにちょっと脱線するが、日本人にとってのSMは、緊縛である。アダルトビデオなどに登場するSMは赤いロープで縛られたビジュアルで象徴されるし、亀甲形に器用に縛ることが日本のSMの美学になってきた。おそらくこの美学は、江戸時代の「農民は生かさぬように、殺さぬように」という支配-被支配のロジックに由来するのだろう。
一方、キリスト教圏のSMは、基本がムチだ。ボンデージファッションとムチが象徴であり、Mはむち打たれる側だ。これはキリスト教が、開祖イエスが磔(はりつけ)になり、あえて人々の罪を自ら背負った、というエピソードによって支えられていることに由来する。キリスト教文化圏にとってのマゾヒズムは、むち打たれること、罪を背負うことなのだ。
話を元に戻そう。
日本人は「自由に考えて」と言われるのが苦手で、縛られたがる。一方、なぜ、僕は、ゼロベース思考が習慣になっているのか。
<おとなの社会科>をやっていて気がついたのだが、僕が学生時代に哲学を学んだことがその源泉になっているらしい、そこに、他の人との違いがあるのだ。
哲学は、まっさらなところから、原理原則を考える。一例を挙げる。
近代的な哲学(思想)の基礎をつくったのは、17世紀(日本でいえば元禄時代ぐらい)フランスの哲学者、ルネ・でカルトだ。「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な命題を確立した人物だが、この言葉はまさにゼロベース思考の象徴だ。
「われ思う」を当時の学術標準語であるラテン語で「コギト」というが、このコギトの発見がデカルトの最大の功績であり、その後の哲学を生み出す源泉になった。
人間は、いろいろなことを知っているように見える。神様のことも知っているし、悪いことも知っているし、水が上から下に流れることも知っている。でも、本当に神のことを人間は知っているのか。全部はわからない。善悪の区別が付くのか。かならず付くぐらいなら、悪いことをする人はいない。人間は何もわからないのかもしれない。何もかも疑わしいのかもしれない。疑ってみよう、何も真実はない、何も知らない……(方法的懐疑)。
しかし!! どんなに疑っても、いま自分がここにいて疑っているという事実は疑えない。そうだ、私は疑っても疑えない存在だ。この気づきが「われ思う、ゆえにわれあり」であり、すべてを疑っても疑えない存在としての、「思考する主体としての私」を発見し、確立した。これがデカルトの功績であり、自我をはっきり、位置づけた。この「コギト」としての自我を前提に共有することから、人間の近代が始まる。
西洋哲学というのは、後代の人が前の世代の思索の結果を参照し、受け入れたり否定しながら発展するという、積み上げ型の方法をとってきた。そのため、デカルト以降のすべての哲学者は、デカルトのいうコギトを参照している。そのほぼすべての哲学者が、コギトという概念を、妥当なものとして受け入れ、その上に自分の主張を積み上げることがもっとも良い、と考えて知見を積み上げたために、デカルトは近代哲学、そして近代の学問のすべての礎になった。
今、<おとなの社会科>で「罪と罰」を議論しているが、おもしろいことがわかった。弁護士など法律の専門教育や、法学者の学びの対象の多くは、「基本的人権」や「近代的な自我=コギト」を当然のものとして受け入れて議論しているということだ。つまり、ゼロベース思考をしていない。ゼロベース思考は哲学の特権であり、法学、科学、社会学、政治学など、すべての学問は、哲学から派生し、逆に言えば、ゼロベース思考を失った。
ということを考えていくと、ゼロベース思考、すべての前提を疑い、自分がこれ前の議論の何を採用するのか、それを採用する理由は何か、から発想することこそ、哲学の本質だということだ。
あ?そういうことだったのか、と書いていて、僕自身、改めて思う。哲学を学んでから、それを一度封印するようにして仕事をしてきたけれど、僕の思考習慣の中にはゼロベース思考という哲学の根本思考はしっかり息づいていて、それが自分の仕事の源泉になっていたのだ。
と、最近になって気がついた。
この年になって、新しい発見ができるなんで、本当にすばらしい。
そして、僕が<おとなの社会科>やロジカルシンキングを通じて教えたいことも、ここにあったのだということを改めて再確認する。
実はゼロベース思考がもとになって、構想力や創造力が生まれるのだが、この点についてはまた機会を改めたい。
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