(by paco)494「自由と罪」の明確な関係

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(by paco)<おとなの社会科>で「罪と罰」というテーマをやっています。day1の内容については、JINさんがまとめてくれたので、こちらをみてください。


◆何が罪とされるのかは自明ではない

day1では酒井法子の薬物使用事件を取り上げ、なぜ薬物使用が罪になるのかを考えました。

最初に断っておかないと、いつも言われなき批判の対象になるので、断っておきますが、僕は、薬物使用に賛成しているわけではないし、薬物の怖さについてもたぶん普通の人以上に研究しているし、容認するつもりはありません。

とはいえ、薬物使用の意味を原理的に考えてみると、なぜ罪に当たるのかを説明するのは意外に難しいのです。それ故に、よけいに難しい問題です。

JINさんは上記のページで

「法律は、他人を傷つける行為は罰しますが、自分を傷つける行為(自傷行為)は罰しないからです。薬物の自己使用は自傷行為に過ぎないのに、なぜ、処罰されるのでしょうか。それが、ここでの問題点です。」

と書いています。薬物を使って自分がダメになっても、それは自分自身の責任に帰結すればよいこと。自殺未遂で罪に問われないように、薬物も罪に問わなくてもいい、という議論になりかねません。

暴力団の資金源になるなど、社会悪を助長するという理由もありますが、それなら使う側ではなく、つくり、売る側を処罰するのが本筋。規制がかかっているような過激なポルノも、売るのは違法ですが、買った人を処罰する根拠はありません(児童ポルノは別です)。もし処罰するにしても、罰金刑などもっと軽い刑罰で十分です。

健康被害が出れば、健康保険など社会負担が増えるという理由も挙がりますが、であれば、薬物治療は有料にすればいい。実際、交通事故によるケガの治療は健康保険の対象ではなく、ゆえに自動車には保険が義務付けられています。

薬物中毒になったら、薬ほしさに窃盗をするなど犯罪をおこす可能性があるという理由もありますが、であれば、そのような自堕落な理由での犯罪は、犯した犯罪について、通常より厳しく罰すればよく、犯罪(窃盗など)を起こす前から、使用するだけで犯罪にする理由にはなりません。実際、殺人犯でも、あらかじめ準備して人を殺す故意犯と、偶発的に殺意をもち、殺してしまった殺人では、前者の方が罪(刑罰)が重いのです。

つまり、薬物使用そのものを犯罪にする根拠、特に酒井法子のような、自宅でのみ、10回とか20回とか使っただけの人を、有罪にするとしたら、その根拠を理論づけることは困難なのです。というか、他の犯罪と比べて異常に厳しく規定されています。

どう考えればいいのでしょうか。

◆自由の意味と、罪の意味

罪に問う」と言うことを考えたとき、犯罪時点での判断能力がしばしば問題にされます。裁判で「精神鑑定を行う」とか「責任能力があるか争う」と言うような場合です。精神鑑定の結果、心神喪失状態だったと判断されれば、無罪、または罪が軽減されます。なぜでしょうか? 悪いこと(たとえば殺人)をしたことには代わりがないの、心神喪失だと、無罪になることもある。

この考え方の背景には、罪に問えるのは、その行為がその人の意思によって行われた、ということを確認する必要がある、という思想があります。

わかりやすい例でいえば戦争に言った場合で、兵士が上官の命令によって銃を撃ち、人を殺した場合、兵士は殺人罪に問われることはありません。なぜか? 兵士には人を殺さないという選択肢がないからです。もし個人の考えで引き金を引かなければ、部隊全体が危機にさらされることもあるため、個人の判断は奪われているのが兵士なのです。逆に、善戦で個人の判断を優先すれば、軍法会議にかけられて死刑になることもあります。

戦争ではない普通の社会の場合、人は自分の意思に基づいて行動している。よって、誰かを殺すことも殺さないこともできる。殺さないこともできるのに、意思を持って殺した、という自発的意志あるから、その意思に対して責任を問うことができるのです。よって意図を持って人を殺した場合は、殺人罪になり、意図がなければ、過失(ミス)致死になる。殺人罪は過失致死罪は、まったく罪の重さが違い、前者の最高刑は死刑、後者は5年の懲役です。

という話を<おとなの社会科>でしたのですが、JINさんからこんな質問が来ました。

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え・・・罪を科すための前提として、人には人権が与えられている???では、かつて、私が憲法の教科書に「人格的自律」と書いてあるのを読んで涙した「人権」って、そういうものだったのだろうか?人権って、ただ人権っていうだけで素晴らしい、そのことに感動し、だから法学を学ぶ意味があると信じた自分は何だったのか・・・???
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一応補足しておくと、人権の中に自由があり、人権を保障するということは、人間の自由を保障することです。人格的自律も、この場合、自由と同じ意味ですね。

JINさんは

> え・・・罪を科すための前提として、人には人権が与えられている???

と言っていますが、これはちょっと違います。

僕が言っているのは。

「人間の自由が絶対的に認められている」状況下で、はじめて「ある行為を罪に
問える」

といっているだけです。

「犯罪者を認定するために自由がある」

とは言っていません。

あくまでも、人間に自由意思がある、というのが、無条件の前提です。逆に、も
し自由意思がなければ、人を罪に問うことはできません。

自由→行為の責任が問える
不自由→行為の責任が問えない

といっただけで、

罪を規定する→自由が必要

ではありません。誤解のないように。

◆自由を保障しないと、犯罪に問えない

原理的には上記の通りなのですが、社会の仕組み作りという点で考えると、自由の扱いが重要であることがさらによくわかってきます。

もし、国民が自由でなくなれば、どんな行為をしても、自分以外の第三者から強制されて(されたように自覚して)行動したと感じるようになります。自分は本当やそうはしたくなかったが、やむを得ずやったと考える。

たとえば、ソ連や東欧が共産主義国だったころ、社会に自由は少なく、たとえば「国家を転覆しようとするような考えを持った人をみたら、密告しなければならない」というように社会から強制されていました。すると、個人的には「どんな考えを持っても自由なのだから、国家を否定しているAさんも悪くはない」と考えて、密告しなければ、今度は自分がAさんのどう調査と見なされて密告され、投獄されてしまう可能性がありました。そうなると、自分の良心に反してでも、密告する、つまり自分の精神の自律はない、という状態だと言うことになります。そうすると、密告は悪いこととか、考えただけで行動は何も撮っていないのだから、悪くない、という主張は成り立たなくなり、自由はなくなって、悪くないこと(密告しないこと)が悪いことになり、悪いこと(密告すること)も良いことになる。

共産主義社会では、政府が決めた行動が善悪の基準で、個人の自由意思は善悪の要件ではなかったと考えることができます。

一方、日本のような自由主義社会では、政府は何も基準を示さない代わりに、行動は個人の自由な意志に従うことができる。しかし、「良いことも悪いこともできる」選択肢があったのに、「悪いことをした」人は罪の問うことになる。これが自由主義社会の基本的な思想です。そこで、自由主義をとる国家では、人権の尊重が最高の価値として規定されていて、日本国憲法でも第13条に規定されています。

第13条 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

国家が一方的に善悪(していいこと、悪いこと)を定めない代わりに、自由があるがゆえに、善悪判断は個人に任せる、というのが自由主義の思想で、その状況を維持するために法律や諸制度を作れ、というわけです。

◆薬物は個人の精神の自律を破壊する

そんな構造の中で、薬物の機能を考えると、摂取を続けると、精神が薬物に依存するようになり、体内の薬物依存によって、個人の意思とは違うことを考え、行動し始めるようになります。幻覚や幻聴によって、あいつを殺せと言ったから殺したとか、自分が道路の真ん中を歩いているのに、自動車がこっちに突っ込んできた、と考えるようになります。薬物ほしさのために、何でもするようになり、絶対に自分の意思だけではやめられないのに、自分はやめようと思えば今でも薬物をやめられる、と主張するようになります。

薬物は、人間の精神を破壊し、支配し、個人の自由な精神活動を起こせなくする。しかも、そうなるまでの期間が非常に短く、かつそこまで至る可能性がかなり高い。

(もし常習してもひどい中毒になるまで50年もかかるなら、薬物の危険はずっと小さい)

薬物の問題は、人間の精神の自由を奪い、憲法が規定する「尊重されるべき個人、尊重されるべき自由」が失われることが、最も重大な問題である。

憲法が想定する自由への破壊的挑戦であるがゆえに、薬物は否定されなければならない。よって、憲法の下にある刑法が、薬物を犯罪として扱っている。

このように考えるのがもっとも合理的な説明になるのです。

◆自由意思を持った個人をしっかり育てることが重要

このことからわかるもうひとつのことは、薬物が個人の自由意思を破壊するなら、薬物でなくても、自由意思を破壊、あるいは持てなくする行為は、重大な反社会的(反憲法的)行為である、ということです。

このことについてはまた機会を改めますが、個人の自由、自由な個人の尊重が、結局は反社会的行為を防ぐのだという論理的因果関係をしっかり確認しておく必要があります。

日本では、自由がはき違えられているとか、自由の前に責任が伴うとか、自由を限定的に捉え、考える人が多いのですが、順番が逆です。自由が十分尊重された個人が存在しないと、正しい行為を行う(悪いことをしない)、という人も存在しないのです。

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ということで、善と悪、自由と他律の問題が、罪と罰を考えるときに重要なキーになることを話してきました。このことは以前から繰り返し書いているのですが、やはりなかなか難しい概念なので、理解できる人が少ないのが実情です。

ぜひ<おとなの社会科>にきて、社会の基礎になる考え方について、しっかり自分の腹に落としてほしいと思っています。

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