(by paco)2011年最初のコミトンです。
今年は、六兼屋ができて10周年で、10年前の1月18日に、引き渡しを受けました。それ以来、東京と八ヶ岳を往復する生活を10年続けてきました。25年ローンも10年分かえして、でもまだまだだなあ(^^;)。
そもそもなんで六兼屋をつくったのか、どんな生活を始めたのかについては、知恵市場第二期に詳しく書いているので、そちらも参照してください。右のオレンジの下の方に「Dライフ」というタイトルの記事リンクがあります。
※文字化けすることがありますが、リロードするか、文字セットを変更すると読めるようになります。
上記のページはリアルタイムで書いたものですが、改めて、六兼屋の10年をざっくり振り返ってみたいと思います。
◆六兼屋をつくるまで
僕も妻も東京生まれなので、田舎に郷愁はありませんでした。でも、田舎的な環境については、東京生まれだからこそ、大事にしたかった。
僕と妻が育った1960?70年代の東京には、今よりはるかに自然が残っていました。よく考えてみると、空襲で東京が焼け野原になり、まだ家が建っていない空き地が結構あったのだと思います。そこがやぶになったりしていて、虫や鳥や蛇や蛙がたくさんいて、雨上がりのアスファルトの水たまりではあたりまえのようにアメンボが浮いていました。
結婚して子育てをはじめて見て、1990年代の東京にはすっかり自然がなくなっていることに気がつきました。自分たちが自然と戯れて育ってきた環境が、都会にはすっかりなくなってしまった。あったものがない、という理解が、余計に欠乏感になったのだと思います。子育てをなんとか自然のある場所でやりたい。そんな思いが、子供が幼児期に入るにつれて強くなりました。
都会育ちなので、都会での遊びもたくさんやって、飽きてきたというのもありました。田舎の日本らしい自然の中で、子供を育て、自分たちも遊びたい。そんな考えから田舎に家を建てるという発想になっていきました。
家を建てると決めるまでには、もちろんいろいろ話し合いました。家を買うお金があれば、それでホテル代にすれば、年間たくさん来れるし、好きなホテルに泊まれるから、その方がいいんじゃないか。でもその考えは、否定されました。僕らがほしかったのは、旅で訪れる場所ではなく、田舎の自然を自由にいじって遊ぶ空間だと気がついたからです。そのためには、家以上に、庭がいる。ホテルに泊まって、畑を借りてもいいじゃないかとも考えましたが、畑では作物を育てなければならず、「庭」にするわけにはいかないようだと気づき、やはり庭=土地がほしいのだと思い至りました。
家も、借りてもよかったのですが、賃貸物件はほとんどなく、あっても、ものすごく高いかとか(月額20万円超とか)、逆にぼろぼろとかで、希望のものはありそうになかった。
それで、買うという選択に落ち着きました。
経済的に豊かだったんだと皆さん考えますが、そんなことはありません。それまででいちばん経済的には苦境、というタイミングでした。それでも、将来にわたって苦境だとは思っていなかったし、苦境なら、余計に住む場所を確保しておけば、都会を離れて自給自足的に活きて行けていいかも、というのもありました。もちろん、実際にはそんなことはしないとわかっていたのですが、経済的には掛けの要素が強かったのは事実です。でも失敗したと思ったら、東京を引き払うか、売ってしまうか、と思っていたので、ある意味、持てるものがないぶんだけ、強かった。今なら逆に、愛着がありすぎて、売るに売れずに苦しいと思います。
◆どんな生活をしているのか?
2001年1月、家の引き渡しを受けて、デュアルライフが始まりました。
最初の滞在の翌日は大雪で、積雪は50センチを超え、考えてみれば、この10年で一番多い積雪でした(もともとこのあたりは寒くても、積雪はほとんどない地域)。手荒い歓迎です。初日ということで東京から友だちが2組遊びに来てくれたので、最初の仕事は雪かきでした。
薪ストーブがうまく使えずに、燃焼に失敗して、眠ってから気づいたら、部屋の中がすすだらけになって、あわてて起きたり、ちっとも部屋が暖まらなくて震えていたりしましたが、それも楽しかった。薪も、どこで買ったらいいかわからなくて困ったり、庭に出れば粘土つちで足が埋まってしまい、靴がダメになったり、長靴の必要性をはじめて理解したり、花を植えても育たなかったり、そんなこと、ひとつひとつが楽しめた。
それも、基本的な準備はきちんとしたからです。
仕事の内容を2?3年かけて変えて、飛び込みの仕事があまり来ないタイプのものにしたり、電話ではなくメール中心でやれる相手と仕事をしたり、事前に取引先にも話して、いっしょにおもしろがってもらったりしたことが、仕事を失わずに済んだ理由です。もちろん、それ以前から、締切を守る、約束を守る、ベストを尽くす、といった仕事の基本はきっちりやるようにしていました。ちゃんと仕事をする人を、世間は見捨てないんだなあと実感しました。
家の計画段階から、生活は考えていて、月2回、隔週末を挟んで、5日間滞在を基本ペースにしました。月10日間、年間の3分の1を山で過ごす。毎週末にしなかったのは、それでは慌ただしいだろうと思ったからで、正解でした。
中央高速を往復するのにもなれていきました。最初は少しで早く着こうとクルマを飛ばしたりしていましたが、覆面パトカーもいるし、少々とばしても、10分とか20分とかしか違わないので、やめました。一度、免停を食らって、そうだ、クルマに乗れなくなったり、事故を起こせば、大好きな六兼屋に行けなくなるだと思ってから、より安全運転になりました。一時の快楽より、大事なものができた、ということでしょうか。
当初は、山に着くと気持ちがふっと緩むのがわかりました。東京のペーストはまったく違う山のペースがあり、ゆったりした時間と、慌ただしい時間を隔週でチェンジするのは、いいリズムです。環境が気持ちを切り替えてくれるのが、僕にとっても、家族にとってもよかった。
娘のウポルが高校に入ってからは、パターンを変えて、毎週末、金曜の夜?月曜という滞在に変えました。隔週のパターンで生活に慣れていたので、頻度を上げてもスムーズでしたが、もし最初から週末にしていたら、くたびれてしまったでしょう。最初は、六兼屋から東京に戻るときにものすごく掃除をしていました。今から思うと、隔週で大掃除をやっていたような感じでした。というのも、きれいにしてでないと、いない間に家の中に虫が湧いたりする(田舎の生命力はすごい)、という強迫観念があり、徹底的にきれいにしていたので、六兼屋をしめて東京に向かう車の中ではみんなヘトヘト、という感じでした。だんだん手慣れてきて、そこまできれいにしなくても虫も湧かないことに気づき、手も抜けるようになって、毎週末でも気軽に移動できるようになった。それがわかるのに、5年ぐらいかかったということですね。
ということで、今は毎週のペースになり、ちょっと慌ただしいけれど、逆に気軽に往復しています。六兼屋から東京に日帰り出張仕事、というのも、普通にこなせるようになりました。
◆山暮らしの楽しみ
最初のころは庭造りが楽しくて、というかたいへんで、庭の奴隷のような生活でした。六兼屋の土地はもともとヒノキの林だったのですが、全部切ってもらいました。結果として、土がすべて掘り返されて、下の粘土層が表に出てしまったために、植物には向かない土地になってしまったのです。何を植えても育たないし、1年目は雑草さえはえてこない有様で、まわりは緑なのに、うちだけ赤土いろ。土を掘って、買ってきた園芸用の土を入れて苗を植えてみると、粘土つちが穴のない植木鉢のようになって、雨が降ると水がたまって抜けなくなり、根が腐って枯れてしまいました。タネをまいても発芽するものもなく、植物が育つというのは、実はとてもセンシティブなものなのだと肌で感じました。
当時から環境問題には取り組んでいたので、いろいろ「勉強」ではわかっていたのですが、それが目の前で実感できる。庭造りがうまくいかなくて落ち込むより、未知の世界に足を踏み入れたおもしろさの方が先で、妻と2人、完全にはまってしまいました。どうやったら、どんな植物なら育つのか。区画をつくって実験的にいろいろなもの植え、結果としてクローバーなら育つということがわかって、農協でクローバーの種を取り寄せて(牧畜用)庭中に蒔き、毎日、夜になるまで水やりを続けて、ようやく発芽し始めたときは、本当にうれしかった。
それが、数年たつと、あちこちにはびこるようになり(あたりまえだ)、雑草として処理するようになるのだから、庭仕事と言うのは矛盾の連続です。
生活面でもいろいろやってみました。
パンを焼いたり、ピザをつくったり、味噌をつくったり、手作り系もいろいろ楽しみました。やってみて、これは手間のわりにおいしいとか、買った方がいいとか、実感したものだけ続けています(たとえば、味噌造りは続けている)。パンはプロのパン屋さんの方がずっと安くておいしい。そういう人たちの仕事は素直に尊敬できるようになりました。一方、それほどのことでもないのに、すごそうに見せている仕事は、それなりに見れるようになりました。本物がある程度見抜けるということですね。
娘は、小1の時に六兼屋ができて、庭もやってきたので、虫もカエルもヤモリも平気です。自然のことが肌でわかる人になり、僕らの願いは達成できました。今は彼女は音楽に熱中しているので、庭にあまり出てきませんが、それはぜんぜん問題ありません。基本的にわかっていれば、そのうちまた、自然に興味が出てくるものなのです。
2008年には、一部屋増築することができました。スタジオをつくり、楽器をたくさん入れて、歌ったり、ダンスの練習をしたりする空間です。東京では音楽のレッスンを受け、六兼屋ではそれを実践したり創作したりする。インプットとアウトプットのバランスがとれて、娘と妻にはいい環境になりました。僕も、六兼屋では外出仕事がないだけ、やるべきことに集中できる。今年の冬休みは、<おとなの社会科>の企画に集中して、たっぷり考え、アウトプットすることができました。もし東京にいたら、これほどじっくり取り組むことはできなかった。こういう時間が、冬休み、春休み、ゴールデンウィーク、夏休みと定期的にあるので、創造的な仕事の面でもやりやすくなった思います。
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デメリットも、確かにあります。まず、金銭面ではやはりロスが多い。何を買うにも、東京と六兼屋の二重投資になることが多く、もし六兼屋がなければ、貯金らしきものもちゃんとできただろうと思います。でも、それに見合うものを得ているので、納得はしています。それ以上に大きいのは、それなりの収入を得なければならないというプレッシャーですね。決して無理をしているわけではないにせよ、やはり少ない収入でやれる生活のほうが、ストレスはないのです。高コストで、それ以上に稼がなければならないというのは、流行けっこう大変なことです。
時間のロスも大きい。片道2時間、片付けてでかけ、着いてから生活を整える時間を入れると、1回の往復で8時間ぐらいとられる。これを毎週やっているので、これをムダと思うかどうか、もポイントです。片づけを頻繁にしているので、家は比較的どちらもきれいになっています。ムダではありません。しかし、やり過ぎている。往復のクルマの時間は、確かにかかるけれど、僕は日常通勤をしていないので、そのぶんと比べるとむしろ圧倒的に少ない。トータルでは、マイナスはないのかもしれません。
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ということで、10年この生活を続けてみて、もちろん満足度という点では十分です。よい買い物をしたと思っているし、六兼屋がなかったら、僕の家族の人生はまったく別の、かなり平板なものになっていたでしょう。誰にでも勧められるものではありませんが、やる意思があれば、得るものが大きい、というのは間違いないし、いろいろな意味で、もっと手軽にデュアルライフができるようになるべきだと思っています。
いなか暮らしコンサルタントぐらいはできるので、本気で検討したい方は、いつでもご相談ください。
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