(by paco)492【先見力】自動車はこれからどうなるのか?

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(by paco)金曜日、<おとなの社会科>の、初の企業研修版をオリックスグループで実施しました。テーマは「地球温暖化とビジネス」。内容的には<おとなの社会科>セミナーで今月行っているのと基本的に同じ内容です。

その研修の中で、受講者から「自動車はこれからどのような方向にいくと思うか」という質問が出ました。<おとなの社会科>が、先見力をつけることをひとつのねらいにしている、ということとも関係した質問です(こういう質問が出ることが、そもそも鋭い)。

僕の答えの前に、あなたもぜひ考えてみてください。もちろん、将来の自動車像を明確に知ることなど、誰にもできません。しかし、見ようと努力すること、想像することはできます。こうなったらいいな、という視点も必要ですが、先見力なので、これまでの自動車をめぐるトレンドを考え、その流れを延長することで、将来何が起きるかを考えます。

なるべく、遠くまで見通すことが重要です。3年5年先なら、ある程度わかってしまいます。というのは、新型車の開発は、短くても3年ぐらいかけているので、自動車会社の開発担当者なら、わかっていること、というより、現実そのものなのです。電気自動車やハイブリッド車の開発は進められているでしょうが、もっと先を見通すことが、先見力です。ざっと、20?30年後ぐらいでしょうか。

先を読むための方法論は、論理思考の方法の応用です。
ぜひ、まず自力でやってみてください。

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イシューを決め、わく組をつくり、情報を集め、因果関係を捉える(順番は、前後しながら進みます)。先見力の場合は、この一連の思考の中に、歴史の要素が入ります。この先20?30年を考えるなら、それより長く、50?100年ぐらいの過去を見ておく必要があります。大きな流れを捉えなければならないので、長い方が捉えやすいこと、時代の変化が早いので、これからはこれまでの2倍ぐらいの速さで変化することが予想されるからです。

フレームの作り方も重要です。自動車の将来像、というイシューだけ見ると、商品としてのクルマや使われ方に注目が行きますが、それだけではないでしょう。自動車をめぐるビジネス、自動車の利用法、自動車に人々が何を求めるか、次の世代を担う若い人は自動車に何を求めているか、社会の大きな変化が自動車にどのような影響を与えるか、など。この段階では、いわゆるフレームにまで抽象化する必要はなく、フレームというよりは、全体のイシューを構成する小さなイシューを探していく、という作業になります。どんな観点を考えると、将来像が見えてくるのか、という点をいろいろ探すのです。

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さて、もったいぶらないで、僕の考えを書いていきましょう。まずはざっくり全体像、結論を書いてしまいます。

まず、クルマが今あるような形をしているかが、考えどころです。

エンジンやモーターなどの動力源がつき、運転を個人が行って移動する、という形が今後も続くかどうか。動力源は、自動車の側になくても、たとえば道の側に設置して、動いているワイヤーロープを自動車から出た腕がつかんで、引っ張ってもらうような構造も考えられます。リニアモーターのように、道路側とクルマの両方が引き合って移動する形も考えられます。要するに、道路の側にも何かしら仕掛けを作り、クルマだけで動くのではない形にすることが考えられるのです。それと連動して、運転も大半が自動化されるでしょう。乗ってからナビに目的地を入れれば、自動運転で着く、というようになると考えられます。つまり、ドライバーの役割はどんどん縮小して、乗っているだけ、目的地を指定するだけになり、運転には直接関与しなくなるのではないか、ということです。

このような形を想定する理由(メカニズム)は何か。

自動車の歴史を見ると、ドライバーの負荷軽減の歴史であることがわかります。初期の自動車は運転そのものが難しく、変速機ひとつとってもオートマチックが常識になってまだ20年ほどです。それ以前はクラッチ操作が必須で、2本の脚で3つのペダルを操作するというアクロバチックなことが要求されました。人間が制御しやすいのは、脚より腕ですが、腕だけでは操作できない、というのも、クルマの運転を難しくしています。

その結果、難しい運転練習がないとクルマに乗れず、免許制度が複雑化しました。

その難しさをなんとかすべく、ニュートラルなサスペンションセッティング(曲がりやすく、まっすぐ走りやすい)、オートチョーク、自動変速機やブレーキアシスト(軽く踏んでもがっちり効く)、ABS(急ブレーキが効く)、アンチスキッドコントロール(滑ってスピンしない)、バックソナー(バックでぶつからない)、などあらゆる電子機器が搭載されるようになり、今のクルマは、30年前のレースドライバーのようなテクニックを自動車自身がさらっとやってくれるようになりました。

このような技術トレンドに伴ってここ20年で、クルマは「機械」から「電子機器」に変化しました。残るはエンジンとサスペンションのみが機械部分です。エンジンは、今後はモーターに置き換わるでしょう。ハイブリッド車は半分モーターでやってますから、すでにクルマは電気自動車なのです。モーターが動力になれば、いよいよフル制御が容易になります。これまで以上に、運転はドライバーの責任からクルマや道路環境の責任になっていくことが予想されます(先見)。

道路インフラの電子化も進行中です。主な高速道路では、自動運転用のガイドが路肩に埋められていると言われていて、すでにトラックで自動運転がほぼ実現できています(現在は、ドライバーが乗っているものの、実際には運転しなくてもよい状態)。クルマの側でも事故防止装置が開発され、車間距離が一定以下に近づいたり、障害物との距離が近い場合は、急ブレーキをかけるようになっています。しかもその急ブレーキは、人間がかけるより、ずっと正確で確実に制御できます。

一方、ドライバーのほうはどうでしょうか。

今、若い世代はクルマ離れが進んでいて、免許を取らない人も多いし、取ってもクルマを持たない、あえて乗りたくない人が増えています。デートカーという言葉も死語になり、クルマは若者のあこがれではなくなり、あえて乗るとしたら、サーフィンやスノボなど、道具が必要な趣味を持っているような場合に限られるようになりました。それも、友だちと一緒に乗って、なるべく分担して運転するのがスタイルです。地方に住む人たちはクルマがないと仕事も生活のできないので、免許を取り、個人のクルマを持ちますが、それもやむを得ないから持っているだけで、積極的にクルマがほしいわけではありません。免許取得のコストも高くなり(通常30万円超)、そのくせ、ちょっとしたことでつかまって免停になったり、高い罰金を取られたり、さらに事故を起こせば多額の賠償と精神的な負担を受けます(もちろん、被害者はもっと大変な思いをします)。運転していれば、お酒も飲めずに、楽しめません。

つまり、ドライバーである人間の側も、積極的にクルマを運転したいという気持ちがなくなり、運転があこがれでもステイタスでもなくなり、かえって重荷になっている、というわけです。

さらに、もうひとつの情報。

自動車が人間の移動手段として広まったのは1910?20年代の米国、T型フォードがきっかけでした。それ以前は、人間は徒歩か、または鉄道を使っていたのです。モータリゼーションの初期、フォードやGMなどの自動車メーカーは、クルマを売って得た利益を使って鉄道会社を買収していきました。そして傘下に収めた鉄道会社を順次つぶしてしまったのです。その結果、鉄道という交通手段を失った米国市民が自動車を買わざるを得なくなったことにより、米国ではモータリゼーションが進展しました。

日本でも、1950?60年代にモータリゼーションが進みますが、この時期にあちこちの都市に走っていた路面電車やトロリーバスが廃止され、都市内の庶民の足が消えました(その後、高価で使いにくい地下鉄がつくられます)。

こうして、鉄道など他の移動手段が消えたことと並行して、車が移動手段の中心になっていったのです。

このように考えてみると、もし、鉄道をもっと積極的に利用する都市計画が続いていれば、自動車は今のようには普及しなかった可能性に気がつきます。

もちろん、自動車のよい面はたくさんあります。なんといっても、モビリティの自由は大きな恩恵で、深夜でも、駅から遠くても、荷物が多くても、雨がひどくても、移動が簡単にできるというメリットは、ある意味、人権を保障する機会といえるほど、大きな魅力です。

と考えると、今の自動車の持つ「個人のモビリティの自由」を担保しながら、鉄道のよさを併せ持った社会システムに進化していくことが、ひとつの解として見えてきます。

上記のような「自動車システム」なら、自動運転によって運転は個人の責任ではなくなり、酒を飲んでも乗れるようになり、自己の責任も人から切り離せます。自動車保険の必要もなくなるし、クルマ自体を公共財にすれば、駐車場を個人で確保する必要もなくなります。今、免許を取ってクルマを買い、利用するときにかかる多額のコストを、社会インフラとしての利用に変えれば、低コストで利便性が高いのモビリティが実現できる可能性があります。

イメージとしては、屋根、というかキャノピー付きのセグウェイのような乗り物が街角のステーションにおいてあり、利用するときはケータイをかざしてログインして借りだし、使い終わったら適当なステーションに返す、というような使い方です。遠出するときは、今のクルマのような形の電気自動車をレンタルします。都市内は、歩行者と分離した車道を走り、クルマ同士は一定以上接近すると、自動制御で停止する、といったしくみになっているでしょう。もちろん、一定以上のスピードは出ないしくみです。免許も不要か、ごくかんたんになるでしょう。いずれにせよ、基本は自動運転かそれに近い方法です。

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実は、これは僕の妄想ではなく、トヨタやホンダなど自動車メーカーの研究所では、以前から研究されていました。トヨタは「i-Real」というコンセプトカーをつくり、ホンダはもっと簡易な一輪車タイプ「U3-X」を開発していますが、これらは上記のような社会インフラを想定したもと考えられます。ホンダはアシモの研究するのも、人が移動するというのはどういうことなのか、その本質に立ち返ることが目的なのです。トヨタが「iQ」と言う超コンパクトカーを販売しているのも、さらに小さなクルマを作るための基礎技術を磨くためと言われています。

ということで、今起きていること、過去に起きたこと、今の人々の指向性をあわせて考えると、一定の方向性が見えてきます。ハイブリッド化、電気自動車かというトレンドも住ですが、それは直近の勢力争いに過ぎず、その先に本質的な変革が待っているでしょう。

先をどう読むか、知恵を巡らすと、見えてくるものです。もちろん、「当たる」かどうか、それがいつ実現するかは、不確実なことはいうまでもありません。でも、「わかる」こともあるのです。

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来年は、<おとなの社会科>の中で、先見力や議論をする技術についても、教えていくつもりです。

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