(by paco)ふるいR25が出てきて、ぺらぺら見ていたら、巻末の石田衣良のコラムがおもしろかったので、シェアしたいと思います。
石田衣良と僕は同年生まれで、けっこうよく似た価値観を共有しているところがあるのですが、あくせくしない、落ち着き加減とか、しなやかな姿勢が共感できるところです。
上記のファイルにある石田衣良の3本のコラムから読み取れることは、
「いわゆる経済成長の時代は完全に終わったことを自覚せよ」
「経済成長しなくても個人は楽しく豊かに暮らせる」
「国の成長と、個人の成長を「切断」せよ」
いうメッセージです。
で、このメッセージは僕が以前かいた
[知恵市場 Commiton]474GDPで表せない価値を表面化させる
と基本的に同じ方向のことを言っていて、こんなところが石田衣良と共有できるところです。と、まとめてしまうと、それっきりなんですが、改めて、どういう話なのか、書きたいと思います。
日本は、崖っぷちにあって、日本経済がダメになるか、復活できるかは、ここ数年の国の行動にかかっている、という認識が、特に優秀なビジネスパースンの間では共有されているようですが、これは本当なのか。
そして、こういう認識があるということから考えて、ビジネスパースンにとっての未来が、この「日本経済の復活」と直接的につながっているという認識がある、と思われますが、これは本当なのか。
石田衣良は、日本経済の展望と、自分の生活の展望を「切断」するべきだと言います。僕も同感です。なぜ日本経済と自分の生活の、特に「質」が比例関係にあるといえるのか。それは、根拠のない「信仰」ではないのか。
この「信仰」を表しているひとつの例が、石田衣良のコラムの3ページ目にある「首相に待しすぎるな」というメッセージです。首相や政治家が、経済を何とか上向きにしてくれる、その結果、自分の生活も上向きになる、という理解があり、それはすでにあり得ないことにもかかわらず、多くの人が信じている「信仰」なのです。
このように、政治家や首相に万能性を期待し、その万能性によって政治家や首相が経済を上向きにしてくれるはずで、それが自分の幸せの構図だ。だから、無能で経済を改善できない首相は、やることをやっていない、だからさっさとやめさせてやる、というのが、「回転ドア」と言われるような、日本の首相の交代頻度になっているのです。
では、なぜこのような考えは「信仰」といえるのか。
ひとつには、1990年代前半のバブル崩壊以後、登場したさまざまな政権のいずれもが、経済を上向きにすることができませんでした。小泉政権下では経済は上向いたじゃないかというかもしれませんが、それでもプラス2?3%程度の成長で、「日本経済の復活」といえるような上向きの変化だったとまではいえないでしょう。
経済全体が上向きにならない一方、個人の生活はどうだったのか。
まず、ましな人々である、ある程度安定した仕事を持っている人は、経済が上向こうが下向こうが、生活自体が大きく変化しているわけではありません。あくまでも気分の問題程度で、小泉政権時代は羽振りがよかったが、リーマンショックのあとは生活が苦しく、その日暮らしに近いひどい耐乏生活だった、というわけではありません。
ましでない人々は、定職に就けなかったり失ったりして、望まない非正規公用に陥って、生活が厳しくなっているでしょう。しかしそれは、「よかった」はずの小泉政権の時期から始まっていることを考えると、経済全体がよくなっても、生活の基盤を失う人がそれに連動して増えたり減ったりしているわけではありません。今年は景気がよくなってはいるものの、GDPの成長に合わせて、失業者が減っているわけではなく、とてもゆるい相関関係があるだけです。
こう考えると、ましであっても、ましでなくても、経済の動向と生活の善し悪しはほとんど関係がないことがわかります。
このような状況を見ておくと、経済全体の話と、個人の生活の質とは、リンクさせるべきではない、ことがわかるのです。両者を関係づけることをやめ、「切断」しようというのが石田衣良のメッセージであり、僕もまったく同感です。
では、経済全体とのリンクをはずして、何とリンクするのか。
石田衣良は、自分で自由に設定しなさい、という。そう、それができた人が、今の時代には強いのだと思います。
たとえば、マラソンや自転車の人口が増えていますが、仕事はそこそこにやりながらも、個人の生活の真ん中をしめているのは、実はマラソンや自転車、というのであれば、それも、石田衣良のいう「下り坂の下の湖」なのだと思います。ヤマハミュージックスクールでは、大人のクラスが人気ですが、昔は買えなかったちょっと高い楽器を買って弾く大人が集まっています。
「つまり、趣味に生きろってこと?」
そう理解するのがすっきりするなら、それでいいと思います。あくまで個人の価値観で決めろ、ということです。
社会学者・宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」と本を書きましたが、これも「誰かがすばらしい世界をもたらしてくれると思うな、今ある日常を、まったりと楽しめ」というメッセージです。
知恵市場に書いた記事「経済より政治の話をする米国庶民」に見える、米国人の考え方も、同じように、政治や経済より、自分の生活への影響を優先する考え方ということができます。
http://www.chieichiba.net/blog/2010/10/by_paco_147.html
「経済的成長」から「自分の生活の向上」を切り離すイメージトレーニングを積み、「そんなのかんけーねー」と見向きもしないマインドになれるかどうか。
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僕自身についていえば、自分の楽しみとして写真と音楽とクルマがあり、もし一定の生活が保てるなら、この3つのうちひとつでも充実していれば、充足できそうです。
もうひとつの例としては、地方、それも小都市や農村での生活です。生活圏が狭く、買い物の範囲や日常的に会う、目にする人も限られていますが、それと手自分が何かの充足を感じていられれば、たいした問題ではないでしょう。むしろ、余分なことに煩わされなくても済み、刺激に追われることもありません。比較的小さな範囲で、たとえば農産物を地域の人に売るとか、自分の得意なパソコン設定の技術を活かして、いろんな人のネット環境を整えてあげて小銭をもらうとか、そういうことでも充足できる生活ができるでしょう。これはぜひほしい、と言うものはネットでかんたんに手に入るので、ますます都会にいる必要はありません。
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このように書くと、僕がやっている<おとなの社会科>の活動と矛盾するじゃないか、と思われるでしょう。<おとなの社会科>は、社会や世界のことを知らないと行きにくいよ、というメッセージなので、確かに矛盾しているように見えます。
その通り、本質的には、上記のような「切断」された生き方には、<おとなの社会科>のような視点は不要です。
でも、実際にはふたつの点で、必要です。
ひとつは、「切断」された生き方をするには、社会全体の、上記のような理解をした上で、だから自分はこれでいいのだ、と自分を位置づけた方が安心できます。実際、ここまでの説明でも、小泉政権だの、非正規雇用だの、グロバリゼーションだの、いろいろな要素が含まれていて、そういう総体の中で理解しておかないと、「切断」された行き方がなぜいいのか、それでいいのかが自分でも説明が付きません。<おとなの社会科>は、あえて無理に世界に関わらないという自覚をするために、入り口としてみておくとよい、ということができます。
もうひとつは、「切断」されない人もいる、ということで、これはグローバル競争の中に生きるビッグビジネスで、リーダーシップを取る仕事をしている人です。大企業のマネジャー、マネジャーになろうとしている若手、という人たちですね。こういった人は、「切断」されているわけにいかないので、コミットするために<おとなの社会科>が重要です。
さらにいえば、自分の子供たちをどう育てるか、ということにも関わってきそうです。切断された生き方を選ぶのか、切断されない生き方を選ぶのか。どんな子も「切断されない」時代はもう終わっているので、本人の選択やキャラによって、どちらがいいのか、うまくリードしてあげる必要があり、ここを間違えると子供がパンクしてしまうのでしょう。
この「切断」は、「デカップリングdecoupling」という英語に置き換えられそうです。電子回路をノイズから切断する、ということから始まったこの言葉は、いろいろな意味で時代のキーワードになりつつあるようです。
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