(by paco)今週は時事問題のオムニバスです。
◆尖閣ビデオ流出問題は日本企業にも当てはまる
尖閣問題で政府がビデオを隠していると思ったら、今度は流出して、情けない状況になった。これでは中国と渡り合うどころか、国内が手足ばらばら、という感じ。どうした日本、といいたいところだけれど、僕は実はちょっとほっとしたりしている。
隠されたものが出てきたから公開性がどうの、というようなことではなくて、あ?日本ってゆるくていいな?という感じ。いや、あんまりよくはないのだが、でもちょっと安心する感じがする。きちっとやれるのは、日本人の美徳のひとつではあったのだけれど、今のように日本が、中国がとナショナリズムが高揚しそうなときに、組織ががっちりやり過ぎるのも、何となく怖い、というのがあり、抜けているぐらいでちょうどいいのかも。
もちろん、そう楽観していられる状況ではないことは事実なので、あくまでも「第一印象」ということで、論理的な見解ではないことはお断りしておく。
今回の流出事件だが、やはり内部の職員が「犯人」だったようだ。情報流出のほとんどは、外部からのハッキングではなく、中にいる人が原因と言われているが、今回も原則通りだ。
海上保安大学校の共有サーバ上にあったものをコピーして持ち出した、ということで、単純に言えば「管理がずさん」と言うことになる。官僚は、外に厳しく、身内に甘いから、身内を過剰に信頼したことが原因だとか、言いたくなるが、そういう点はあるにせよ、本質は違うと思っている。
管理がずさんなのは事実ではあるけれど、事の本質は、管理過剰にある。
過剰なのに、ずさん?
管理しようと考えて、どうでもいいものまで「秘密」にしようとする。その結果、秘密の秘密性に対する感受性が鈍り、本当の秘密とどうでもいい「秘密」との違いが見えにくくなり、情報管理が甘くなるのだ。このメカニズムは、官僚だけでなく、民間企業にもよく見られる、というよりは、民間企業の方が強いかもしれない。
IT業界では、職場に携帯電話や私物PCの持ち込みを禁じたり、ツイッターやSNSなどを会社で使えなくするのは、常識になっている。理由は、もちろんわかる。あらゆるものを秘密扱いにして、いっさいのリスクを避けようとしているからだ。
ちなみに、IT会社に勤務する人間が、SNSやツイッタやブログを使えないということは、最新のウェブソリューションを使うことができないということで、これでは最新ツールのリテラシーが育たず、提案力も低下するという結果になるだろう。
リスクを避けるためにいっさいを秘密にして外部から「無菌状態」にしているが、逆に、外からのバリアをいったん突破できれば、情報を取り放題と言うことにもなる。
尖閣のビデオについても、「名乗り出」の前の段階では、ビデオの編集を内部でやらずに、外部スタッフに依頼して、その段階で外部スタッフが持ち出せる状況だった可能性もある、という指摘が出ていた。
企業と仕事をするときに、いちいち契約書を交わすことが多くなり、その中には必ず守秘義務条項がある。「本件を通じて知り得たすべての情報を対象にする」という守秘義務契約になっていることも多く、「なんでも秘密でいいわけ?」と思うことも多い。これではかえって、情報が漏れるのだ。
僕が契約書を交わすときには、基本的に、守秘義務契約の条項を中心に見る。納得がいかないときは、条文を変えてもらっている。僕の仕事で言えば、研修の仕事で知り得た情報すべてを秘密、というようになっていることもあるので、ここを修正してもらう。僕がほしい情報は、クライアント名、研修内容、個人や企業の特殊性を含まない所見(感想など)は、公開できるようにお願いしている。特にクライアント名と研修内容は重要で、これが公開できないことになると、僕は本当に仕事をしているのかどうか、示せなくなる。また、研修の営業をする側としても、「この方はA社やB社で研修の実績があります」と具体的に示すことができず、またそれを確認するすべもないことになる。これでは、ウソの実績をいうニセ講師が出ても対処できない。
本当に重要で、機密性の高い情報のみを金をかけてでも漏らさないように管理し、それ以外は基本的にオープンにしておく。秘密が少なければ、秘密に触れる人も少なくなり、漏らすリスクも減る。すべてを秘密にして漏れないように管理するより、ずっと低コストだ。
海上保安庁を「脇が甘い」とあきれているヒマがあったら、自らの秘密管理について、企業人は再考すべきだ。
そうそう、逮捕された海上保安官は、何の罪に問えるんだろうか? 職員なら誰でもとれるサーバに置いてあるデータを漏らしたからといって、「守秘義務違反」に問えるのかどうか。
一方で、「よくやった」「義憤にかれてやったことだろう」ともてはやす輩も多いが、こういう、「よくないことをやった人」を「よくやった」というような倫理観のない発言は慎むべきだ。また、そういう発言をしている人を信用しない方がいい。罪に問えるかどうかとは別に、公務員が公務で知り得た、どう考えても問題になりそうな情報を外に漏らすというのは、本来するべきことではないし、義憤に駆られたのなら、情報公開法かなにかで公開請求し、裁判にでも訴えるのが法治国家の国の住人のすることだ。
◆菅政権のやる気のなさが残念
政治がらみと言えば、菅政権の動きの鈍さがなんともやるせない。
民主党への政権交代の時には、僕はおおいに支持したし、鳩山政権はかなり一生懸命擁護してきたが、菅政権になり、養護する気にも慣れない。なぜか。
菅政権が「仕事」をしていないからだ。
鳩山政権は、やることが妥当だったのかとか、やり方がまずかったとか、いろいろ問題はあったものの、旧政権でできなかったことをやろうという意思は明確だった。そして、短期間に次々とやるべきと考えていることを実行に移した。うまくやれなかったことも多いが、とにかくやろうと必死に動いていた。
菅政権が誕生してから、何をやったのか。
少なくとも、表に出てくるような新しいことはひとつもない。表に出ないようにやっているのかもしれないが、だとしたら自民党政権がやってきたことと同じに見える。
菅首相は、就任後、「俺が何をやりたいかを聞くな、俺に何をやらせたいかを話せ」と言ったわけですが、やっぱりあの人は空っぽの器だったのかとがっかりする。リーダーシップとは、強引に信念を貫くこと、ではないものの、信念を抜きにされるのは、リーダーシップ氏にとっても不本意だろう。
と思っていたら、小沢一郎が復活宣言とも感じられる行動を取り始めた。ニコニコ動画で直接の語りかけを行い、菅政権とは一線を画しつつ、「一兵卒として動く」と宣言した。なにも役職はなくても、権力の源泉は弱まったものの、小沢一郎の影響力は今なお侮れない。民主党がすっかり骨抜きになっている状況を、小沢一郎が看過できるはずもなく、かつ、「民主党から出ることはない」と宣言してことと相まって、政治的影響力を発揮する活動期に入るつもりのようだ。
以前から書いているが、民主党が好きとか、いいことをやるだろうということよりも、自民党政権ではできなかったことを、公開性を持ってやることが、僕が民主党を支持した理由だ。だめな政策もあるだろうが、公開の議論を経て、実行し、結果を市民に問いかける、ということができる政党であってほしい。
◆映画「悪人」は期待はずれ
話題の映画「悪人」を見てきた。
今年は、初夏に「告白」、秋に「悪人」とヘビーな殺人映画が公開され、かつどちらもヒットして、時代を感じさせる。重いテーマも受け止めることができる市民の空気あるのだろう。
ひとつ言っておきたいのは、日本人は平均的にいって、重たいテーマを考える力はちゃんと持っている。それが機能しないのは、重たいテーマを見たり考えたりしようとする人をバカにしたり、つまらないことだというメッセージが外から来るかどうかが大きい。
バブル頂点のころ、重いテーマの映画や話題というのはまったく受け付けられなかったが、この管も、そういったことを考える能力がある人がいなかったわけではなく、「言わないようにしていた」だけなのだ。
さて、「悪人」。「告白」もみた僕としては、「告白」の圧勝だ。「告白」ハひとりで映画館に言ってみてきたが、妻と娘に、ぜひ見てきたらとおおいに勧めた。「悪人」は妻と2人で見に行ったが、妻を誘う必要はなかったなと思った。
どこが違うのか。
ストーリーの厚みというか、殺人事件にしても、その犯人、犯人の周囲にいる人の行動、どれをとっても、「悪人」は背景が薄く、説明不足で、説得力がないのだ。
「告白」で少女を殺す犯人の少年には、意表を突く動機があり、本来の真犯人になりたかった少年から、「犯罪者」を奪い取ってしまう。
一方、「悪人」の主人公には、女性を殺す動機がどう考えても薄い。少なくとも、同じ状況に自分がいても絶対に殺すことはないし、同じ状況に、主人公と同じきょうぐうのにんげんがいたとしても、ころさないだろう。
主人公は、九州の田舎で閉塞した生活を送っている労働者階級であり、見た目の素直さとは裏腹ないらだちや、母親に捨てられた過去というトラウマを持っていた、というように設定したいのだろうが、その一方で、彼には内情を理解して支援してくれる親類や友人もいて、決して見捨てられたような孤独にいるわけではない。破壊的な犯罪を思いとどまるぐらいの人間関係は持っていたと考えられる。
というか、もし同じように、閉塞感のある田舎で暮らしている、ちょっと複雑な家庭を持った若者がこの映画を見たら、自分も犯罪者予備軍のように扱われている、と不快に感じるのではないかと思うし、実際、そのようなコメントを書いているブログもあった。
殺人犯の若者に恋をする女性の恋の動機も、不明だ。確かに、惚れてしまうシチュエーションというのもわからなくはないが、少なくとも「こんな恋に落ちたら、自分の人生をなげうっても、殺人者と付いていきたいと思うだろう」と思うような恋の美しさやあやしさは表現されていない。
もし、恋に落ちた相手が殺人犯、しかも決して遠い過去ではなく、つい最近、その手で別の女の首を絞めて殺した男だと思ったら、果たしてその手を愛することができるんだろうか、女として。それを超える何かを、男が与えているシーンは、なかったと思う。まあ、ベッドシーンもしっかりあったので、セックスがすごくぴったりの相性だったんだよ、と描きたかったのかもしれないが、それなら、ラブホだけでなく、愛車の中でも東大でもどこでも、ところ構わずセックスしてしまうぐらいのおぼれ方を描かないと伝わらない。
ということで、「悪人」は、シチュエーションはおもしろいものの、全体として未消化な映画で、まったく描き足りないというのが僕の評価。「見ているうちに、だれが本当の悪人かわからなくなった」という評価コメントもあったが、どちらかというと、「殺人シーン自体に説得力がない=悪を描けていない」と言うことだと思う。
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