(by paco)今週は趣味の写真ネタです。
去年の夏にフィルムカメラに回帰して、いろいろ撮ってきました。コミトンでも、3回書いているので、その続きになります。
421古いカメラでモノクロ写真を楽しむ
441フィルムカメラからみえる、理性と感性の間
450オークションを使いこなす豊かさ
携帯についているカメラが1000万画素を越え、コンパクトデジカメは笑顔認識とか、失敗のないきれいな写真が撮れるものが、10000円台で普通に買えるようになりました。手軽にきれいな写真が撮れるデジタル機器がこれだけあるのに、いったい何で、いまさらフィルムなの?という疑問もあると思います、というよりは、僕自身が、それがよくわからなくて、とり続けてきた1年でした。
去年の8月から、取ったフィルムは36枚撮りで125本、毎月ほぼ10本ずつ(360カット)とっている計算になります。ちなみに、デジタル写真も撮っているので、毎月600?1500カットぐらいの写真を撮っています。
カメラも、この1年でたくさん買い、たくさん売りました。
フィルム一眼レフ→PENTAX MX、ME、ME Super、Olympus OM-2n
フィルムコンパクト→Opympus XA、Rollei35、Rollei35 SE
レンジファインダ→Voigtlandar BESSA R2、BESSA R2A
レンズもいろいろ買い、いろいろ売りました。
同じカメラを買って売ったものもあります。理由は、トラブルで、全部ヤフーオークションで買うので、調子のよくないものもあるのです。使ってみて、使い勝手が悪く、売ったものも。はずれくじを買うことは織り込み済みなので、その場合は、「ここが調子が悪い」「ジャンク品」として安く出品するのですが、これまですべての出品が売却できています。少し高く売れるものから壊れていて安く出したものまでいろいろですが、買値より安く売ったとしても、もともとが1?3万円ぐらいものしか手を出さないので、差額もたいしたことはありません。おとなの趣味の投資としては、金はかからない方です。
写真、カメラの中で、フィルムの占める量、質は、確実に増していて、以前は「メインはデジタル、フィルムはお遊び」だったのが、今は「メインはフィルム、デジタルは限定用途や記録用」に変わりました。いったい何がおもしろくて、フィルムを取るのでしょうか。
キャリアの長いプロカメラマンが書いていた文章が印象に残っています。
プロカメラマンもいろいろな人がいて、今でもフィルムだけの人もいれば、デジタルだけの人、両方使い分ける人がいます。この人は両方を使い分けているのですが、「どちらがいいというわけではなく、道具は使い方次第」とニュートラルな人です。
「デジタルカメラの性能が上がった結果、起きたことは、圧倒的にシャッターを切る枚数が増えたこと。類似のカットを何枚でもとるのが当然になり、そのぶん、失敗もなくなった。でも、それに反比例して、1カットずつで何を撮ろうとしたのかが希薄になった。雑に撮っていることがあり、この点には注意が必要だ」
僕がフィルム写真を再開して感じたのも、この点です。
デジタル以前、かつてフィルムカメラをあたりまえのものとして使っていたときには、36枚の1本の中に10ぐらいのシーンがあり(違う場面をとっている)、実際に「これはいいな、作品になる」と思えるものが2?3カットでした。36枚の中から2?3カットを選び出す感覚がちょっと宝探しのようで、楽しいというのもあったし、その36枚の中に凝縮された何日間か、何時間かの時間から、あとに残したい時間を探し出す、ということでもありました。
このカットを撮ったときには、こう考えて撮ったんだよなとか、確か、この写真は奥に子どもが走っていたのを狙って撮ったんだけど、映っているかな、というような、撮ったときに記憶をたどり、ねらいと結果を確認する作業をしていたのでした。それは、言ってみれば、因果な関係を探る作業であり、もしかしたら、僕はここで論理思考を鍛えたのかも知れません。
ねらい通りに映っていれば、どうしてうまくいったのか。ねらいがはずれていれば、なぜなのか。そのつながりを考え、次回の改善点を頭に入れる。これは問題解決の思考そのものです。
もっとも、こういう作業はスポーツや音楽でもよくやっていることで、自分の走り方や歌をビデオに撮り、見直すことで、やったことと結果のつながりを考え、よりよくする方法を考えて、実行する、の繰り返しです。こういう趣味的な作業は、論理思考とは無縁だと考える人もいるでしょうが、意図的にやると、じつはとてもロジカルなのでした。
ファインダーを覗いて、撮影の意図を考えて取り、あとからそれがどうなったかを確認する、という作業は、もちろん、デジタルカメラでも同じです。
しかし、違いがいくつかある。
まず、デジタルカメラでは、結果がすぐ見える。そこですぐ修正して再度撮影できる。声は思考のスピードを上げることと言ってもいいかもしれません。しかし、カメラの小さなモニターで確認できることは限られているし、落ち着いて確認できてもいません。ざっと修正して、納得してしまっているのでしょう。部屋に戻ってPCの画面で見たときには、すでに修正済みと思っているものを見ているので、それほど深く考えない。
フィルムカメラで撮ると、そもそも撮影の結果を見るまでに、何時間か、何日か、かかり、すぐに見ることはできません。その間に記憶が薄れ、改めて仕上がりを見てから記憶を呼び覚まして考える。このタイムラグが、意図と結果を考えさせ、楽しみを生むのでしょう。
で、実際に撮っていくと何が起こるとかいうと、デジタル写真と比べると、とにかく狙ったとおりに仕上がらない。ほとんどは狙ったものよりがっかりすることが多いのですが、ねらい以上のものがあると心が動かされるし、最初は「だめだ?」と思っても、繰り返し見ていると、狙ったものよりこっちの方がいいじゃないか、と思えるものが出てきて、このギャップが楽しみになります。
人間は、思い通りになることより、少し思い通りにならないことの方が楽しみを見出すのかも知れません。
フィルム写真のふたつ目のお楽しみは、「よく映らない」ことです。これは以前のコミトンにも「絵画的」という言い方で書きました。
◆映らないから、感じ、考える。
写真はよく映った方がいいに決まっていると考えがちですが、本当にそうなのか。同じ花(ノウゼンカズラ)を撮った2枚の写真ですが、左がデジタル、右がフィルムです。デジタルの方が細部まで映っているし、色も現物そのものです。でも、細部が映ることを追求すると、顕微鏡で見るようなものが映っていることまで期待するようになります。おしべの花粉のつぶつぶを見たくなるのです。でも、それは「花」を見るのとは少し違う興味です。フィルムで撮ったもの(右)は、細部までは映っていないし、色も現物と少し違います。それでも、撮った者には、記憶を呼び覚ます力があります。真ん中のおしべにピントを合わせようと一生懸命見たな、とか。日が当たっている花びらを白くいろ飛びしないように、露出補正をかけたな、とか。色が違うことも、「違う」と思うことで、本当の色はどうだったんだっけ、と思うこともあれば、逆にこれが本当の花の色だな、と現実を無視して記憶してしまうこともあります(記憶色)。そのものずばりが写るデジタル写真より、現実が映らないフィルムの方が多くのことを思い起こさせる。写真を見ているときに、いろいろな重いが去来して消えていく、その量が多いほど、趣味として、時間として豊かなのではないか、と思います。
多分、そんな豊かさが楽しくて、フィルムカメラを手に取るのでしょう。
この2枚も、左がデジタル、右がフィルムです。色がかなり違うのは、撮った時期が少しずれているからです。ギボウシの花は、最初白っぽい色で、咲き終わりに近づくと青が強くなります。ですから色が違うこと自体は正確です。でも、どのぐらい違うかは、もうわからない。デジタルカメラで日照などの条件をそろえれば、とても正確に色を再現できるのですが(その場で色が確認できるし)、フィルムカメラはそもそも正確な色再現、という概念がないので、いずれにせよ、現物のギボウシとは別の「そこに映っている花」「記憶の色と一致している(あるいは一致していない)花」があるだけです。撮影者のあたまの中には、本当の色はどうだったんだっけ、と考えてしまう。
一方、うつっているものの「存在感」としてはどうでしょうか。デジタルは本当にそこにものがあったのがわかる、圧倒的な存在感です。比較すると、フィルムでは、むしろはかない感じ、本当はなかったのに、かろうじて留めることができた夢の記憶のような感じがします。
同様に、同じモチーフを撮ったデジタル写真とフィルムを並べてみます。見ているあなたは、どんな違いを感じるでしょうか。もちろん、なにも感じない、どっちも写真じゃん、という人も多いと思います。それはそれで、素直な感想ですよね。他人の趣味とは、そんなものです。
こうやって並べてみると、改めて、僕はどっちの写真も好きなんだな、と思うのです。デジタルの持つ有無を言わせぬ力強さも好きだし、フィルムの持つ、記憶に訴えかける力も好きです。それで、2台のカメラと、数本のレンズをわざわざ持って写真を撮りに行くこともあるのです。
◆狙わないものがとれる
フィルムで撮っていると、まったく狙わないものが取れてびっくりすることがあります。これは、その場で結果がみれてしまうデジタルではあり得ないことです。デジタルでも、狙わないものが取れることはありますが、その場で見れてしまえば、狙わなかったことさえ忘れてしまうのが人間の記憶です。
猫の写真は、もっとピントをシャープに撮ったはずだったのに、ぼーっとしてしまいました。タクシーを捕まえるおねえさんの写真は、なぜか色が激しくなったので、余計に激しい色にスキャンしてみたら、おもしろくなりました。稲の写真は60年前のライカのレンズを絞り開放で撮ったのですが、とろーっと融けるような描写が現実離れしていい感じです。
黄色いオオハンゴンソウは、背景の色が現実とはかなり違う濁った色になっていますが、淡い黄色をうまく邪魔せず引き立ててくれました。これもオールドライカのレンズです。こういう描写は、デジタル写真では絶対に撮れませんが、なかなか、狙って取れるものではありません。現像が上がって、スキャンしてみるまでわからない。最後のピンぼけ写真は、今のデジカメでは逆のとれないでしょう。もちろん、狙ったわけではありません。でも、ゆめの中の記憶みたいです。
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こういう写真の楽しみは、しょせんパーソナルなものです。狙った作品をとって、それを売る仕事をしているプロの商品づくりの方法ではありません。作品として、すばらしいと思ってくれる人も中にはいるでしょうが、僕にとっては、自己満足の世界で、それ以上でもそれ以下でもありません。でも自分の時間をけっこう豊かにしてくれて、楽しいし。だから、東京で仕事中でも、バッグの中には必ず何かしらカメラを入れています。都会で撮った写真も楽しいものです。
それでも、ちょっとだけ色気はあるので、もし、広告とか、webサイトとか、何かに使ってみたいという人がいれば、ご連絡ください。貸し出します。
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