(by paco)476児童虐待・不明100歳問題は共同体の観点から読み解く

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(by paco)前回の続きを書きたい。

前回の最後に、

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ここでひとつ注意しておきたいのは、社会とは、そのまま国や自治体など、行政を意味するとは限らない、ということだ。むしろ共同体と考えるべきで、米国ではそれが時に教会や宗教団体が担うこともある。大陸欧州では、宗教から離れて、地域コミュニティが担っている。

日本では、コミュニティが崩壊して久しく、それが社会を崩壊させているために、国や自治体の負担がひたすら増えている。「社会=行政」ではなく、「社会=コミュニティ」をいかに機能させるかが、今の課題と言えるわけで、ネグレクトの問題も、コミュニティの機能不全の問題として捉える必要がある。
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と話した。

今、多くの人が注目している「児童虐待・不明100歳問題」については、メジャーなメディアでは、識者が「国は何をやっているんだ」「児童相談所は?」「民生委員は?」「縦割り行政が悪い」「杓子定規の行政が悪い」など、行政の不備を非難する論調が多い。しかし、これは大きな視点で考える時には、妥当ではない。

もちろん、近視眼的、ミクロ的に見れば、行政が果たさなければならない(期待されている)役割が充分に果たされていない、ということは言える。しかし、この問題を行政の問題であるかのように限定するのは、まったくピントがずれている。

児童虐待にしても、不明の100歳にしても、もし40年ぐらい前(1960年代まで)までの日本なら、まず起こりえないことだった。少なくとも、人の多い大都市で、ネグレクトによって子どもが住む部屋がゴミだめになって悪臭を放ち、そこで幼児が二人も餓死するなどという状況は、絶対にあり得なかった。

なぜか。

明らかに問題があると思えば、家ごとのプライバシーを尊重するという考えはあるとしても、他人の家や生活に踏み込むのがあたりまえと考えられていたからだ。これを共同体、共同性、コミュニティ機能などという。

別の言い方をすれば、困っている人、明らかな問題がある時には、損得勘定抜きに目の前にある問題に飛び込んでいくのがあたりまえだという価値観が共有されていたということだ。

「フーテンの寅さん」ややくざ映画、あるいはにっかつロマンポルノなど、当時のどの映画を見ても、損得勘定やプライバシーより、目の前の困った人、困った状況の解決を優先するのが当然、という姿が描かれている。そのぶん、荒っぽいところもあり、相手の都合を考えずに、おせっかいが降って湧いてくる、というような状況だ。

こういったコミュニティ機能があれば、100歳を超えるお年寄りが隣に住んでいれば、近所の人はみんな知っているし、かりに本人が病気で寝ていたとしても、ようすはどうなのか、必ず話を聞こうとする。もし家族が100歳の高齢者のことをリアルに話さなければ、たちまち噂が立つ。本当はいないのではないか? 入院したのか? 買い物として家に持ち込まれるもの、洗濯物やゴミの量なども注目されるだろう。

周囲の人も長くそこに住んでいたので、100歳老人が元気だったころ、どんなことをしていたか、どんな食べ物が好きだったか、知っている。高齢になって多少元気がなくなっても、生きていれば、それらの食べ物などが家に持ち込まれるに決まっている、わかっている。駅前のスーパーマーケットで買い物中の、その家の主婦と会えば、レジカゴに入っている食材をチラ見して、100歳老人の好物が入っているかどうか、高齢者用の道具が入っているかどうかチェックする。もし、想定されるようなものが入っていなければ、不在を疑うだろう。

疑えば、「最近は何を食べているの?」などときくのがあたりまえだった。それによって100歳老人の様子がわかるし、疑わしければ、たちまち近所に不信の噂が立った。

実際に、100歳老人について噂や疑いの声が出なかったとしても、もしかしたら噂になってしまうかもしれない、という共通理解があれば、噂を立てられないように注意するだろうし、もし100歳老人が死んでしまったら、その後、そう長くは隠せないに違いないと理解し、相応の行動に出る。普通は、死んだことを周囲に伝え、死亡届を出す。そもそも、隠し通せると思っていない。

興味深いのは、今回の100歳老人問題では、私を隠したり放置している世代が、その子世代や孫世代、といっても、50?80歳ぐらいの分別盛り、昭和を生き抜いた世代だ。ここまで示したようなコミュニティ機能、周囲が見ているという感覚は十分わかっていた人たちである、ということを考える必要がある。はじめから日本の社会にコミュニティが存在していた時代を生きて生きた、今の20代や30代ではなく、「わかっていた」人たちだということは、逆に言えば、コミュニティ機能が失われ尽くしたことを十分わかっていて、「昔ならこんなことはできない」と思いながらやっていたことだ。この点を前提に考えれば、偶発的ではなく、確信犯的であり、さらにいえば、日本のコミュニティ機能を進んで放棄し、それをよしとした世代が、その「果実」として、「100歳老人隠し」をしている、ということができそうだ。

いっぽう、大阪ネグレクト事件で言えば、実行したのは20代前半の若い母親であり、100歳老人問題とは違うように見える。しかし、死亡した幼児の視点から見れば、「最初の保護者」である両親の次に来る保護者は、祖父母である。子供たちにとって祖父母は4人いるわけで、そのいずれもが、自分の孫の行く末に深い関心を示していなかったことになる。と、同時に、この祖父母は、100歳老人問題の主役たる50?70代の世代に当たるだろう。

いわゆる団塊の世代は、戦後の1947?49年頃に生まれた世代と定義されている。今年63?61歳。コミュニティ機能の崩壊を実践し、今もそれをやり続けているのは、団塊世代の前後の世代なのだ。

では、なぜ日本では、ここ40年ほどでコミュニティ機能が失われたのか。

この点について、社会学者の宮台真司は、こんな言い方で表現している。
JAM the WORLD 音声

「日本では、もともと、コミュニティを大切にするという文化はなかった」
「長いものには巻かれろ、郷にいれば郷に従え、という教えは、<コミュニティがそこにあるなら、尊重せよ>ということであって、コミュニティがなくなることを<防ぐべし><大切にせよ>という教えはない」

そのため、コンビニや大型スーパーマーケットなど、地域の独自の生活を破壊するようなしくみが地域に入ってきた時に、それを排除する力がない、というのだ。ちなみに、地域独自のしくみというのは、商店街や自治会などの地域の互助的なシステムをさしている。商店街では、配達やつけ払いなど、こういった互助的なシステムが提供されていて、それが生活を支えていた側面がある。そこにコンビニや大手スーパーが進出すると、配達はなくても、安い方がいい、すぐ変えた方がいい、という便利さが優先される。その結果、商品の配達やつけ払いの場面でやりとりされていた地域の情報や互助システムが失われる(価値がないと見なされ)。配達のような互助システムが失われようとしていても、「それを守らなければならない」と考える人は少ない。その背景に、「長いものには巻かれる」が、長いものがなくなれば「あっさり捨ててしまう」という日本人のメンタリティがある、というわけだ。というより、コンビニや大手スーパーのような、新しい「長いもの」が登場すれば、そちらにすぐ巻かれてしまう、と言うわけだ。

このような宮台の説明は、なるほどと思わせる点はあるものの、違和感もある。

僕から見ると、むしろ日本では、積極的にかつてのコミュニティ機能が捨てられたのではないかと感じるのだ。

「サザエさん」には配達の酒屋がよく登場する。天才バカボンにはレレレのおじさんが登場する。これらのキャラクターが町にいれば、100歳老人や児童虐待は隠しようがない。事件は防げただろうが、しかし、その代償として、プライバシー筒抜けになることを覚悟しなければならない。

山田さんちではおばあちゃんが転んで骨折し、入院している。佐藤さんちでは息子が不登校で学校に行っていない。いじめたのは2丁目の斉藤さんの息子らしい。そういう個人の情報を町中が共有している状態。あるいは、町の情報通のおばさんは町中のことを知っていて、情報通のおばさんが嫌いな人は情報を教えてもらえずに、町のことがよくわからない。さらに、この情報通のおばさんは、意図的に、あるいは意図せずに、間違った情報を流す。渡辺さん値のご主人の会社はあぶないらしい……本当は夏のボーナスが少なかっただけなのに。

こういったコミュニティでは、属人性が重視される。

会社でも、仕事の指示や指揮命令の「あるべきルート」より、AさんはBさんのいうことをよく聞く、というような関係が重視される。こういうところに、Cさんが新しい上司としてくると、Aさんは移動になったBさんのいうことを聞き、新しい上司Cさんのいうことは聞き流すこともある。先日、ある大手企業で話をしていたら、若手が「うちの上司は、<俺のことが好きじゃないのか?>というような話を指導の時に言う、ときき、懐かしい感じ、と思ったのだが、仕事が役割や機能を中心にではなく、属人性を優先して動いていることの象徴だ。

僕自身は、こういった地域社会や企業社会を少しだけ垣間見ながら育ち、しかしここ20年ぐらいで失われていく過程を見てきた。その過程で、旧来のコミュニティ旧来を「何とか守りたい」と思ったかというと、まったくそんなことはなく、積極的に失う方に荷担してきた。理由は、やはり「うっとうしい」からなのだ。サザエさんを見ても天才バカボンを見ても笑えなくなり、「いい世の中になった」と思っている自分もいる。

こう考えてくると、児童虐待にしても、100歳老人問題にしても、それを防げない状況をつくってきたのは、若い世代ではなく、おとな世代に責任がある、ということになる。

おそらく、コミュニティ機能の喪失によって何が起こるか、少しわかっていた気がする。それを防ぐ方法を考えなければならない、という問題意識もあった。しかし、それを具体的に構想することはできず、増して、構築することはできなかった。そういうことなのだと思う。

ちなみに、構想としては、ピザデリや宅急便、生協などの、配達機能を持つところがサービスとして確認機能を持つ、というようなものがあり、セコムのような明確なセキュリティ確認機能の低グレード版を担う、というようなことが考えられる。また、有名な例だが、佐久の鎌田實(みのる)医師のように、巡回医療の仕組みをつくることでしくみ的に行うという考え方もある。

しかし、現状、いずれもうまくいっていないか、広がらない。

やはり何かが間違っているのだろう。おそらく、このような方法は、全国で使える画一的な方法であり、地域ごとの特性を生かしたローカルな方法ではないために、本当の意味でのコミュニティをつくれないからだと思う。とはいえ、ローカルに根ざしたコミュニティを「うっとうしくない」ように作ることが原理的にできるのか。それがわからない。少なくとも宮台真司は、まだこれといった答えを見せてくれていないし、ほかの識者も同様だ。

コミュニティ再生という課題は見えているものの、答えはまだ見えていない。これこそ、日本の本当の危機なのだ。

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