(by paco)475児童虐待の責任は、社会にある、と考える

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(by paco)7月30日(2010年)、大阪市西区のマンションで、2人の幼児が育児放棄(ネグレクト)によって志望しているのが発見され、大きく報道されている。

育児をしていたのは23歳の独身の母親で、風俗につとめながら育児していたものの、育児を放棄するようになり、ついにこどもは真夏のマンションの部屋で餓死したと見られている。「足が埋まるほどのゴミダメ状態」と伝えられる現場を想像すると、心が痛む、などという表現では足りないけれど、今回はそこには踏み込まずに、考えていく。

■児童虐待は「増えて」「深刻になって」いる

まず確認しておきたいのは、こういった育児放棄や虐待による子供たちの被害が多くなっているように感じられるけれど、本当か、という点。

実はこの問いに答えるのは意外に難しく、「増えていると考えられるが、証拠はない」というのが答えになる。現実に、日本の社会の中で、たとえば過去50年をとってみた場合に、虐待が増えているのかというと、そもそも統計がないので難しい。児童相談所は50年前からあったものの、虐待をチェックする機能はここ10年ほど前に整えられたもので、それ以前は社会制度的な観点でのチェック機能はなかった。また、制度化のあとも、児童相談所に持ち込まれる件数と現実に起きている件数との間にどのような関係があるかを正確に把握することができないために、実数はさらに闇の中だ。

また深刻さについても、今回のような悲惨な状況は「これまでなかった」と感じられるものの、それは報道されていなかっただけだという可能性もある。

件数、深刻さとにも、大きくなっているかどうかを証拠づけるものはない。しかし、推定することはできる。その推定にために、「なぜ虐待が起きるのか」について、特にその責任を保護者個人ではなく、社会の問題として捉えることが重要になる。

先にざっくりまとめてしまうと、虐待は、それが起きる構造が社会の側にあるために、保護者個人の資質によらず、増える傾向にある、ということだ。そして同時に、このことは実は親にとっての「子育てのしにくさ」につながり、「子供を持つのをためらう気持ち」を招き、少子化の一つの原因をつくっている、というように考えることができそうだ。

■個人の原因を求めると、問題の再発を防げない

児童虐待事件と、[知恵市場 Commiton]472で扱った秋葉原事件のような事件、どちらも、こういったことが起きると、「社会の責任」か「個人の責任」か、という議論が起きる。

日本では「社会にも責任がある」という意見を持つ人が多いのは事実だが、逆にそれ故に「なんで社会が悪いと言えるのか、まず、事件を起こした本人の責任を問うべきだ、自己責任じゃないか」と主張する人が出てくる。

「個人の責任」を語るのは、ある意味、楽だ。「社会の責任」と考えると、社会の一員である自分にも責任がかぶさってくるが、「個人の責任」としておけば、自分は責任から解放され、「犯人」である母親や青年を思う存分非難できる。まず、この構造を理解した上で、「自己責任論」を語る評論家やコメンテーターの存在を捉えておきたい。ワイドショーなどで自己責任論を語る人物がいれば、それは「私には責任はない、悪いのは本人だ」と考えたい視聴者のマインドを代表しているのだ。

では原理的に考えて、個人の責任と、社会の責任は、どう位置づけるべきなのか。

この点については、<おとなの社会科>01「日本の難点」で議論したので、[知恵市場 Commiton]410?417あたりも読んでほしい。

「日本の難点」の著者・宮台真司は、交通事故を例に挙げて、個人の責任だけを問うことは社会正義上、不可能であると述べている。いま日本を含めて世界では、交通事故を個人のみの責任とは考えていない。だからこそ、事故に備えた保険を強制的につける「自賠責保険」を義務付けているし、事故が多発する交差点の状況を放置すれば、警察や道路を管理する行政が非難され、裁判でも何らかの責任が示される。それは、個人か社会か、という対立に原理的な答えがあるからではなく、個人の帰してしまうと、社会が機能しなくなるからだ。

事故が起きても、個人のみの責任になれば、事故を起こした個人に賠償能力がなければ、被害者は泣き寝入りするしかなくなる。加害者は長期に収監されることになるだろうが、責任が重いので、社会復帰は望めない。事故が増えれば社会に佐井さんかできないような交通犯罪者が累積的に増えて、社会に参加できる人が減ってしまう。また責任の重さから、ひき逃げ、当て逃げをして「逃げ得」を狙う人が増える可能性もある。現在は、事故を起こしても、きちんと救助して最善を尽くせば、減刑される(個人の責任範囲が小さくなる=ひき逃げは重罪)。つまり、起こした事故に対して、社会的な責任範囲と応分の分担を使用というコンセンサスがあるから、自動車という乗り物を使うことができる。

個人と社会の責任分担という概念は、社会学が作り上げてきた大事な知見であり、こういった知見を、「児童虐待」というような新しく現れてきた状況に応用できるかどうかが、人文科学の意味合いだ。

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横道にそれるが、日本ではこういった社会学や政治学、哲学などの人文学の知見は社会の中であまり活かされていない。だからこそ、虐待などの事件がある時に、自己責任論が堂々と語られ、誰もそれに反論できないような状況になる。ではなぜ、人文科学の知見が表に出てこないのか。文科省が、「科学技術」に偏重した予算配分を行っていることが大きな原因だ。日本は科学技術立国、という国策のもと、何千億という予算が科学技術にばかり投入された結果、人文科学のための学科や大学教員はすっかり減ってしまった。実際には、学際型、というような大義名分のもと、環境○○学部とか、情報××学科というようなあいまいが学問がばかりになり、社会学や哲学を真正面から捉える研究や学びがほとんどなくなってしまった。研究者も減り、研究活動やその成果発表も限られる。

学際化そのものが悪いわけではないが、学問と学問の「中間領域」を学ぶためには、両端の学問そのもの(社会学や法学、哲学など)がしっかり柱になっていなければ、中間も存在しない。人文科学軽視の状況を生み出した文科省の政策が、「学問の柱」をぐらぐらに弱くし、それが現在の貧しい社会状況の背景にあることは指摘しておかなければならない。僕は昨年秋の事業仕分けの時に、科学技術予算にばかり偏重する問題点を指摘したのだが、これに同調する仕分け人はほとんどいなかった。このこと自体、嘆かわしい。
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■育児は個人の責任ではなく、社会の責任というコンセンサスが必要

では、社会が分担すべき責任とはどのようなものか。

今回の大阪の育児ネグレクト事件では、通報があって、児童相談所の職員が何度か現地を訪れている。しかし母親には会えず、室内に入ることもできなかった。家庭内は、強い私権によって守られていて、警察も明確な証拠がなければ個人宅に強制的にはいることはできない。しかし、今回のネグレクト事件は、試験を尊重しすぎると、こどもの生存権という最も重要な人権を保護できない、という矛盾があることが露呈した、と考えることができる。つまり、生存権を尊重するためには、私権を制限する必要があり、その場面が拡大していると考えなければならない。

別の言い方をすれば、親が自分の試験の範囲内でこどもを育てられないなら、親の私権を制限して、社会が親から子供を強制的に取り上げることが優先される、という仕組みをつくらなければならないということだ。子どもを生かし、育てる最終責任は、社会にあるという考え方だ。

実はこの考え方は、米国では今から20年ほど前に、さまざまな議論のもと、すでに合意されている。米国でも、当時、児童虐待やネグレクトが頻発し、議論ののちに、ネグレクトをする親からは、真剣を制限し、子どもを社会が育成する、というコンセンサスをつくった。そのため、米国では、クルマに子どもをおいて買い物に行ったりすれば、その事典で通報、逮捕されてしまう。それが、コンビニの前の駐車場で、暑くも寒くもないほど良い季節であっても、ネグレクトと見なされて、親から社会へと育成権が移ってしまうようなことなのだ。

その代わり、社会は、子どもの育成についてより重たい責任を負うことになり、子どもを産んだものの、ちょっと育てられないと、施設に預けてしまう親も出る、などモラルハザードと居るような状況も生まれている。しかし、子どもは社会を再生産する重要な存在であり、それ故に、社会が育成するのだという合意があるので、モラルは親個人にではなく、社会の側に求められる、と考えられているわけだ。

この考え方を延長すると、小学校?大学までの学費無償化や子ども手当の話がなぜ出てくるのかがわかってくる。子ども手当については相変わらず「ばらまき」という観点での議論が多いが、実は本質は「だれが次世代育成に責任を持つのか」という議論がベースになっている。すべての子どもの育成に、社会が責任を持つ、というのがネグレクトなど経験を経た世界の合意事項になってきている、ということだ。別の言い方をすれば、子どもを自分の手で育てられるのは、あらゆる意味で子どもに対する責任を果たせる親だけで、そのうち一部でも放棄すれば、そのぶんの子育ての権限は社会に移ってしまうという考えが背景にあることを理解しなければならない。バラマキか救済か、という議論ではないのだ。

ここでひとつ注意しておきたいのは、社会とは、そのまま国や自治体など、行政を意味するとは限らない、ということだ。むしろ共同体と考えるべきで、米国ではそれが時に教会や宗教団体が担うこともある。大陸欧州では、宗教から離れて、地域コミュニティが担っている。

日本では、コミュニティが崩壊して久しく、それが社会を崩壊させているために、国や自治体の負担がひたすら増えている。「社会=行政」ではなく、「社会=コミュニティ」をいかに機能させるかが、今の課題と言えるわけで、ネグレクトの問題も、コミュニティの機能不全の問題として捉える必要がある。

ということで、ここからまだ書きたいことがあるのだけれど、だいぶ長くなってきたので、続きは次回。

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