(by paco)産経新聞のサイトに、法廷ライブというコーナーがあり、話題になった事件の裁判について、詳細な記録が載ります。ちょうど今、秋葉原事件の記録がアップされていて、なかなか興味深いので、それについて書こうと思います。
秋葉原事件とは、一昨年、2008年(平成20年)6月8日に東京・秋葉原で発生した通り魔事件のことで、この事件で7人が死亡、10人が負傷しました。
犯人は静岡県で派遣社員として働いていた加藤智大で、レンタカーでトラックを借り、秋葉原に向かい、横断歩道にトラックで突っ込んで次々と横断中の人をはねたのち、トラックを降りて両刃のナイフを使ってさらに人をさし、17人を殺傷しました。
この狂気の事件は、連日メディアで報道されたので記憶に新しいと思うのですが、当時、逮捕された加藤容疑者の犯行の動機は、派遣先の自動車工場から派遣打ち切りにあい、さらに派遣の同僚からつなぎを隠されるような「いじめ」にあい、自暴自棄になった、と言うものでした。
しかし、裁判が始まると、加藤被告は「事件について本当のことを話したい」と饒舌に話し始め、それが産経新聞サイト上に掲載されています。
裁判の中で、加藤被告は、「犯行の動機は、派遣切りにあったことでも、つなぎを隠されたことでもなく、利用していた掲示版で「なりすまし」にあい、自分を否定されたことが原因だと説明しています。
以下、裁判で明らかになってきた犯行の動機について、考えてみます。
■掲示版で、「ブサイクキャラ」を演じ、演じたキャラを「乗っ取られる」
犯行の動機について、加藤被告は、掲示版での人間関係を挙げています。どういうことか。
加藤が利用していた掲示版は、「キュウカイ」「テキトウ」というような名前の掲示版です。キュウカイとは究極交流掲示板(改)の略で、この名称で検索をかけてみたところ、従来型の、ごく普通の掲示版です。加藤も証言しているように、利用している人数も、数人程度で、2ちゃんねるような大きな掲示版は、きつい表現が嫌だと離しています。小さな掲示版で、ごく少人数の参加者を相手にやり取りをすることが、加藤にとっての「人間関係」「居場所」でした。
その掲示版で、加藤は「ブサイクキャラ」を自ら演じて、ほかの参加者のウケを狙うということを始めます。自分はブサイクだからひどい目にあっている、といようなキャラを演じると、参加者がおもしろがってツッコミを入れてくれることが楽しかった。そういうやりとりを通じて、加藤は掲示版を自分の居場所にしていきます。
しかし、その掲示版に「異変」が起きます。参加者の中で、加藤が演じる「ブサイクキャラ」を乗っ取る人物が現れ、加藤はこれに対して非常な怒りを感じ始めます。これが結局、犯行の動機になるのでした。
加藤が演じていたブサイクキャラの表現方法をそっくりまねて、加藤になりすまして書き込みを行うことでおもしろがり始めたため、加藤は「自分が本物のブサイクキャラ」と主張するのですが、信じてもらえず、加藤は自分でつくった居場所を、なりすましを行う人物によって追い出されるような格好になりました。加藤は、この時の状況を
「例えるなら、家に帰ると自分そっくりな人が生活していて、家族がそれに気づかず、自分が偽物だと言われてしまう状態。」
「自分に対する書き込みがほとんどなくなった。良好にやっていた人間関係が奪われたことに怒りを感じた。」
と証言しています。
なりすましによって乗っ取られ、加藤は自分の居場所を失った。加藤は、なりすましたやつと、なりすましに気づかない掲示版の参加者に、自分の怒りと本気をはっきり伝えるためには、誰もがびっくりするような事件を起こすしかないと考え始めます。事件を示唆する予告的なメッセージを書き込み、ようすを見ますが、すでに加藤は掲示版での居場所を失っており、無視されてしまう。無視した人々に思い知らせるために、加藤は本当に事件を起こすに至るのです。
このような経緯を見ると、加藤は人間関係が作れない、さびしい男のように感じますが、証言によれば、会社での人間関係もゼロではなく、それなりに普通の関係を築けていたと感じさせる証言があります。とはいえ、その関係は決して深いものではなく、表面的なものでした。
自分を受け入れてくれる場がほしいと思いつつも、それをうまくつくれない。ようやく見つけたように見えた掲示版で、自分の居場所がなくなり、それを過大に感じてしまった。これが犯行の動機です。
普通、こういう状況を、「バーチャルと現実の区別がつかなくなった」と読んだりするのですが、多分それは違う。もともと現実の人間関係もバーチャルの人間関係も、とても希薄で薄いつながりだった。もともとリアルの現実が崩壊寸前の中で、バーチャルの現実も崩壊してしまい、犯行に至った。区別がつかないのではなく、バーチャルの崩壊がリアルの崩壊をリアルに認識させた、というべきで、その点、加藤の証言はネット社会を動機にする犯罪の構図を浮き彫りにする「功績」があったと言えます。
同時に、「派遣切り」が犯罪の原因とか、「つなぎを隠された=職場いじめが原因」という、メディアの判断は間違っていた、ということがわかります。
ちなみに、最後に述べますが、僕は「派遣切り」は原因ではないとは思っていません。広い意味で、派遣切りが日常化するような社会状況が犯罪を生んだのは、多分間違いない。しかし、少なくとも本人は、派遣切りを理由に「したくない」マインドが働いていて、それが今回の証言につながったと見るべきです。
■言葉で説明するという方法を学ばなかった生い立ち
加藤の証言を見ていると、上記の直接の動機とは別に、言葉で表現することが苦手で、行動に移してしまう傾向が強いことがわかります。
自動車工場での派遣仕事の際、つなぎが見つからないという「事件」が起きるわけですが、その時加藤は工場を飛び出して帰ってしまいます。その後、つなぎが見つかります。
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被告「知っている人や知らない人から電話があり、友人からはメールも来ました」
弁護人「『つなぎがあったよ』というメールが来たんですか」
被告「はい、そういうことです」
弁護人「そう言われてどういう気持ちでしたか」 被告「あるはずがないものがあると言われておかしな気分でした」
弁護人「会社を飛び出したのは会社を辞めようと思ったのですか」
被告「いえ、そういうつもりではなくて、つなぎを隠した人へのアピールのつもりで飛び出しました」
弁護人「家に帰った後どういう気持ちでしたか」
被告「『またやってしまった』という気持ちでした。言いたいことを口で言えず、態度で示して失敗してきたのに、また同じ失敗をしたという気持ちです」
弁護人「またやってしまったと思ったなら会社に帰ろうとは思いませんでしたか」
被告「そのときは『誰がやったんだ?』ということで頭がいっぱいだったので…」
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このやりとりを見ると、まず、加藤は工場の仲間にはきちんと受け入れられていて、決してリアルの人間関係で孤独であったわけではないことがわかります。しかし、自分が困難な状況に置かれたときに、言葉でコミュニケーションを取って解決するという方法がうまくとれない。
加藤が生まれ故郷の青森で働いていたときも、同じようにちょっとしたトラブルのあと、言葉で解決出来ずにこじれてしまう経験を繰り返しています。
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《犯行の背景に「言いたいことや伝えたいことをうまく表現できず、言葉でなく行動で示して分かってもらう」という考え方があったとし「母親の育て方が影響している」と分析。「トイレに閉じ込められた」「窓から落とされそうになった」「風呂で九九を間違えれば湯船に沈められた」「食事が遅いと食事をチラシや廊下にぶちまけられた」など、加藤被告が「屈辱的」と感じ、父親も「異常」と表現した母親の行き過ぎとも思える「しつけ」の数々が明らかにされた》
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小さなころから、親が言葉で説明を求めたり、親の考えを言葉でわからせるという行動を取っていないことによって、こどもである加藤が、言葉でコミュニケートを撮るという、人間の基本的な行動が取れないように育ってきたことが見て取れます。
言葉によるコミュニケーションは、人間がほかの動物と異なる大きな特徴であり、言葉によって人間は社会をつくっています。その言葉を、親による子育ての段階で、適切に身につけることが出来ずに育ってしまった。しかも、加藤は高校に入るころまでは学業も優秀で、十分社会に適応出来ていた。ざっくり言って、子どものころは秀才の範疇だった。しかし、言葉で社会的な困難を解決するという、コミュニケーションの方法が身についていなかったということです。
学業的な優秀さと、コミュニケーション力とは、相関関係が無く、成績が良くてもコミュニケーションという人間にとって最も重要な能力が欠如してしまうことがある。日本においては、言葉によるコミュニケーション力が学業の優秀さの中に含まれていないことがわかります。
加藤の母親が、なぜ言葉によるコミュニケーションをきちんと教えなかったのかということも、このことから類推することが出来ます。学業の優秀さを求めていた加藤の母親は、同時に、学業の優秀さに言葉によるコミュニケーションが不要であること、もっといえば、言葉によるコミュニケーションは、場合によっては学業の邪魔になることを知っていた、といえるかも知れませんが。
日本では、特に高校までは、こどもが先生や大人に「口答え」することを嫌います。低学年では親が自分の子を示して「この子は言葉でいってもわからないので、ひどいときはがつんとやってください、私もやってますから大丈夫です、そのぐらいやらないとダメです」と教師に頼んだりする(僕もそういう親の発言を、保護者会などで何度も聞いている)。
学校の成績とコミュニケーション力が連動していないことと、親がコミュニケーション力を軽視する傾向は、おそらく双方が因果関係になって、日本人の育ちの環境を形成していて、それが極端に現れたのが、加藤だった。そう見て取るべきなのではないか。
本当にそうなのか、と疑っている読者もいるかも知れませんが、こんな例を考えてみてください。
東大の入試、慶應大の入試に、コミュニケーション科目があるか。国語はありますが、コミュニケーションはない。大学に入ってからも、通常、コミュニケーションを中心的に学ぶ科目はほとんどありません。
だからこそ日本人は大人になってもコミュニケーションが苦手で、僕のようなロジカルシンキングの講師が多くの企業から呼ばれて、研修でコミュニケーションを教えるニーズが尽きないのです。
日本全体に行き渡っているコミュニケーション軽視の傾向が、加藤の生い立ちに極端に投影され、それが遠因になり、直接的には、掲示版というコミュニケーションの場を強制的に失うことで、無差別殺人という犯罪が生じた。
そのように僕は読み解きたいと思います。
■関係が希薄化する日本
上の段落で、
「広い意味で、派遣切りが日常化するような社会状況が犯罪を生んだのは、多分間違いない。しかし、少なくとも本人は、派遣切りを理由に「したくない」マインドが働いていて、それが今回の証言につながったと見るべきです。」
と書きました。
日本では、コミュニケーションが希薄でしたが、それでも、コミュニティが固定化し、狭い社会で生きて行けたので、コミュニケーション力が弱くてもやっていけました。ムラ社会、家族的会社経営が明確だった時代はそうです。
しかし、今やそれが完全に崩壊してしまった。小さなコミュニティに生きていた日本人が、コミュニティ崩壊に直面しているのに、広範囲で希薄なコミュニティの中で人間関係をつくって行くだけの高度なコミュニケーション力は育っていない。
コミュニティの範囲が不可逆に拡大しているのに、コミュニケーション力は古くからのムラ社会時代のまま。このギャップが事件の構造なのではないか。派遣切りは、古く小さなムラ社会の崩壊を意味しているからこそ、実はこの事件の本当の原因の一つと言えるのです。
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加藤は、これからのためにも、本当の動機を話すとして、証言台に立ちました。僕ら、社会に残った側は、加藤の証言から本当の原因を探り、それを元に、「なにをすべきか」を考え、実践して、第二第三の加藤を、これ以上、増やさないようにしなければなりません。
果たして、そのような自覚が、社会の側、知識人の側にあるのか。そこが一番木になります。加藤の証言をムダにしてはならない。そう思います。
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