(by paco)映画「告白」を見てきました。
湊かなえの同名の小説の映画化で、今年6月に封切られてから、注目されてきた作品です。といっても、実は僕はこの映画も小説のことも知らず、偶然見つけて見に行ってから、「注目されてますよね」といわれることが多く、なるほど?そういう映画なのかと認識した次第。
もともと別の映画(「ロストクライム 閃光」)を見に行くつもりでネットを見ていたら、「告白」にぶつかって思わずこっちを先に見に行った、というような衝動見、でした。主演の松たか子は、もちろん知ってはいたものの、ちゃんと作品を見たのは初めてで、女優としてもあまり期待せずに見に行ったし、原作も知らないし、というわけで、ほとんどまっさら、先入観なしに見たのですが、「おもしろかった」。
いじめだとか、こどもがこどもを殺す殺人だとかがテーマなので、ストレートな意味でおもしろいわけでは、もちろんないのですが、映画を評価する視点としては、「おもしろい映画」と言うべきなのではないかと思います。
まだ上映中の映画ではありますが、すでに封切りから1か月以上たつし、原作も広く読まれていることなので、あえて「ネタバレ」で書きます。これから映画を見ようという人は、見終わってから読んでください。
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この映画のメッセージをどのように理解するか、人によって違うと思います。
ある人は
「今の中学生って本当に怖い」
と思うかもしれないし、
「今の中学生は昔と変わらない」
と思うかも知れません。
「法律は無力だ、少年法を改正すべきだ」
と思う人もいるだろうし、
「教師のくせに、残酷、過酷に過ぎる」
と思う人もいるかもしれないし、
「教師のくせに教育的配慮がない」
と思う人もいるでしょう。
僕が受け取ったメッセージは、この映画の広告コピーのまま。
「娘を殺された女教師の、命の授業がはじまる」。
命とは何か、というより、命を軽く扱う子供たちに対して、命の意味をどうやって教えたらいいのか。それを描いた作品なのではないか、ということです。
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舞台はどこにでもありそうな、でも学級崩壊状態の中学2年生の教室。担任の守口先生は、3学期の終業式に「教師を辞める」と宣言し、その理由を説明し始めます。子供たちは、勝手にしゃべりまくり、とてもホームルームになっている状況ではありません。
「私の娘はこの学校のプールで死にました。警察は事故死と判断しました。しかし娘はこのクラスの生徒に殺されたのです。犯人をAとBとします」
AとB2人のプロフィールを話し始めると、生徒たちはすぐにそれが誰だか理解します。「あいつが犯人だ」とメールが飛び交い、一斉に注目が集まりつつも、教室は基本的におしゃべり状態。
この教室のようすをみて、今の子供たちのメンタリティの異常性を見て取ることもできるでしょうが、僕はそれは違うと思います。
先生のこどもが殺され、その犯人が同じ教室にいると伝えられても、動揺しつつも勝手におしゃべりしまくる教室は、実は僕らの社会そのものの縮図なのです。
大事件が起き、テレビで報道されても、しんとなってみんながその話に聞き入るわけではない。秋葉原事件のときも、荒川沖事件のときも、それに注目して話に耳を傾ける人もいるし、悲しむ人もいるけれど、社会全体としては白けている人もいるし、「ほかにももっとひどいことは起きているよね、なに大げさに考えてんの」という態度の人もいる。ある意味、興味がひとつにならない状況は、その方が良いのかも知れません。1億人を超える日本人が、ひとつの事件のありように一斉に、シンとなって耳を傾ける状況というのは、戦争中の情報統制に似て、「皇軍が中国大陸でがんばっているときに、娯楽映画なんか見ていてはダメだ、国賊だ」といっているのに近い。
守口先生が、おしゃべりをやめない学級崩壊の教室をまわりながら、あえて静かにさせようとしないようすは、光量・殺伐として見える第一印象とは反対に、実はそれこそが社会そのものだ、それでいいんだ、と感じさせます。
この冒頭のシーンこそ、実は、この映画が観衆を選別しているのかも知れません。
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物語は、さまざまな登場人物の告白がリレー形式で描かれていきます。守口先生、犯人B、Bの母親、クラスの女子生徒、犯人A……。
森口先生(松たか子)は、教師を辞め、新学期には新しい熱血担任がやってくる。新担任は、「前の先生はこどもが校内のプールで(誤って)死んだので辞めた」としか知らず、殺人事件であり、生徒同士では犯人もわかっている(森口先生が教えていった)ことも知らない。生徒たちから見れば、なにも知らないイノセントなのは、新担任の熱血教師の方。その新担任の知らないところで、教室では犯人Aに対する執拗ないじめが行われ、Bは新学期から不登校で家に引きこもってしまう。
大人より、子供たちの方が多くを知っていて、子供たちは大人にそれをあえて知らせないし、大人は子供たちより多くを知っているという確信を疑おうとしない。この構図は、僕らが子どものころからずっと変わらずにこどもとおとなの社会の断絶を生んできました。子供たちの世界で、大人が知らないなにが起きているのか。子供たちはなにを見ているのか。大人である僕たちは、そのことにどこまでも謙虚でなければならないのに、そのことを大人になるとすぐに忘れてしまう。
僕は、大人にはわからないことをこどもはわかる、と感じていた中学生だったので、大人になったら、注意深く見るようにしようとずっと考えてきたのですが、娘が中学生から高校生になり、ちょっとがっかりしたことは、少なくともうちの娘に関する限り、あまりこどもだけの世界、こどもだから見れる世界は持っていないようでした。あるいは、その世界について、親である僕らが早くからうまく聞き出し、共有できたので、こどもだけの世界が知らない状態でその領域を広げている、という事態が防げたのかも知れません。そうだとしたら、僕と妻の戦略は成功したことになりますが、本当のことはよくわかりません。
いずれにせよ、この映画から伝わるメッセージのひとつは、大人はこどもの世界を完全には把握できない、注意深くなれ。ということで、それこそ今の大人たちに突きつけられている大きなイシューなのだと思います。
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物語は「なぜAとBは少女を殺したのか」という動機に移っていきます。
Aは自分の存在を世界にアピールするために、電気についての高い知識を使って電気ショックで殺す機械をつくり、森口先生の娘で試そうとする。自分がつくった機械で人が死んだとなれば、世間が驚き、自分に注目する。注目させたい。自分は大衆に埋もれたどうでもいい存在ではないということを示したい。
これ自体、青年心理学的に説明のつく動機です。
人は、生まれて幼児期まで、親と家族のみの世界で育つ。親は自分の子供だけを特別に溺愛し、愛情を一新に受けるため、こどもは自分が世界で自分だけが特別だと思い込む。しかし、幼稚園/保育園、小学校と進むにつれて、まわりの子供たちも同様に親にとって特別な存在ではあっても、社会にとっては特別ではなく、ありきたりの存在であることを認識していく。その認識がスムーズにいかないと、自分は特別だという考えが捨てきれなくなり、青年期に肥大化した自我になって、本人を苦しめていく。
通常は、親は「私たちにとってはあなたは特別、でも社会にとってはあなたはたくさんの子どもの一人に過ぎない。そうであっても、あなたは私たちにとっては特別な存在」とそういうことを繰り返し教えていきます。しかし、親がそれを充分に教えられない場面が出てくる。親自身がそれを教えられずに曖昧なままに育っている(こども大人)だったり、教えるべきときに親が夫婦関係の悪化などで子どもに伝えられなかったり、離婚・再婚で新しい親がそれを教えることができなかったり。学校の教師もそれを教えられる立場ではあるものの、同じような理由で、教える機会がない場合がある。そうなると、思春期になっても幼児と同じぐらい、あるいはそれ以上に自己認識が肥大化してしまい、自分でも扱いきれなくなって、とんでもないことをやることで、世間から注目を集め、肥大化した自己認識とのギャップを埋めようとする。これが少年犯罪のメカニズムのひとつといわれています。そのようすを、映画はなかなかうまく描いていきます。
犯人Aは、離婚して離れた母親から「あなたは特別。すばらしい科学技術の知能がある」と置き土産を残されることによって、それだけが肥大化し、その科学技術の知能で世間の注目を集めるべく、機械をつくって少女を殺そうとする。肥大化した自己認識に、実態を合わせることが目的になり、手段を選ばなくなる。
犯人Bは、犯人Aからパシリのように利用されるポジションにされる。犯人Aがつくった機械によって少女は死んだかのように見えたが、実は少女は気絶しただけ。しかし、犯人Bは気がついた少女を真冬のプールに投げ込み、殺してしまう。「世間をあっと言わせようとしたAができなかったことを、自分がやることで、自分はAを超えられ、世間から注目を集めるのは自分だ」と勝ち誇るために。
少年犯罪の動機は、大人からはなかなかわからない、よって、突然の犯罪に大人たちは恐怖し、子供たちはおかしくなった、都犯罪少年をつくった犯人捜しをする。その犯人捜しの動機は、本当の理由を知ることではなく、しばしば、「大人としての自分には罪はないよね」というように、自分には無関係であることを証明するたっめに行われます。テレビなどのメディアに登場する解説が、しばしば白けた印象を与えるのは、その多くが「自分には関係がない」ということを自ら証明する、あるいは視聴者を除外するために行われているからで、さらに、それにもかかわらず、「この事件は社会全体で受け止めなければなりません」などと、意味不明な結びでニュース番組がくくられたりすることにあります。
この、無責任、無理解の構図は、映画冒頭で教室が崩壊し、殺人の告白を聞いているのに静まらない状況と同じなのです。
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森口先生の「復讐=命の授業」は、次第に、命はなぜ大切なのか、誰にとって大切なのか、という点に移っていきます。
命が大切なのは、その命を持っている自分にとって大切だからではない。もし自分にとって大切だというだけなら、自殺はようにされてしまう。自殺するのも、自分の勝手じゃないかと。
命の重さは、どのひとりも、周囲の誰かによって大切だと思われているからだという構図に、映画の視点は移っていきます。
犯人Aは、自らの「大きさ」を示したかった相手である、実の母親を、自らつくったリモート爆弾によって殺してしまいます。犯人Bも、引きこもり状態をもてあました母親によって殺されかけ、逆襲して母親を殺してしまいます。
AとBはどちらも母親殺しという形で「自分が一番大切なもの」を自ら殺してしまう。それによって、命は、自ら大切だから(大切でないから)尊重するのではなく、失われるとあまりに悲しむ人がいるから、大事だと思っている人がいるから、その人を殺してはいけない。自分が死ねば悲しむ人がいるから、自殺してはいけない、という根源的なロジックに戻っていきます。
母親を殺した犯人に対して、森口先生は「これからあなたの本当に償いがはじまる」と宣告して物語は終わります。
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命の大切さ、重さ。それは、その命の持ち主である自分にとって大切なものだというだけでは足りない。あるひとりの命には、その命を大事思っているほかの誰かがいる。それが人が社会をつくっている意味であり、それ故に、自殺も他殺も、とても重たいこと。
逆に言えば、自分が死刑になりたくて無差別殺人を犯した犯人を、希望通りに死刑にすることは、何の償いにもならないことが、ここからわかります。犯人は、無差別殺人がなぜいけないのかを知ることなく、希望が叶えられてしまう。自分の命が軽いのだから、他人の命も軽い(大切に思っている人はいない)という理解のまま、命の意味を理解することも、させることもなく、刑死という希望を叶えてしまう。
この矛盾に対して、僕らの社会がどういう答えを用意するべきか。
森口先生の復讐=授業の意味を、改めてきちんと理論化すべき時が来ているようです。<おとなの社会科>では、来年、死刑について、扱う予定です。
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