(by paco)468研究中。1968年に何が起こったのか?

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(by paco)<おとなの社会科>をやっていると、僕がいろいろな知識、ネタを持っていることについて、「どのように情報収集しているのですか?」と聞かれることが多いのですが、僕自身は「自覚的にやっているのは、自分なりにテーマを決めているだけで、あとは引っかかってくる情報を吸収しているだけ」というような感じで答えます。実際、何かについて必死に調べた、というのは、9.11についてと、太平洋戦争の開戦前後についてだけで、ほかは仕事や興味のおもむくままに、しかも、時間もかけつつ蓄積したものです。

ただ、テーマの切り口は、なるべくユニークなものにしたい、というか、漠然としているより、何か自分のあたまの中で関心がシャープになるように心がけています。

今、興味があるテーマはふたつあって、ひとつはロシアについて、もうひとつは1968年について。両方とも<おとなの社会科>のテーマにしたのに、今ひとつ切り口が見えていない、というのもあるのですが、特に今、気になっているのが1968年です。

1968年?

たかだか、20世紀のある1年、ですよね。その通り。

でも、この年が、歴史上、まれに見る特別な年だったらしい、ということが、少しずつわかってきました。まだ研究途上なので、僕もはっきりしたことはいえないのですが。

まず、この1968年について、最初に僕に教えてくれたのは、ロバート・フリップでした。伝説の、といっていい奇跡のロックバンド「キング・クリムゾン」のリーダー、ロバート・フリップ。彼がインタビューで、「1968年は、本当にすごい年だった。もう一度1968年がやってくるのを今も待っている。ひたすらギターと音楽の腕を磨きながら」と答えていて、そういう年だったのかと。

で、この発言をもとに1968年を見てみると、ロバート・フリップはまだキング・クリムゾン結成にいたっておらず、マイケル・ジャイルズらと前身バンドをつくって離合集散を繰り返した時期。ロックシーン、音楽史に決定的な影響を与えた「クリムゾン・キングの宮殿」を、キング・クリムゾンのデビューアルバムとして発表したのは、翌69年年です。あれれ、フリップにとっての1968年とは、胎動の時期、ということなのか?

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では、もうちょっと違う目で1968年を見てみましょう。

世界史年表を見ると、68年は、5月革命の年であることがわかります。フランスではゼネストを発端として大規模なデモが発生し、これに対して、フランス大統領シャルル・ド・ゴールが軍を動かして鎮圧すると同時に、国民議会を解散して総選挙を実施、新たに憲法を発布して、フランスは第5共和制という今の政体に移行しました。

68年のフランスの動きは、実は、冷戦激化とベトナム戦争賀時代背景にあります。米国は64年のトンキン湾事件以降、ベトナムへの介入を深めていて、フランスも日本も、西側諸国としてこの動きを支持していたいました。しかし、ベトナム戦争は、米軍の軍事力によってベトナムの一般市民を「虐殺」しているのと大差ない、という状況がジャーナリストによって明らかにされ、西側資本主義・自由主義に正当性があるか、という疑念が湧いていました。

60年代から70年代にかけて、西側諸国は発展を謳歌していたものの、その発展がベトナムに象徴される、途上国の市民の犠牲の上に成り立っていることに対して、あるいは、そのような強権的な政治を行う西側諸国の政府に対して、NOという行動が動き始めていたのでした。この行動の中心を担ったのが、大学生など若者たちで、背景には同世代の米国の若者たちが、徴兵され、ベトナムに送られて、無意味な死を遂げては星条旗をかけられた棺で毎日送り返されているという現実への、国を超えた連帯がありました。

ちなみに、米国の若者たちがベトナム戦争に向かうことをどう捉えたかを描いた映画として有名なのが「ヘアー」で、髪を伸ばすことが軍に行きたくないということの無言の抵抗だったことが、この映画の背景にあります。今は西武百貨店の閉店音楽に使われている「アクエリアス」ですが、もともとは、映画「ヘアー」の挿入歌であり、ミュージカルとしてのヘアーを象徴する音楽でもあります。

西側自由諸国の経済発展と、その負の部分を象徴するベトナム戦争。そして、その経済発展は、70年代に入るとオイル・ショックによって右肩上がりから横ばいへと、収束の段階に移るのですが、68年という年は、ちょうど上り坂の頂点が見えて、下り坂が感じられつつある時期だったのかもしれません。

1968年の西側諸国は、経済発展の喜びと同時に、そのマイナスを実感しつつある年でした。社会にもひずみが広がりつつあり、日本では経済最優先の結果、公害問題が表面化しつつありました。この時代、まだ経済が最優先であり、「経済のためなら公害などには目をつぶるしかない」という発言が、労働組合幹部の間からも出るほどで、今からは考えられません。

矛盾に対して行動に出たのが若い世代で、米国ではベトナム反戦運動とヒッピー運動として。フランスでは労働者の権利拡充と自由の拡張を求める行動として。日本では反公害運動や日米安保反対闘争として。

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と同時に、冷戦の相手、東側諸国も、68年に大きな曲がり角を迎えています。1月、チェコスロバキア(東ヨーロッパで、ソ連の影響下にあった)の首都プラハで、独自の自由化路線がスタート。ソ連の干渉を受けずに自由化に成功するか、そして、東側諸国はやはり社会主義より自由主義を選ぶのか、注目されていました。結局8月になってソ連軍(ワルシャワ機構軍)がプラハに侵攻、軍事弾圧によって東欧諸国の自由化は終わります。

冷戦は終結するかと期待されたのですが、結局は冷戦はまったく終わりそうになく、ベトナム戦争は米ソの帝国主義の犠牲になる小国ベトナム、そしてそれに対して何もできない、西側市民、という無力感と、なんとかしたいという思いがくすぶることになります。

あるいは、なんとかしたいと行動する人を、社会が後押しするような、政治的な気運が高まっていくのが1968年です。

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プラハの春に政策によって自由化の年として始まった1968年の地球は、フランスでは5月にゼネストが起こり、これがきっかけとなってパリがゼネストで麻痺状態になり、ド・ゴール大統領が弾圧に動きます。

このときの市民の要求は大きくふたつあり、ひとつはフランス伝統の労働者の権利を守る運動であり、もうひとつは戦前の価値観の名残を捨てて、より大きな自由を手に入れようとする自由化の動きでした。

フランスは、社会主義の発祥の地といってもいい国で、社会主義思想の潮流が始まった「第一インターナショナル」はパリで結成され、その後、ロシア革命へとつながっています。1968年にはチェコスロバキアという社会主義国で自由化の動きがあり、一見、社会主義が終わりに近づいたかのように見えるわけですが、この時代の目で見れば、社会主義のほうがよい面がたくさんあり、そのデメリットをチェコが「プラハの春」運動で削減できるのであれば、自由主義・資本主義より社会主義の法がすばらしい、という感覚がありました。

日本でも自由主義・資本主義は今ほどあたりまえのものではなく、社会主義との「選択肢」が現実的に見えている時代です。

資本主義か、社会主義か、という選択肢に対して、もうひとつの動きが、より自由に、社会の有形無形の抑圧をなくしていこうという動きがありました。

世界はまだまだ、あたりまえのように女性蔑視、女性差別の時代。ウーマンリブという言葉が現実味があり、女性に課せられたジェンダー(性的な役割の押しつけ)は正当性がないとか、どうやったら改善できるのか、といった議論が繰り返されていたし、それ以前に、男女は平等であるのかないのか、というような議論もまったく決着がついていませんでした。

欧州では、アフリカにあった旧植民地からの移民が増え始め、移民問題と同時に、人種問題が現実的な課題になってきました。フランス伝統の博愛主義では、人種差別は認められないのですが、やはり人種偏見は厳然とありました。そこに、米国ではあたりまえだった黒人差別の状況と、それに対する公民権運動の動きが重なって見えます。米国では60年代まで、黒人と白人は、住まう場所も学校も、バスも電車も別々で、黒人差別はまったく「合法的」でした。これに異を唱えたのが「公民権運動」で、キング牧師の「I Have a Dream」演説が63年、68年になると米国では黒人が軍に進出し、黒人指揮官のものとで白人が戦うという事態が起こり、社会を揺さぶっていきます。こういった社会の行動変革と並行して、女性の性的な開放の動きが起こり、ヌードや性行動の自由をさらに求める動き、同性愛の公認、妊娠中絶解禁などの動きが重なります。

フランスの5月革命とは、社会主義的な変革と、自由博愛平等の拡張という変革の、ふたつの市民の要求が重なって起きたこと、といえそうです。

ちなみに5月革命については、フランス映画「5月のミル」がなかなかおもしろく描いていました。僕はだいぶ前に見て、へ?と思っただけだったのですが、印象に残る映画で、のちに5月革命のことを知るにつれて、この映画の深い意味が少しずつわかってきた感じです。

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さて、1968年、日本。日本も大揺れの年でした。フランスの5月革命前後の世界の動きに影響されて、日本でも学生の政治的な要求が大きくなり、次第に闘争に発展して行きます。その拠点になったのが、東大で、3月には日米安保反対や大学改革などの政治要求を掲げた学生が安田講堂を占拠し、卒業式が中止になり、6月からは安田講堂が封鎖されて、大学、政府と、学生との間でさまざまな要求と妥協、闘争、駆け引きが続けられます。この闘争は「全共闘運動」と呼ばれるわけですが、この闘争が翌年1969年1月に警察部隊によって武装解除され、日本の政治闘争は大きな転換点を迎えることになります。

僕が注目しているのは、1968年に全共闘運動で戦われた要求とはなんだったのか、それが今の社会に実現しているものは何で、何が実現せず、何が残ったのかということ。そしてそれは、決して日本だけのことではなく、フランスで、欧州で、米国で、中国で、ソ連圏で、すべてが連動しつつ起きたということ。

そして、日本では全共闘が政治弾圧によって崩壊したことで、その要求自体がまるで無意味だったように感じられているわけですが、実は、非常に重要な何かが要求され、形を変えて実現したのではないかという、再評価必要なことだと感じているわけですが、これに答える情報がなかなかなく、研究が進みません。

ひとつの問題が、全共闘について書ける人が団塊の世代の元左翼学生で、非常に言葉が難解なことで、彼らが書いた本を読んでも、概念的に過ぎて何を言いたいのか分からないことが多いのでした(当時の言語感覚なら、きっとわかるのでしょう)。

引き続き研究を続けますが、おもしろい本や情報があったら、ぜひ教えてください。

ということで、なんだか情報の羅列みたいになって、とっちらかったまま終わっていますが、今週はこのへんで。

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