(by paco)先々週の記事を受けて、仏教の話を続けます。
仏教の本来の教え(原始仏教)は、どこまでも個人主義な教えでした。修行と瞑想をして自分が解脱すればよく、せいぜい、まだ解脱していない、解脱を求める人を指導するぐらいが、解脱者(僧侶)の役割です。
実は、その意味で、原始仏教の形を現代に再現したのは、あの「オウム真理教」でした。オウム真理教では、輪廻転生の意味を教え、世俗的な生活から出家して修行によって解脱を達成する。教祖たる麻原彰晃は、弟子を指導するグル(導師)である、という位置づけで始まり、この原始仏教的個人主義が、多くの信者を集めたのでした。仏教は今の時代にも実はリアリティを持った教えであることを、図らずもオウム真理教が示したのです。
しかし、グルと弟子との強力なつながりは、次第にグルに対する弟子の、個人的な絶対服従に変質しました。あれだけの大きな教団でありながら、弟子、特に高弟たちは麻原との間に個人的な服従関係を結んだ結果、弟子と弟子の間の情報交換や共同性がなくなり、麻原が個別の弟子に個別の使命を与えた結果、弟子は互いに何をやっているのかが見えなくなって、残虐な犯罪を防止する機会を失ったのです。
という話については、仏教から外れるので、またの機会にしましょう。
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今、日本の仏教は葬式仏教になっていて、死者を弔う社会機能しか残っていません。かろうじて「信仰」「心の支え」としての役割を果たそうとしているのが、京都や奈良などに多くある、歴史的寺院群でしょう。これらは檀家の葬祭よりも、心の迷いを抱えた人々を広く受け入れ、仏陀に帰依する祈りの場を提供することで、1000年以上の時代を生き抜いてきました。今も京都や奈良の寺院に観光客が絶えないのは、単に歴史ある珍しい場所だからではなく、そこで手を合わせ、祈ることが心を浄化し、日常の妄執を少しでも減らす作用があるからです。
とはいえ、このように「自由に参拝できる一般大衆が、その場の心の浄化をする場所」という寺院の役割は、仏教寺院の中心的役割ではありませんでした。もともとは、生を四苦八苦を認識し、その苦しさから永遠に脱出する(解脱)ことを求める人が、自ら瞑想し、修行する場が、仏教寺院でした。
この考えは、今では小乗仏教と呼ばれ、仏教発祥の地、インドから離れて、南に伝播した先で残っています。スリランカ、ミャンマー、タイなどの南?東南アジア諸国では仏教が今も信仰され、そこでは解脱を求めて修行を続ける僧たちが尊敬されています。僧は自ら困難な解脱を求める人として尊敬されているがゆえに、喜捨(寄付)の対象になり、托鉢をする僧侶個人や寺院には、周囲の世俗の人々からの喜捨が集まり、修行が続けられています。人々は、できれば出家して寺院で修行(瞑想)生活に入ることが生涯の夢のような位置づけになります。しかし、あくまでも解脱できるのは修行をする僧だけで、周囲の一般世俗人は解脱はできません。とはいえ、解脱をめざす僧たちは、自分のことだけではなく、社会全般にひどいことが起きないように祈る生活をしているため、僧の存在によって社会は少しはよくなる、と考えられているのです。
このような仏教を小乗仏教(小さい乗り物、個人が解脱する)と呼び、原始仏教の形を残した仏教です。
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これに対して、日本に伝播した仏教は大乗仏教と呼ばれ、修行をする僧は、その祈りによって自分以外の、世俗の人々を救うことができる、と考えられています。僧が祈ることで、僧を信頼する多くの世俗の人々も解脱に近づくことができる。つまり、僧はたくさんの世俗の人を連れて行く大きな乗り物、ということです。
大乗仏教は、原始仏教とはかなり違う仏教です。ある意味、本質を完全に失った、名ばかり仏教、といった方がいいような感じです。
なぜこれほど違う仏教が誕生したのでしょうか。
紀元前5世紀頃に成立した仏教は、その200年後に出たインドのアショカ王によって保護され、インドとその周辺地域に広がりますが、その後、インドでは次第に古来からのヒンドゥー教に吸収されてしまいます。
一時の隆盛を失った仏教教団は、南と北に分かれて布教の道を探り、南に向かって小乗仏教となり、北に向かって大乗仏教になるわけです。
北に向かった仏教が勢いを盛り返すのは、紀元後2世紀ごろに隆盛になったクシャナ朝カニシカ王の時代においてです。
クシャナ朝は、最盛期には北インドを広く支配したので、インドの王朝でもあるのですが、実際にはイラン(ペルシャ)系の王朝であり、さらにそのルーツはギリシャにあります。え??ギリシャ??そうギリシャ。
アレキサンダー大王という名前は聞いたことがあるかも知れません。ギリシャ文明の後期、ギリシャの都市国家をまとめて帝国を築いた人物で、ギリシャをまとめると、オリエント世界の制覇に向かいます。エジプト、メソポタミア(イラク)、ペルシャ、アフガニスタン、そして来たインドにまで遠征し、アレキサンダーの大帝国をつくるのが、紀元前4世紀。仏教が生まれたあと、アショカ王との間のころです。
アレキサンダーの死後、この大帝国はあっさり分裂してしまうのですが、ギリシャからアフガニスタンまでの広範囲に、オリエント=ギリシャ世界の文化が広がりました。たとえば、ギリシャの彫刻。メソポタミアにあったユダヤ教。ペルシャの古代宗教ゾロアスター教。ほかにも多くの文化や物資がこの帝国の中で交流し、融合しました。
大乗仏教を保護したクシャナ朝は、こういうアレキサンダーが残したオリエント融合の上にできた王朝です。カニシカ王のもとで、仏教は特別な地位を得て王朝に保護されるのですが(この王朝は、多様な文化、宗教に寛容で、さまざまな文化が隆盛したようです)、それと同時に北にいった仏教教団はオリエント文化との融合の道を選んだのです。さまざまなオリエント文化と積極的に融合し、仏教の形を変えることで、信徒を集め、王からの庇護を受け、変容しつつ新宗教に変わっていきました。これが大乗仏教です。
クシャナ朝の支配地域、アフガニスタンにダンダーラという地域がありますが、ここが仏像の発祥の地といわれています。仏教は誕生から紀元2世紀ごろまでの700年ほどの間、仏教は仏像を持っていませんでした。初期の仏像は、アレキサンダー大王とともにやってきたギリシャ彫刻の伝統を受け継いだ作家たちによってつくられたのはあきらかで、インドやアフガニスタン人の顔ではなく、ギリシャ風の顔つきをしています。この仏像のつくりが、大乗仏教の布教ルートに乗って日本にもやってきたために、日本の最初期の仏像(法隆寺の仏像群など)は、中国風でもなく、インド風でもなく、ギリシャ風の顔立ちをしているのです。
同じく、クシャナ朝の支配地域であるペルシャ(イラン)の宗教ゾロアスター教は、叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが中心をなしているのですが、火の神と水の神の祭りがあることから、拝火教とも呼ばれています(余談ですが、イランでは今もアフラ・マズダー神への密かな信頼があり、日本のクルマMAZDAがひびきが同じということで、人気があります)。この拝火教の行事が仏教と融合し、遠く日本まで伝わったのが、東大寺二月堂のお水取りの行事で、毎年2月に、火を回し、水を撒く祭りが仏教寺院である東大寺で行われます。
もともと仏教は、ブッダ(ゴーダマ・シッダルタ)を崇拝する宗教ではなかったのは前回書いたとおりですが、このクシャナ朝の時代に、宗教的体裁を整えるために、ブッダを「神」、そしてほかにも如来や菩薩を従える多神教的な宗教の体裁に再構築され、特定の対象(仏)に対する信仰に変質したと考えられています。
ここに影響を与えたのが、ユダヤ教が積み重ねてきた神学的な物語の構築法であり、ゾロアスター教、ヒンドゥー教的な多神教の形でした。
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もう一度おさらいしておきましょう。
仏教は、もともとは「生を苦しみの連続、断ち切れない永遠の連鎖」と認識する世界観から始まり、その連鎖を「輪廻転生」と呼びました。その輪廻の苦しみから抜け出すための方法を編み出し、瞑想して、輪廻のわから出ることが「解脱」で、その最初の解脱者が仏陀(ゴータマ・シッダルタ)でした。この頃の仏教は、特定の神や仏に対する信仰は持っていませんでした。
超個人主義的な仏教は、南インドに伝播して小乗仏教になり、北に伝播してオリエント文明と融合しつつ大乗仏教になりました。ここで仏像が生まれ、仏陀の神格化が行われ、信仰はシンプルでわかりやすく、改変されました。そしてこの大乗仏教が、シルクロードの交易ルートに乗って、中国、日本へと伝わって日本の仏教になるのです。
ちなみに、クシャナ朝で大乗仏教が成立したのが紀元2世紀。日本で最初期の仏像である飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)、法隆寺の釈迦三尊像などは6世紀から7世紀前半の政策であることから、仏教がシルクロードを渡ってくるのに500年ほどかかっていることになります。
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日本にやってきたころの仏教は、それでも密教と呼ばれる修行を重視する仏教でした。瞑想を重視するという点で、まだ原始仏教の原形を残していたのですが、その後、鎌倉時代になると、法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)が登場して、さらにドラスティックな革命を行います。
親鸞が発した有名な言葉「善人、尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は、まさに仏教革命でした。仏陀信仰(阿弥陀仏)信仰を思い切りシンプルにして、「なむあみだぶつ」と唱えさえすれば、どんな人でも、悪人であっても救ってくれるのが仏陀である、と規定したのです。
ちなみに、南無阿弥陀仏のなむは、古代インド語であるサンスクリット語でナーム=帰依するの意味で、語源はオウム真理教のオウムと同じです。阿弥陀仏に帰依する(従う)という念仏と、オウム真理教は、同じことをいっていたのでした。
親鸞が発明した浄土真宗は、鎌倉時代の庶民に圧倒的に支持され、信仰を広めました。現世がつらくても、南無阿弥陀仏と唱えれば、来世は極楽に行ける、というこの信仰。
どうですか、もともと仏陀の教えとは、かなり質が違いますね。
こうして日本では仏教がぐっと庶民的になり、現世はつらくても、かんたんに幸せな来世に行けるようになり、その結果、日本での「輪廻」「生まれ変わり」「来世」は幸せなことのように変質したのです。もともと輪廻は、永遠の苦しみだったのに。
あらら、180度変わっちゃったじゃんか。
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宗教とは、「理屈では納得できないような理不尽なものごとを、何とか納得できるようにする説明体系である」と、宮台真司は定義しています。
愛する人が急に病気になって死んでしまう、何もしていないのにひどい犯罪に巻き込まれる、努力してもがんばっても、豊かになれずに貧しい生活を送る。そんな理不尽なことは世の中にあふれています。仏教は、これを輪廻や四苦八苦の原理で説明し、納得させようとします。
キリスト教の聖典「聖書」にも、理不尽なできごとをむちゃくちゃなロジックで納得できるようにするストーリーがたくさんあります。
若い頃は、こういう矛盾だらけの説明に納得できず、むかついていました。自分はどんなことがあっても、わけのわからない宗教的な説明なんかじゃなく、事実として受け入れることができる心の強い人間にならなくては、と考えていました。でも、それと同時に、こういう教えがあることで、気持ちがラクになる人もいるのだということもわかっていました。
日本では、宗教の力がすっかり弱まり、その代わりに、理不尽な犯罪に巻き込まれた人は犯人に厳罰を望む傾向が強くなり、慈悲や許しの気持ちが少なくなっています。死刑存続や厳罰を主張するのは、宗教的な意味で、理不尽なことを受け止めていく機能が低下していることと並行して起きているのでしょう。
しかし、家族を殺されたとしても、犯人を厳罰に処したからといって、家族が生き返るわけではなく、本質的に家族の死で傷んだ心を癒す機能はありません。刑罰に、心を癒す力を求めるのは無理は相談です。
宗教は、人間の心のこういう構造を補完する機能があり、今の日本にとって、この機能が低下していることが、もしかしたら大きな問題なのかも知れません。
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