(by paco)465前世の話……ゴータマの教え(前編)

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(by paco)今週は、仏教の話をします。宗教の話です。

最近気になるのは、前世の話をする人たちで、それもわりと若い人があたりまえのように前世の話をしています。基本的には、ほほえましいな?という目で見ているのですが、その前世についての話が、なんだか仏教でいう前世とずいぶん違うので、仏教でいう前世というのはどういうものなのか、そしてそこから仏教というのはどういう教えなのか、一度紹介しておくのも大事かなと思うようになった次第です。

では、その前世をまず入口として読み解いてみましょう。

前世という概念は、それ以前に輪廻転生(りんねてんしょう)を理解する必要があります。人間に限らず、生きているものは死んだ後も再び新しい生を与えられ、次の「生」に転じる、という考え方です。

死んでもまた、何度でも生き返るのだから、死ぬのも怖くない、というように今の日本人は考えているような印象ですが(あなたはどう理解していますか?)、実はまったく違います。

仏教でいう輪廻転生という概念は、実は「四苦八苦(しくはっく)」に満ちた「生」という思想と切り離せません。四苦八苦というのは、日本語では、「仕事が片付かずに四苦八苦する」というように、何かをするときにうまくいかずに苦労しつつも、なんとかやり遂げる(やり過ごす)というような意味に使います。

しかし、仏教の言葉としての四苦八苦とは、「生」とはたくさんの苦しみである、という考え方で、四苦とは、生・老・病・死の4つの苦しみ、そこにさらに

愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離する苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - あらゆる精神的な苦しみ

の4つの苦しみを加えて、八苦と呼びます。四苦に加えて、八苦があって合計十二苦というわけではありません。

人生、というか、どのような生き物であっても、生きていることは苦しみの連続であって、四苦八苦がつきまとい、生きれば生きるほど苦しくなる。しかし、生きるものは行き続けなければならない。いずれ死が訪れるとしても、しばしの「死」の後に、再び、転生して新しい生に生まれ変わり、また四苦八苦を背をわなければならない。

生きることは苦しみである、というのが仏教の「生命観」であり、輪廻転生によって永遠の苦しみを味わい続ける、というのが仏教が考える世界観なのです。

そう考えると、輪廻転生を「死んでもまた生まれ変われるから安心」というように捉えるのは、まったく脳天気な話であって、日本人ってば、本当に幸せなんだな、と思うわけです。と同時に、前世のことを覚えているかどうかとか、前世はこういう生だった、来世はこうなる、というようなことを思い出したり、想像したりすることは、仏教的には恐怖の対象、前世のことも来世のこともわからなければ、まだ今生(こんじょう=今生きている生)の苦しみだけで済むのに、前世や来世がわかったら、こんじょうさえ生きているのが辛くなる、というように考えるのです。

今の人が理解する輪廻転生や前世とは、真逆ですね。

ちなみに、輪廻は転生を繰り返す永遠の循環(環)のことです。

では輪廻転生を繰り返すのはなぜか。それは、生き物が持つ業(ごう)、つまりさまざまな物事への妄執(とらわれ)が次の生を引き寄せ、囚われがみたされないことによって苦しみが増してしまう、という循環をもたらす負のエネルギー源があるからです。メビウスの環のようになったブラックホールを思い描いてもらえばいいでしょうか。業(とらわれ)が業を呼び、永遠の苦しみのブラックホールから出られない状態が、輪廻転生です。

この循環する苦しみから逃れることこそ、仏教の教えです。

苦しみに満ちた輪廻という環から出て、苦しみから解放され、永遠の平和な心持ちになること。これを解脱(げだつ)といいます。

ではどうすれば解脱の境地に達することができるのか。

まず、業(妄執)をなくすこと。業は転生してもついて回るので、現世だけでなく、繰り返される転生を通じて、繰り返し繰り替え時、業の少ない生を送ること。これを功徳(くどく)を積むといいます。業をなくす努力をしてもしても、業に悩まされ続け、それでも少しずつ業を減らしていくことで、解脱に至る(かもしれない)というのが仏教が進める生き方です。

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ここまで読んでもらってわかるとおり、仏教というのは、とても平穏な状態を求める宗教です。欲望を捨てなければいけないのですから、そもそも資本主義とは真逆にあります。ものを欲しがったり、誰かを愛したり、誰かを憎んだり、いいことがあってもよろこんだりその状態をもっと長続きしようと願ったり努力したり、など、とんでもない。そんなことをすれば、どんどん業が深くなり、解脱が遅くなります。いいことも悪いことも、どのようなことがあろうとも動じない心理状態でいられるように自己訓練をすることが、仏教が勧める修行です。

現代社会とはまったく相容れない教えではありますが、それ故に、今の時代が抱える矛盾に対する答えを示していると言えなくもありません。別の意味では、ゴータマが生きた2500年前の時代も、現代と同じように欲望や妄執であふれていたのでしょう。

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話は前にさかのぼります。仏教は北インドに生まれた釈尊、本名はゴータマ・シッダルタが今から2500年ぐらい前につくりあげた教えです。紀元前500年ぐらいに生きた実在の人です。釈尊、釈迦牟尼、仏陀などは、ゴータマ・シッダルタが解脱したことをたたえる尊称です。

ゴータマはシャカ族の王子であり、何不自由ない生活を送っていたものの、いったん城から出てみると、周囲は植えたり病だったり、苦しむ人で満ちていました。このギャップに激しく動揺したゴータマは、29歳のときに王家を出て修行の道に入りました。最初はインドの伝統に従って、師につき、肉体を痛めつけるようなさまざまな修行をしますが、結局これでは解脱は得られないと気づきます。ついに苦行をあきらめ、菩提樹の下で最後の覚悟の迷走をはじめ、その結果、ゴータマは妄執をたつことに成功し、解脱するのでした。修行をはじめて7年目と言われています。仏教では、解脱に至る方法は激しい苦行ではなく、静かな瞑想によって得られると教えています。

ちなみに、日本でも修験者(しゅげんじゃ)と呼ばれる修行僧が今もいて、修験道(しゅげんどう)という苦行を行って解脱しようという道を選ぶ人がいます。本来、苦行は仏陀が否定した道なので、激しい修行は矛盾するのですが、苦行の後の瞑想によってゴータマが解脱したことから、ある程度の苦行(修験道)は有効だと考えられています。日本の修験道は、主に山岳信仰と結びついていて、普通の人が登らない3000メートル級の山々(北アルプスなど)を縦走し、滝に打たれ、星降る夜に五体を投げ出し、祈りささげることを繰り返すことで解脱に至ろうとします。今の時代に修験道に入る人たちは、多くは大切な家族を亡くしたり、事業に失敗するなど、囚われの苦しみから逃れて解脱したいという人たちが多いようです。

日本の山々はこの修験者によって聖地として大切に守られてきました。そのため、普通の人が登るとたたりがあると恐れられたり、明治時代までは女人禁制(女性は立ち入ってはいけない)など、迷信も生んできました。明治時代の人々は、こういった迷信をひとつひとつだはして山に登り、今のようなスポーツやレクリエーション登山ができるようになったのです。明治の人はなかかなたくましいのでした。

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仏教についての言葉は、基本的に感じです。釈尊、仏陀、四苦八苦、輪廻……。もちろんゴータマはインド人ですから、漢字は使いません。当時のインドの言葉、サンスクリット語で教えは書かれています。実際には、ゴータマは弟子たちに話して聞かせただけで、本は書いていないので、教えを言葉として書き留められたのはゴータマの死後、数百年かけてのことでした。この点は、イエス・キリストの教えが聖書としてまとめられたのが、イエスの死後数百年たってからだというのと事情は同じです。

インドでゴータマの教えを本としてまとめたものを仏教典と呼び、これは当然サンスクリット語で書かれています。この仏教典を、のちに中国の僧・玄奘三蔵らがインドにいって学び、中国語に翻訳して持ち帰ったことで、仏教典は中国語になり、それが日本にもたらされました。ゴータマの死後、1000年ぐらいかかっています。

いま日本では、般若心経(はんにゃしんぎょう)や観音経(かんのんぎょう)、法華経(ほけきょう)などが使われていて、これらは中国の僧がサンスクリット語の原典を中国語に翻訳したものです。葬式の時のぶつぶつわけのわからないおまじないの言葉のように感じますが、それは中国語の教典をそのまま音読みで読んでいるからで、本当は漢文を読解するように、日本語訳したものを読み上げないとおかしいのです。これらの仏教典は岩波文庫に現代語があり、手軽に読むことができます。

内容は、それほど難しくなく、弟子とゴータマの会話形式になっていることが多い。弟子が「人は死んだらどうなるのでしょう?」などと聞き、ゴータマが「永遠に生き返って苦しみを味わうのだ」と回答しているような本です。僕はいくつかの教典を大学時代に読んで、「なんだ、意外に簡単じゃん」と思った記憶があります。

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ここまで見てきたように、仏教の本来の教え(原始仏教)は、どこまでも個人主義な教えでした。修行と瞑想をして自分が解脱すればよく、せいぜい、まだ解脱していない、解脱を求める人を指導するぐらいが、解脱者(僧侶)の役割です。

人が死んでも、葬式をするとか、祀るとか、そういう発想はありません。葬式をするというのは、死んだ人を悼み悲しむ、ということですから、妄執(業)の始まりです。なるべくこだわらずに、さらっと扱うのが原始仏教的です。

日本の仏教は葬式屋さんのようになっていますが、本質的にずれてしまっているのです。このような日本の仏教は、大乗仏教と呼ばれることを知っている人は多いかもしれません。

もうひとつの小乗仏教は、原始仏教の原典を比較的よく残しながら、主にスリランカやミャンマーやタイなど、南アジア?東南アジアに広まっていきました。

ということで、そろそろ長くなってきたので、今週はいったん終了し、来週、続きを書きます。

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