(by paco)461なるべく使わない、と心に決めたい言葉

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(by paco)今週は言葉の表現について。コミュニケーションをうまく進めるためのコツ、という感じでしょうか。

■「ずれているかも知れませんが」「違うかも知れないんですが」

グロービスはじめ、企業研修をやっているときに、発言する人が、話し始めに口にすることが多いのがこれ。自信がないから出てくる言葉ですから、研修中は突っ込まずに大目に見ていますが、本来は、絶対に言ってほしくない言葉です。

特に「ずれているかも知れませんが」は、クリティカルシンキングやロジカルシンキングではいちばんいってはいけない言葉。ずれるというのは、イシューがずれるという意味ですが、「イシューをしっかり捉えましょう」「イシューをずらしてはいけません」というのが、一番最初に話すことです。そのイシューについて「ずれているかも知れませんが」という表現で始めるということは、論理思考の入口に立てていないということ。本来であれば、「だったら発言しないでね」というところですが、それを言っちゃあ、研修になりません。

とはいえ、実際にイシューがズレいる不安を感じている場面は、当然あるわけで、そういうときに「ずれているかも知れませんが」といわずに、何をいえばよいのでしょうか。

答えは簡単なんですが、わかりますか??


(かんがえてみてね)


答えは、「イシューを確認する」。イシューは疑問形ですから、「今聞かれているのは、○○は××なのか?、ということでよいですか?」と聞き返す。つまり、講師の質問に、質問で返すわけです。いわゆる「質問返しの術」であり、ユダヤ人がよくやる方法、いわれている方法です。

講師に質問で返すのは、失礼に当たることもあるのですが(僕は気にしませんが、カチンと来る講師もいそうなので、相手によって考えてください)、論理思考の講師ならここでカチンと来るようだと、修行が足りません。

イシューを確認して、それがあっていれば、今度は問い(イシュー)と答えがかみ合っているかどうかを確認しましょう。これがかみ合っていれば、「ズレ」はなくなります。

質問には答えているので第一関門クリア。

次に、出した答えが違う可能性もあります。しかしこれは別に気にしなくてよいのです。と言うのはいいすぎですが、答えが違っていても、講師に修正してもらってなっとくできるなら、それがいちばんまなびになる。

回答する側から考えると、一発で正解を出したいところですが、一発で正解が出るぐらいなら、研修やスクールの授業に出る必要もないわけで、不正解は恥じることではありません。というように考えると、自信がないときにすべきことはふたつ。

「イシューを確認」した上で、今用意した回答が、問いに答えているかどうかを確認する。

問いに答えていさえすれば、それが間違っていたとしても、気にする必要はない。もし回答が違っていれば、なぜ違うのかを、学べばよいわけです。

ということで、「ずれているかも知れませんが」「違うかも知れないんですが」は、明日から使わない、と決めてください。自分の言葉に責任感が生まれ、相手との信頼感が変わります。


■「僭越ながら」「分不相応ながら」

「僭越ながら」「分不相応ながら」と言うのも、よく聞く言葉です。特にメールを書くと意外に多用しているのではないでしょうか。

謙遜、謙譲の言葉ですから、日本人としての美徳を表し、文化的にはとても大切なのですが、現代社会のコミュニケーションの文脈の中で考えると、要注意表現です。

ちなみに、「僭越」は「自分の身分・地位を越えて、出過ぎた事をすること。そういう態度」という意味なので、分不相応と同じですね。このように、同じことを異なる表現で言えるのも、日本語の美しさで、僕はこういう日本語の美しさも愛しているのですが、残念ながらビジネスや社会活動のような場面では、美しさが「伝わり度合い」を邪魔してしまいます。

自分が何かを発言するときに、「分不相応ながら」と付け加えるということは、自分にはその話は「無理」なんだけど、あえてすれば、がんばっていってみれば、という宣言をしていることになります。つまりは、腰が引けていることになります。

腰が引けているということは、本気を出していない、自分の考えを徹底していないという意味であり、さらにいえば、「とりあえずいってみました」「都合が悪ければ、いつでも引っ込めます」という意味になります。

もしあなたが、その発言を通じて、そのイシューになるべくなら関わりたくない、できれば一番最後を歩いていたいと思うなら、「分不相応」や「僭越」はよい表現ということになります。しかし、僕に言わせれば、「それなら、そのまま<自分はまだ手を出したくありません>と意思表明した方がいいし、そうでなければ何もいわないで相づちを打っていた方がいい。

何かを言うということは、そこに何かの意味があるということであり、それによって何かを動かそうということだと僕は考えます。それがたとえ、飲み会の席での雑談であっても、その時の相手の心に、小さな小石の波紋でもいいから引き起こし、それによって相手や自分に小さな変化が起きることを期待して話します。現実には、そんな期待が本当になることは、ほとんどないのですが、それでもコミュニケートいうのは常に相手に何かしらもたらすことを期待して行われるものだと思うのです。

もちろん、相手を変えるとか、そんな大それたことではありません。何かちょっと印象に残るとか、知らなかったことに少し気がついたとか、気持ちがすっと楽になったとか、たいていはその程度のことです。それでも、何かを期待し、その期待を裏切られながら進むのがコミュニケーションというものです。

ということは、その時、自分の発言によって相手に起きる変化について、発言者である自分は責任があるということです。相手にとってよい変化が起きれば、相手はよろこんだり感謝してくれるでしょうが、むっとして不愉快になったとしても、その責任は自分が引き受けるしかない。その責任を引き受けることで、相手からの喜びや感謝は、自分のものになります。

では「分不相応」「僭越」というときのマインドはどうか。

腰が引けているということですから、自分の発言にも責任を持ちたくないという気持ちのもとに発言しているわけで、相手に投げ込まれた小石よって、相手の中に起こるさまざまな変化について、引き受けるつもりがないと突き放していることになります。または、発言はするけど、波紋を広げたりしないでね、と無理な注文を発しているとも言えます。

相手から見れば、あらかじめ自分のリアクションが宙に浮いて行き場をなくしてしまうことを宣言されているようなもので、かなり不安な状況になります。これでは気持ちのよいコミュニケーションは取れません。

自分の発言に自信がなく、仮説的なのであれば、そのようにいえばいい。「正しいかどうか自信がないのですが、」とか「こういうように考えてみたのですが、」というように。分不相応といわれるより、ずっといい。

さらにいえば、実は、「分不相応」というような言葉が出てくるようなイシューの場合は、実は「誰も本当の正解がわからない」というようなイシューのことが多い。社会問題のイシューはその代表例で、「沖縄の基地問題」とか「貧困の人が増えている」こととか、そういうことは、誰も正解を持っていないわけで、誰もが厳密にいえば「分不相応」だったりします。自分も相手も分不相応なら、お互いに分不相応ながら、と前置きし合ってコミュニケートしていることになり、かなり無責任に言い合っているだけ、ということになりかねません。

<おとなの社会科>でやっているように、社会問題について発言するときは、ほとんどの人が厳密にいえば「分不相応」なのに、黙っているわけにいかないから「なんとかしたい固めに発言している」わけなので、みんなが分不相応ながらなんとかしたい、という状態です。そういう場面で、お互いが「分不相応」と言い合ったら、どうなるか。少しでも関わろうとしている人同士が、お互いに半身が引けている状態で話をするという、とても不毛な状態になります。

もし本当に、「できることは何かしたい」「解決の可能性はないのか」と考えるなら、「自分はここまでは言える」「自分にとってはこういうことだ」ときっぱり言い合う状況を自ら進んでつくることが重要です。

「僭越ながら」「分不相応」という言葉は、こういうコミュニケーションづくりの邪魔になるわけで、だからこそ、明日からやめたい言葉のひとつ、というわけです。


■「環境」「ソフト/ハード」

このふたつも、なるべく使わない方がよい言葉。といっても、とても便利な言葉でつい口をついて出てしまうので、使ってしまったら、必ず意味合いを説明して内容を限定しておくことがポイント。

なぜ使わない方がいいのか。

示している範囲が広くて、いろいろな意味になってしまうからです。これも日本語の持つ多義性がもたらす結果のひとつです。

「環境」は、もっともベーシックには、自分を取り巻く現実的な状況、つまりは自然環境や都市の状況、部屋の空気、部屋に置かれているものなど、文字通り物理的な環境をさすのが、第一義でしょう。「環境問題」というときの環境は、このような意味をベースに使われます。

しかしほかにもいろいろな意味に使います。「育った環境」というと、上記のような物理的な環境に加えて、親や家族構成、それぞれのキャラクターや常々いわれてきたこと、さらに学校からのメッセージなど、メンタルな面が含まれてきます。

パソコンの環境といえば、さまざまな設定を意味していて、壁紙にどんな画像を貼り付けるか、から始まって、ネット接続環境、サーバとのデータのやりとりなどの環境設定を行います。

同じく、ソフトとハードもいろいろな意味に使います。もともとは物理的な存在としてのパソコンと、そこにインストールされるソフトウェアという「対(つい)」だったのが、今では、会社などにある設備とその運用方法とか、人材育成のときには、全員必ず受講するもの(ハード)と、選択式(ソフト)というような区別に使ってしまうこともあります。こうなると、何をソフトとハードといっているのか、理解するのに苦労してしまい、メッセージが伝わりません。

便利な言葉ではありますが、なるべく使わないで、別の表現をした方が、意味が伝わることが多いので、注意が必要です。別の表現が思いつかなかったら、「環境」「ソフト/ハード」という言葉は使いながら、説明を必ず加えることです。

僕は、ありがたいことに、講演などのときの話がわかりやすいと言ってもらうことが多いのですが、その理由のひとつが、こういう言葉に注意しているからなのです。

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