(by paco)460変化を嫌う理由&イシューの設定

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(by paco)今週は2本立てです。

■日本人はなぜ変化を嫌うのか?

学歴分断社会」(吉川徹著)という本を読みました、というか、だんだんばかばかしくなって最後まで読めなかったのですが(かなりがんばったんだけどね)。

大阪大学の大学院准教授ということで、それなりのタイトルの人なのに、この内容はなに? 言わんとしていることをシンプルに取り出せば、誰もがわかっていることだけ。それを支える精緻なデータを提示しているわけでもなく、それ以外の意外性のある仮説を徹底的に反駁して、常識の正しさを強固に説明したわけでもなく、説明のロジックも、肝心なところで逃げまくっている感じ。

もしこの人の研究者としての実力がこの程度でないとしたら、新書版ということで読者を完全にバカにした本、ということで、実力ないのか、読者をバカにしたのか、どちらにしても、残念な本であることには代わりありません。

で、この本の趣旨ですが、「学歴」の有無を、「最終学歴=大卒・短大卒以上」と「それ以下」と区分し、「それ以下」の学歴の親が、「それ以下の学歴の子」を生み出し、その連鎖が続くことで、社会が「学歴勝ち組」と「学歴負け組」に分かれていき、今後はよほどの手を打ったとしても、この傾向は続く、と主張しています。

どうですか? 納得できますか? まあ、常識的に、というか、ぱっと考えると、なるほどと感じさせ、そういうことってあるよね、と思うでしょう。

でも、ちょっと考えてみれば、疑問がたくさん湧きます。ここ50年間、日本では高学歴傾向が続いていて、大学以上に進学するこどもの割合は50%に達しています。そして、筆者は「高学歴の親」を「父母、いずれかが高学歴」と定義しています。

すると、単純な組み合わせで行くと、「大卒父×大卒母」だけでなく、「大卒父×高卒母」「高卒父×大卒母」という組み合わせも「高学歴家族」になり、その父母の元のこどもは「大卒になる可能性が高い」と主張しています。「高卒父×高卒母」の低学歴家族だけが、こどもを高卒のまま留めておく、という主張です。

すると、トレンド的に見ると、高学歴者は世代を下るごとに増加傾向であることになり、「低学歴家族」は縮小傾向になるはずです。学歴による収入などの差がある言う指摘は納得感があるとしても、低学歴=低所得層が縮小する傾向なら、それを問題視する必要はないということもできるし、もし問題視するなら、この傾向のなにを問題なのかを明確にする必要があります。

高学歴家族と低学歴家族との間に分断があることは、いまさら指摘しなくても、概ね納得できるところで(この点について、本書の中でも理由を説明していますが、あまり明解な説明になっているようには感じませんでした)、低学歴家族が縮小傾向であることを踏まえた上での議論がほとんどないことが、読んでいてフラストレーションがたまるところです。

さて、その上で、むしろなにを問題にするべきかを考えてみます。

本書でも指摘がありますが、今起きていることとして、大卒者が高卒者と同レベルの収入の仕事にしか就けないという現象があります。こういう「グレードダウン」就職をする人が、増えていることは、著者も指摘しています。

生活ぶり(経済力)が「下流」だと考える人の「主成分」が高卒者だというのは納得のいくところですが、むしろ注目しなければならないのは、「大卒なのに、下流になった人が30%いる」という事実の方でしょう。

高卒者で社会に出ると、主食や収入面で不利ということはすでに親も子もわかっています。そこで、特に大卒の親は、こどもを大学に入れようとする。しかしそのうちの何割かが高卒と同様の収入しか得られない。つまり学歴という投資に効果がないということを意味しているわけです。世代を超えたときに、学歴は維持できたのに生活レベルの受け渡しに失敗する例が出ていて、それが増えつつあることまでは本書の中で指摘七手いる。

にもかかわらず、その点にはあまり目を向けずに、高卒の親が高卒の子をつくることを取り上げて、「学歴分断線がある」とだけ指摘しているという点で、著者はいったいどこに注目しているのか、イシューを捉えられていない、と僕は感じます。

むしろ今指摘しなければ習いのは、分断線を(意図に反して)よくない方に破って下に行く人が増えていることをどう考えるべきなのか、と言うことだと思います。

ここで、冒頭の問いに戻ります。

「日本人はなぜ変化を嫌うのか?」

この場合、日本人のマインドとは、変化を嫌い、親世代のやり方を子世代にも適用しようというマインドのことです。

親は、自分が大卒で「勝ち組」になったから、それを根拠にこどもを大卒にしようとする。しかし、その方法が功を奏す確率はどんどん下がっている(まだ概ね効果があるとしても)。だったら、親はやり方を変える必要があるのに、変えようとせずに、そのままのやり方でこどもに受験勉強をさせる。こどもは、直観的に社会の変化を感じていて、「親が言うやり方ではダメだよね」と思っていても、親を打ち負かすほどの説得材料はない。

「日本人はなぜ変化を嫌うのか?」

という問いに、ここまで情報で答えるなら、親たちは、親になる世代の読者は、現実をよく見ていないからだ、ということになります。変化しないことのリスクを理解すれば、むしろ大卒の方が有利という神話が崩壊しつつあることを前提に、こどもの進路を考えるべきではないのか。

という、著者に対する僕のアンチテーゼ(反論)を示した上で、この話の続きをちょっとだけ書いておきます。

ヒントとしては、著者は大卒になるのは高校を卒業したタイミングに限定しているように書いているわけですが、現実は、どのタイミングで大学に入ることができる、という点にあります。高卒で社会に出て、収入なり仕事なりで不満があれば、大学に入って学び、それを元にステップアップすればよい。はじめからあまり望まない大学に入って、義務的に卒業するより、モチベーションが高い分、大卒のタイトルを活かせるだろう、と。

現実には高卒で働けば、フリーターや派遣社員にならざるを得ず、その収入では大学に行くことはできないだろうという議論はあります。だったら、あとからでも大学に入りやすいように支援しよう、ということは大きな意味があるでしょう。無償の奨学金制度を用意する必要があり、こういった考えに即して民主党政権の子育て支援政策が考えられているわけです。

ちなみに僕は、自分の娘に、高校を出たからといって大学に行く必要はないと話しています。行く必要を感じたときに入り直し、そのの力をもとに、社会に出る。

ちなみに、デジハリ大には、大学に入るときにすでに仕事をしている若者がいます。どういう経歴でここにいるのか、だんだん聞き出そうと思っていますが、これまでのように、小学校から大学まで、単純な階段で上がらなければならない、という時代は現実的に終わっているのです。

お子さんをお持ちの方、つくりたいと思っている方は、ぜひ、今なにが起きていて、どのような意識の変化が必要なのか、「Factsとメカニズム」(<おとなの社会科>のテーマ!)から考えてもらいたいと思います。


■勝間vsひろゆきの論争は、勝間の負け

一部の人たちの間で、話題になっている、勝間和代と2ch設立者の「ひろゆき」の対談TVの話。

どんな話?というのをざっくり書いておきましょう。詳細は「勝間 ひろゆき tv」とかでググると、いろいろ出てきます。

勝間和代が対談のホストを務めるTV番組に、ひろゆきが呼ばれ、中継で議論が始まった。勝間は「ネットでの匿名性が諸悪の根源、実名にすべき」を前提に話を始め、ひろゆきは当然のごとく、実名にすることの決定的なメリットはない、と以前からの主張を繰り返して平行線。そこにイラだった勝間が、「だめだこりゃ」など失礼な態度を繰り返して、その態度に対してネットで批判が続出、勝間が謝罪に至った、という話。

ネットの匿名実名のほかにも議論があったようなのだけれどね。

で、おもしろいので僕もちょっと混ぜっ返してみます。

僕が見るところ、この「事件」は、完全に勝間のミス、焼きが回りましたね?というか、忙しすぎるのに、手を広げすぎ、準備なしに番組に突入したという、ミスが原因。勝間さん、少し仕事をセーブして、ていねいにやらないと、消耗しちゃうよ、というのが僕からのアドバイスかな。

ひろゆきは、2ちゃんねるの設立者で、ネット上での誹謗中傷や匿名実名問題については、百戦錬磨。お金儲けさえできればいいというシンプルなビジネス世界に「うつつを抜かしていた」勝間と違い、生の人間対人間のぶつかり合いも、また裁判で社会のリアルな現実もたっぷり味わってきたひろゆきとは、この問題についての見識がまったく違うわけです。

ひろゆきは2ちゃんをつくっただけでなく、そこを舞台にした多くのやりとりへの対応、さらに裁判に訴えられ、主張したりと、徹底的に現実に鍛えられてきました。匿名実名問題も、すでに15年前から同じ議論があり、chieichiba.netを運営してきた僕もこの問題については、そのころ徹底的に考え抜き、かつ現実的な問題にもぶつかって、解決してきました。そういう「嵐」をいくつもくぐり抜け、今直樹残っているひろゆきには、この匿名実名問題と、その背景には「やりたいように好きにやればよく、社会が余計な規制をするべきではない」という試奏には徹底的に磨きをかけてきました。もう、このイシューについては、どこからどんな矢が飛んできても、単純に跳ね返せるぐらい、理論武装も実例も持っているわけです。

そのひろゆきに、今をときめく勝間が同じ議論をふっかけたのだから、ひろゆきとしては、「どれどれ、これまでとは違う、おもしろい主張をしてくれるのかな?」と期待して番組に出演したのは見え見え(表情からわかる)。でも勝間は、予想に反して、15年前の批判者と同じ議論しかしない。ひろゆき、うんざり。うんざりしているひろゆきを「真剣じゃない」と思い込んだ勝間が、攻撃して自らドツボにはまり……、というのが番組の工事に見えました。

勝間は番組ホストでもあるし、ひろゆきというこの道の「達人」と対峙するなら、これまでにない切り口やロジックを用意するべきでした。でも、その準備を怠り、いわば、ひろゆきの理論武装の厚みを軽視した。理論なら自分の方が勝てると思い込んでいたのかも知れません。

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」と孫子の兵法に言いますが、勝間は「敵を知る」プロセスを怠ったので、自分の策におぼれたのでしょう。というように、僕には見えました。

あ?自戒、自戒。僕も気をつけないとなああ。


ひとつ僕流のやり方をお話ししておきましょう。僕はああいう議論の場面では、自分の小腸から入ることはまずしません。まず、聞く。つまり、Question。つまりIssueの設定。相手にどのイシューなら議論ができるか、はじめは徹底的に探る。

自分に取ってある程度有利で、相手が乗ってくれそうなイシューを注意深く探り、設定してから、議論に入れば、事前準備が不十分でも、へまはやりません。

あ?手の内見せちゃった。次に僕と議論をする人は、この手を使ってください。でも、僕は自分に不利なイシューには応じないので、いずれにせよ、注意深くやれば負けなし、建設的な議論ができます。

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