(by paco)娘のウポルは、高2になりました。
高2と言えば、そろそろ進路が気になるお年頃。進学はどうするのか、受験はするのか、しないのか。そもそも将来どんな仕事をしていきたいと思うのか。そういったことがかなりリアリティを持ってくる時期です。
ウポルはシンガーソングライターをめざして、努力邁進中です。小さいころからダンスを始めて、今はダンスも続けつつ、音楽に力を入れていて、デビューし、音楽を仕事にしたいと思っているようです。
そんな中での進路選び。大人でも悩んでしまう、答えが出ない状況にあるわけで、そういう彼女について、今の僕の考えを書いてみたいと思います。ちなみに、コミトンはウポルも読んでいるので、彼女への私信のようになってしまうかも知れません。
先週、ウポルと話していて、だんだん自分が高校生だったときのことを思い出しました。ちょっと昔話におつきあいください。
高校2年生の夏から秋、僕もやはり進路について悩んでいました。建築の道に進むか、哲学を学ぶか、そんな分かれ道です。
僕の父親は独立して個人で設計と建築管理の仕事をしていました。自分で書いた図面をもとに家を作り、それを施主に提供するという仕事を、僕は小さな時から身近で見てきたし、家ができあがる建築現場に連れて行ってもらったり、図面ができあがる製図室にもいつも出入りして、父の仕事を見ていました。家ができあがるのはすてきな仕事だと思ったし、それは今も変わらず、家を作る仕事をしている人に対する敬意として僕の中にあります。
しかし、その一方で、それを自分の仕事にするべきかという点には、別の考えも浮かんで今知った。幼稚園とか小学校とか、「将来何になるの?」と聞かれれば「建築家」と答える「よい子」だった僕は、そのまままっすぐ進むことに、思春期らしい疑問があったことがひとつ。もうひとつは、僕が中学になったころ、40代の父の仕事は「施主と交渉し、図面を書いて提示し、家を作って引き渡す」という昔ながらのやり方ができなくなってきているらしいことを感じていました。父は次第に図面を書かなくなり、ほかの建設会社の設計士が書いた図面を現場で仕上げる「現場監督」の仕事を中心にしているようでした。
建築業界が次第に大きな資本に集約されつつある時期だったのでしょう、個人で家を作る仕事をしていくだけのポジションを父は獲得できなかった。たぶん父にはふたつの選択肢があり、中堅建設会社が取ってきた案件の「図面だけを書く」下請けか、決まった図面を現場でつくる「現場監理」の仕事のうち、後者を彼は好んだのだと思います。その結果、父は自分が理想に描いたしごとのしかたが次第にできなくなった40代だったのではないか。でも、家族を持ち、公害に自分の力で一軒家を建てた彼の40代には、そう多くの選択肢はなかったのかも知れません。
父は、その数年後に胃がんで他界してしまうので、当時の僕にはその状況はわかりませんでした。ただ、建築の仕事がそれほど輝いていないのだということが見えてきていたし、実際、母は「建築の仕事も今は厳しいのよ」という言い方をしていました。高度成長期の1960年代にはかなり自由に仕事があったのでしょうが、70年代も後半に入ると、建築業界は慢性的な「不況」になっていました。これは「不況」なのではなく、「住宅が量的に、質的に充足してきた」ことを意味していたはずなので、その状況を「不況」と呼んでいたこと自体、経済や社会全体が見えていなかったのではないかと僕には思えます(父の名誉のために付け加えれば、父にはわかっていたのかも知れませんが、母にはわかっていなかった、のでしょう)。
そんな、「なりたい職業は建築家」の僕の前に登場したのが、ひとつは「小説」であり、もうひとつが「哲学」でした。
小学生のころはむちゃくちゃ本が嫌いで、6年間「図書」の時間を絵本で回避した僕だったのが、中学生のある日、川端康成「雪国」を読んで以来、なぜかとりつかれてしまい、高校に入るころには月に何冊も小説を読みあさっていました。高校では文芸部に入り、年に何本か小説を書いて、輪読会をやったりもしていました。だから「小説か」になりたいという気持ちはあったし、なれないことはない、という気持ちもありましたが、では進路としてみたときはどうかといえば、「国文科」や「仏文科」にいっても小説を書く勉強はできないようだということも知っていました。過去に誰かが書いた小説を研究する大学であって、自分が小説を書く勉強ではないからです。
だったら、別のことを学び、小説は自分で書くしかない。でも、何を学ぶ? 建築を学んだっていい? そんなところに、高校の倫理社会の授業と出会い、哲学のおもしろさに目ざめ(思春期の少年的な関心でしたが)、学ぶなら哲学、将来は小説家とか、エッセイスト、というのが浮かんできたのでした。
そこで、高校の勉強なんかはいっさいせずに、ひたすら本を読み、ひたすら書きたい、という思いが募ってきたのが、今のウポルと同じ高校2年のころです。
もうひとつきっかけがありました。高校1年のとき、学校経由で米国への留学の勧誘があり、何人かが一部奨学金を得て、留学していきました。世界を見てみたい、英語で自由に世界とコミュニケートしたい、という気持ちが、僕にも湧いていました。でも、ちょうどそのころに父の胃がんがわかり、経済的にも気持ち的にも留学に行くことは不可能になりました。だったら、英語より日本語を徹底的に鍛え、自分の中心的な力にしよう、という気持ちに切り替えました。もしこのときに、米国に留学できていたら、僕の今はなかったかも知れません。
ということで、この時期に見つけたふたつのこと、「哲学を学ぶ」「日本語を武器にして生きる」が不可逆的に確定していきました。結果的に、20年を経て今僕はこのふたつを武器に仕事をしています。特に「日本語」の方は、コピーライターになった20代にすでに大きな力になってくれ、今も言葉を使った仕事で収入を上げています。哲学の方は、広告の仕事をやっているときもコンサルをやっているときも、あまり自覚なしに僕を支えてくれたのですが、去年から始めた<おとなの社会科>ではそれを核心にして仕事にすることができつつあります。17歳の志というのは本当に大きいなものだなあと思います。
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ということで、長い昔話でしたが、17歳の志、意思決定というのは、本当に大事なことで、将来につながる可能性のある芽をたくさん含んでいるのだと思います。
しかし、その一方で、このふたつが当時の僕の周囲の大人たちにとってはどう見えていたのかと言えば、若気の至りで、仕事になりそうもないことをやりたがっている、というようにしか見えていなかったと思います。
もちろん、何人かのおとなに相談しました。学校の先生は、化学の先生だったので(建築家になるつもりだったので、理系クラスにいた)、僕の志については理解してくれたものの、その志が成功するかどうか、そのために何が必要かと言うことについては、ほとんど何も示唆してくれませんでした。誠意を持って対応してくれたことだけが伝わりましたが、教師というのはそういう仕事だ、という感じを受けました。
おじにも話を聞きましたが、僕の話の意味がわからないようでした。「お父さんがたいへんなんだから、ちゃんとした仕事に就いた方がいいよ」みたいなことを言われた記憶があります。
もうひとり、自分の将来につながるかもしれないと思い、わざわざ話を聞きにいった人がいます。高校の同級生の父で、新聞社を辞めてフリーライターとして独立している人でした。彼は僕を、ちょっとした病気で入院中の病室に招いてくれて、僕の話を聞いてくれました。でも、「それは自分で決めることだ」というような話しか聞けませんでした。
これで僕のヒアリング先は尽きてしまい、将来像探しは八方ふさがりになりました。大人たちは、若者の将来について、責任ある発言をするのを避けているように感じました。君ならできるとか、こうすれば可能性があるとか、ここに対する努力をしなければいけないとか、あるいは、君にはまず無理だとか、将来につながる示唆を与えてくれる大人は誰もいませんでした。僕は将来に対してひたすら孤独でした。
その孤独の中で支えてくれたのは、5歳上の姉なのですが、その点については深く感謝しています。でも、しょせん「同年代の姉」のいうことですから、道を示すことまでは期待できないのでした。
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そんなわけで、将来について、僕は大人からきちんとした話を聞かせてもらえなかったという不満がずっとついて回っていました。それは大人不信につながり、だからこそ、僕はこれまでもずっと、自分より年上の人とは深くつきあえないできました(ごく限られた例外を除いて)。今もつきあっている友人、同士のほとんどすべてが、年下です。
僕が今、ライフデザインと称して、無償であっても相談に乗っている背景には、以上のような僕の歴史があります。下の人に対して、僕は白黒付けたアドバイスをしたい。大人(年長者)の中に、若者(自分)の将来に少しは責任ある意見をくれる人がいるのだということ、世界は自分を孤独に追い込むことはしないのだということを、伝えたいと思うからです。
もちろん、そんなことは、僕の気持ちであって、相手に対してそれが伝わっているかどうかはわかりません。僕の意見も無責任で、ちゃんとした意見を言わないと感じる人もいるかも知れません。それでも、僕は精神性、若い人たちに話をしたいし、それは、かつての僕自身がしてほしかったことなのです。
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ウポルの話でした。
ウポルは、音楽をずっとやっていたい、といいます。学校の勉強や進学や、そういうことで時間が取られるのがつらいと。僕と同じことを考えていることが、なんとも心にしみます。
17歳の僕は、ほかのすべてを捨てて小説を書いたり、本を読んだりすることだけに集中する勇気がありませんでした。結局、それをやってみればといってくれる大人がいなかったし、自分でも勇気がなかった。でもそういってくれる大人が1人でもいれば、僕はやっていたかも知れません。そしてそれができなかったこととについて、僕は少なくとも25歳ぐらいまで、後悔し続けて生きました。
今なら、こう考えることができます。
試しに1年間、読んで書くだけの生活をしてみたら? 高校は休学して、やり続けてみたらいい。何かが生まれるなら、もっとやればいい。うまくいないと思ったら、学校に復帰すればいい。
これが僕から娘への答えのひとつです。
幸いなことにウポルは単位制の高校に行っているので、「留年」という概念自体がありません。単に高校にいる在籍期間が延びるだけです。リスクはとても少ない上に、得るものはたくさんある。それに、単位制なので、まるまる学校を捨てる必要もありません。たとえば週1日だけ登校して、そのぶんの単位だけ取ることにして、残りはすべて音楽をやってもいいのです。
高校生や大学生のときには、その時にしかできないことがきっとあります。その時やっていれば、その後、大人になってやるのとは違うことができ、違うことをつかむことができるのでしょう。それは、大人になった僕にはすでにできないことです(その代わり、今は違うやり方で、別のことを獲得できるようになりましたが、これについてはまた別の機会に)。
17歳のウポルに、今しかできないことが見えているなら、ヘタに安全な道を取らずに、「ひとまず大学に行ってからやろうか」と先延ばしにせずに、今やってみてほしい。幸い、僕は、僕の父とは違って今のところ健康なので、経済的にも支えてあげることができそうです(無限に、というわけにはいかないのですが)。
まっすぐに、今すべきことに向かえ。それが僕ができなかったであり、僕からのアドバイスです。その結果が、彼女の望むものになるのかどうかはわかりませんが、それもまた大事な、今しかできない学びです。そこでつかんだものは、かならず、君の一生を暖めてくれる。
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