(by paco)「貧困化するホワイトカラー」(森岡孝二)という本を読んでいます。
学芸大学駅にちょっと風変わりな古書店があり、そこで待ち合わせで時間調整していたときに偶然見つけて、350円で買ったのですが、まあそれはそれとして。
タイトルの通り、ホワイトカラーは搾取されていることを明らかにいようという本で、内容は悪くないのですが、気になる点も多く、本質はどうなんだろう?と考えてしまったりするので、今週はこれを自分なりに分解してみたいと思います。
◆ホワイトカラーとは、正社員のオフィスワーカー
ホワイトカラーという言葉は、最近はあまり使われなくなる傾向もあり、「白い色のこと?」と聞く人もいそうな感じなので、一応言葉の定義をしておきましょう。「カラー」はえりの意味であり、白襟、白いYシャツを着ている人、つまりサラリーマンやオフィスワーカーの意味であり、特に今の時代の中では、正社員として働く会社員、オフィスワーカーをさしています。職種としては、企画職、営業職、設計や生産技術、事務職のうち、単なる処理ではなく、企画や判断的な要素を含んだ仕事(会計なら、入力ではなく、決算処理をある程度まで任された人)、会社に所属する有資格者(税理士や設計士など)がそれにあたります。
対になる言葉としては、ブルーカラーがあり、青襟に象徴される作業服を着て、工場のラインで組み立てなどに従事する人、ということになります。
ちなみに日本では工場勤務の設計者や生産技術者、労務管理職なども、作業服を着るのが一般的なので、工場の全員が「ブルーカラー」を来ていることも多いのですが、仕事の内容は、「ホワイトカラー」の人と、「ブルーカラー」の人が混在しています。日本以外の多くの国では、先進国でも途上国でも、大卒や大学院卒の設計者や技術者、事務職は、決して作業服を着ません。階級を表す服を「便利だから、汚れないから」と着るようなことはないし、そもそも工場勤務のホワイトカラーは生産ラインのある建屋には立ち入らないことも多いのです。外から命じるだけ、という感じですね。プライドを持っているわけです。日本の工場ではブルーカラーとホワイトカラーが区別のない外見で働いているのが特徴です。
◆貧困化する理由(1)は、女性差別
本書「貧困化するホワイトカラー」を読んでいくと、結局のところ、ホワイトカラーは搾取が厳しくなっていると主張していて、その主な理由として、「第4章 雇用差別に屈しない」では女性差別の問題、「第5章 阻止されたホワイトカラー・エグゼンプション」では不払い労働について説明し、ここがこの本の核心部分になっています。
女性差別の方は、比較的わかりやすい論理展開なので、先に整理していまいましょう。
女性は以前から男性より職業面で差別を受けてきたということについては、否定する人はいないでしょう。以前は女性は会社でも事務職やお茶くみなど、補助的な仕事にしか就けず、結婚や30代など一定年齢に達すると、公然・暗黙両面から、退職を余儀なくされてきました。
1980年代以降、雇用機会均等法などで男女の差別は禁じられる方向になったものの、コース別採用や派遣社員の多様などによって実質的な差別は歴然と残っていて、さらに昇格・昇進にフォーカスすれば、女性が管理職、特に部長以上の上級マネジメントに付くのは実質的に非常に困難で、女性差別はなくなっていません。
まだ実質的に上級マネジメントや、優秀な男性社員と同じ仕事をしていても、報酬面、処遇面でそのような待遇を得ていないことも多く、こういう女性に対しては「女性なのに、平社員なのに、こんなにがんばっている」などと持ち上げておいて、「だったらそれにふわさしい処遇を」と突っ込むと口を閉じてしまう上司、というような場面も見られます。
その一方で、女性の社会進出は加速している。とすると、女性を働かせた方が、男性より低い処遇で同じかそれ以上の仕事をさせることができる、ということになり、女性の社会進出、イコールホワイトカラーの搾取強化(貧困化)という図式になっていると指摘しています。これはわかりやすい話です。
もちろん、反論も聞こえてきます。女性を雇うと、結婚や出産などで仕事を抜け、管理にムダな金がかかるのだから、そのぶん安く働いてもらうのはやむを得ない、など。これにはいろいろな観点からの反論はあるのですが、ここではひとまず「同一労働・同一賃金」の原則が当然であり、その原則に反しているのは間違いない、というは反論で答えておきましょう。つまり会社側の理屈は、女性差別を正当化するためのヘリクツに過ぎない、ということです。
◆貧困化する理由(2)は、不払い労働
第5章で説明している「ホワイトカラー・エグゼンプション」こそ、この本の核心部分であり、要するに、「不払い残業が横行して、ホワイトカラーは働いた分を受け取っておらず、収入のために過労になり、疲弊している」という話になります。
で、この話をもっと掘り下げてみましょう。
「不払い残業」にはさまざまな形があるのですが、そのひとつが「社内外の自主活動」という名の残業です。代表例が工場内で行われるているQC活動や組織横断型の改革改善活動で、これらは実質的に業務命令による労働なのに、建前上は「仕事をよくするために、社員が自主的に活動している<クラブ活動のようなもの>」と扱われています。QC活動が定時以降に行われ、残業支払いの対象になっていない例も多く、これらの活動に積極参加(追われた)あげく、突然死したトヨタ社員の例を挙げて、こういった私が「労災による過労死」と認定されるためには、QC活動が「自主参加の活動」ではなく「業務命令による不払い残業」と認定されるかどうかにかかっていると、著者は説明しています(認めさせるのは困難な場合がある)。
最近の不況下で多くの企業で行われている「残業規制」も、単純に「残業をしないで帰れ」ではなく、「これ以上は残業代を払わないので、無理なら持ち帰ってやってね」というメッセージになっていることもあるでしょう。
ここまでは、僕もまったく同意なのです。
しかし、問題はここからです。
男女同一賃金にせよ、不払い残業にせよ、ホワイトカラーの仕事を労働時間で管理できる、労働時間と成果が比例する、という考え方にたっています。また、ほぼ同じ能力の社員なら、同じ時間で同じ成果が上げられるという前提に立っているわけです。
実際、本書では
「ホワイトカラーの場合でも、残量(勤務時間)の量は、同じ仕事をしている労働者の間では大して変わらないと考えてよい。」
「だとするとだらだら残業するものの方が効率的に仕事をするものの方がより多くの報酬を得るという例は問題にするほど多いとはいえない」
「年功賃金においても「功」の部分では査定が影響するので、非効率な働き方が特をすることは長期的には考えられない」(p.185)
と書いています。
しかしこの前提が、少なくとも今の時代の中では、間違っているのではないかと思えます。同じぐらいの職歴、年齢、学歴、能力であっても、やり方によって成果が違うことは珍しくなく、その差も、10%というような違いではなく、倍とか、ゼロと10とか、そういう差になることがしばしばおこる、ということです。
僕の友人で(株)プロジェクトプロデュースの「のもやん」こと野元義久さんが自社のメルマガに書いている例を引用してみます。
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◆ケース1: 情報システム開発会社
「業種別」でなく「利用目的別」で区分する。
これまで、営業マネジャーは「業種別」で区分していました。しかし、私たちが高業績メンバーに聞いてみると、彼らは「利用目的別」で営業先を区分していたのです。しかも、この考え方なら「8割」の確率で受注出来る、と自信を持っていました。驚くのは、「業種別」の指導に忠実に動いていたメンバーが「2割の受注確率に満たなかった」という事実です。
「利用目的別」に商談を発掘しにいけば、適した事例紹介も出来るし、提案書も使いまわせる、そして受注確度や見込みの受注額も想定がつく、という明快な論理でした。
(どんな利用目的だったか、・・が書けないのが残念ですが)
営業マネジャーが高業績メンバーを良く観ることで売れ筋のヒントを発見した
ケースです。
※プロジェクトプロデュースLETTER/第十四号/【事例】営業対象を捨てさせる
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この例では、営業社員は「マネジャーに従う」人と「従わずに工夫する」人に分かれたものの、どちらも同じ会社の平社員ですから、基礎能力はほぼ同じと考えられます。
しかし自分で工夫している社員とそうでない社員の違いは、4倍の差になっている。もちろん、工夫している社員が、そうでない社員より4倍長時間働いているわけはありません。正社員で働く以上、そんな時間差は、あり得ない。
僕自身もこういう実例をたくさん見ているし、今企業の経営者が望んでいる社員の働き方というのは、このような「工夫したり、やり方を開発することで、質や量を大幅に上げる」ことのできる人材です。
本書の著者の森岡孝二が指摘している、「ホワイトカラーの場合でも、残量(勤務時間)の量は、同じ仕事をしている労働者の間では大して変わらないと考えてよい。」という前提が完全に崩れているわけです。
工夫をしている社員は、本来はもっと報酬がもらえる社員ではないのかという議論もあるでしょうが、これも働き方としては、望ましくないでしょう。営業職なら売上や契約に応じて出来高の報酬をもらえば、4倍の報酬になるでしょうが、これは会社も社員も望んでいません。むしろ、どちらも望んでいるのは、4倍の社員のノウハウを残りの社員に展開して、全体を引き上げ、可能なら全体の報酬水準を引き上げることであり、ほかの社員がよいノウハウを発見したら、教えてもらって自分の能力を引き上げることでしょう。
著者が言うように、ホワイトカラーは時間あたりの生産性の個人差がなく、ほぼ同じで、時間管理ができるという主張が、すでに仕事の実態を反映していない、ということがわかります。
このような、仕事の実態や経営者がホワイトカラー労働者に望むことを前提にすると、裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプションのような、「成果を出せば、働く時間は自由でいい」という方法が妥当だと言うことになります。
もちろん、この方法が有効なのは、時間によらずに働ける人だけです。たとえばホテルのフロントやコンシェルジュのように、そこにいることで接客機会を捉える、というような仕事の場合は、時間管理が妥当です。しかし、ホワイトカラーの中には、時間管理が有効ではない仕事もある、ということです。
◆野放しではいけない
とはいえ、ことはそう簡単ではありません。
経営者やマネジャーが、上記のような例を挙げて、一方的に4倍の生産性向上だって可能だといいだし、できないのは工夫が足りないからで、時間は自由にしてやるから、がんばれ、というなら、いくらでも厳しい目標設定をすることができ、労働者は過酷になります。
人間にとって、時間は万人に共通で有限の資源ですから、やはり時間で何かしらの管理を行うことは、どうしても必要でしょう。しかし、従来のように、単純に時間管理を厳密にしてそれに比例して支払うというのは、今の仕事の実態とは合わないのです。
報酬は定額に近づけ(時間管理をはずし)、労務管理としては一定の勤務時間、労働時間に収まるかを確認して、労働と報酬のバランスが崩れないようにする。こういう管理になるべきではないかと思います(現在の裁量労働制のしくみ)。
それでも、実際の運用はなかなか困難で、注意深くチェック機能をつくらないと、バランスが崩れて過重労働になったり、逆にモラルハザードが起きたりします。時間管理の方が楽ちんではあるのですが、そこに「先祖返り」すべきという著者の考えもまた、思考停止だと思います。
難しくややこしい時代になりました。
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