(by paco)455僕たちは、加速したいのか、減速したいのか

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(by paco)日本は、中国にGDPの規模で抜かれたとか、まだ今年は大丈夫とか言っていますが、まあ、今年どうであれ、抜かれることは間違いありません。と思ったら、韓国にも抜かれるという記事が複数の雑誌に特集されているのを見て、あ?やっぱり、というような印象です。

ホンダがヒュンダイに米国市場で抜かれているとか、エレクトロニクス分野ではLGやサムスンに抜かれているとか。ちょっと前までは「亀山メイド」がブランドになっていたわけですが、それも風前のともしびで、名実ともにトップから滑り落ちようとしているのでしょう。

「そんなことじゃダメだ、もっとがんばらないと。日本にはまだまだポテンシャルがあるし、そうしないと貧困の問題も解決できない」というようにハッパをかける人もいますが、その一方で、「笛吹けど踊らず」で、何を言われてもいまさら火が着きそうにない焼けぼっくいになっているような日本人でもあります。

日本人は、僕たちは、もっとがんばるべきなのでしょうか、それとも、減速したほうがいいのでしょうか。

もっとがんばれる、技術も資本もある、ということはできるのですが、本当にそうなのか、そのところを考えてみたいと思います。

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もっとできるはず、これではダメになってしまうという人の意見はとてもよくわかるし、「つまり日本人はユデガエルなのだ」という説明は、すでに10年以上繰り返されてきたので、いまさらあまり新鮮みはありません。

日本がユデガエル状態であることはたぶん疑う余地がないと思うのですが、少なくとも今までのところ、ほどよいぬるま湯で、これはこれで気持ちがいい。このまま行くと本当に「ゆだって」ではなく、「煮えて」しまうのかも知れませんが、バブル崩壊後、20年ちかくたっても相変わらずユデガエルなら、ゆでられているのもまあ悪くないのではないかという気分が広がっているのかも知れません。

実際、日本が得意だと言われてきた、エレクトロニクスや自動車、環境技術など、いずれもすでに昔日の面影はありません。まだいくつかの分野では多少の優位性はあるものの、残り火のようなもので、そこから再度火が大きく燃えるのかと言えば、このままではほとんど期待できないでしょう。

その結果として、実際に困っている人たちもたくさん出てきていて、雇用は非正規に移行し、生活ができるかできないか、ぎりぎりの人が増えているのも事実で、確かにこのまま行けば本当に「煮えて」しまうというのはわからないではありません。

その一方で、新しい努力をしている人たちもいます。

社会的起業家と言われる新しいタイプの起業が少なからず起こっているし、だめだめと言われつつも、農業や林業で生活ができるようになっている「成功者」も登場しています。とはいえ、その成功はまだまだ小さく、また成長のポテンシャルの小さいために、これが伸びれば日本は新たな成長軌道に乗れるとはとてもいえません。

僕たちはどこに行こうとしているのでしょうか?

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「もっとできるはずなんだから、がんばって変えて行かなければ」という人の意見を聞いていると、「そうだよな」と思う反面、「でも、そんなにがんばって何になるんだろう?」という疑問が湧いてくるのを止めることができません。

経済成長を目指して、日本はかなりがんばってきました。産業も、国のインフラも、民主政治も、それなりに成果を上げられたと思います。獲得できたことも多かった。でも、同時に失ったものも多いことを、誰もが気づいていて、「がんばっても、失うものも多いよね」ということをみんなが知ってしまったのが今の時代だと思います。

失ったもの。いろいろあります。

たとえば、雇用の安定。今は大企業の正社員であっても、その仕事をこれからずっと続けていけるかどうか、不安を感じない人はほとんどいない時代です。まして、中堅企業の社員や、非正規雇用になると、不安に押しつぶされそうになりながら、何とか深く考えないようにしながらやっている、という人がぐっと増えてくるのではないでしょうか。

仕事の質についても言えます。これから自分が望むような質の仕事を続けられるかどうかについても、たぶん大丈夫と言える自信が持てなくなってしまった。昔もそうだったのだと思いますが、少なくとも、気持ちだけは自信が持てるような仕掛けが機能していました。

家族の関係、住まい、環境、食べ物。身の回りにある多くのものが、よくなっていくことがないような印象を持っている。

特に重要なのは、経済成長や国の発展と、「暮らしがよくなる」ことが比例しないばかりか、反比例しているのではないかという疑いがあり、むしろそれが実感になりつつあるのが現状なのです。

暮らしが悪くなりつつあるというのは気持ちを委縮させます。しかしもっと重要なのは、経済や国が発展しても、発展しなくても、いずれにせよ、暮らしはよくならないというように感じられることです。発展しても暮らしはよくならない。発展しなくても、よくならない。結局、何をやってもダメ。という感覚が広まっている、というように感じられます。

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その中で、意外に行けるかも、と感じられることが小さく見え始めています。

そのひとつが例にあげた「社会的起業」とか、「農業での小さな成功」です。あるいは、コスプレやコミック、アニメなど、オタク趣味、腐女子(厳密にいうと、ボーイズラブコミック=少年同性愛を愛好する女子)趣味的な世界に生きることも、それに当たるのではないかと思います。

あまり大それた「ドリーム」を描かず、手に届くぐらいの、小さくてそれなりに密度の濃い生活や仕事の充実を図る。他者を押しのけて成功するのではなく、他者を尊重しながら、軌道に乗せる。ガンガン発展すると、質の低下が怖いから、なるべく小さく伸ばしつつ、持続可能性や中身の充実を図る。

たとえば、趣味の世界でも、一気にその分野の「上がり」的なレベルに到達しないように、コントロールする、というようなことを、あなたもやっているのではないでしょうか。

自転車が趣味なら、いきなりカーボンの自転車を買ったりしない。あえて安くて思い自転車から始めて、1年ごととか、2年ごととか、経済力よりあえて少しゆっくり目にステップアップして、じょじょに高性能な自転車にしていく。どんどん深めてしまうと、行き着くところまで行き着いて、飽きてしまうから。

趣味のものを買うときも、あえて新品を買わずに、中古品を買う。中古を中心に買っておくと、本命のときだけは新品で買う楽しみがある。価格的に中古しか買えないと言うことはなくても無理をしないで中古品を買っていき、直しながらとか、オークションで安く落とす楽しみも感じながら進めていく。

このような価値観の中では、たとえば仕事も、「この会社に入社して、この仕事に就けば、もう安泰」というような「上がり」にはなるべくならないように注意する。逆に不満があるぐらいの方が、かえって安心。

こういうマインドでいることが、「発展してもダメ、発展しなくてもダメ」という、天国も地獄も見てしまった今の日本人が到達した、21世紀的境地なのではないかという気がします。そしてこの境地について理解がある人は、少なくとも単純な経済発展を買ったりしないし、実際、僕自身「果たして経済発展が今選ぶ道なのか」という点について、懐疑的です。

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こういう話に共感できる人はいいとして、もしあなたがこの話に懐疑的なら、たとえばこんなニュースをどう読み取るかを考えてみてください。

「インドの自動車販売台数が年間300万台に迫っている」
「中国の自動車販売台数・生産台数はともには1000万台である」
「インドネシアは経済発展中で、2050年にならずに日本のGDPを追い抜く」

自動車の生産・販売台数のニュースは、確かにその国の「発展」の象徴で、「うらやましい」と感じるようなことなのですが、実際にはどうでしょうか。「そんなにクルマが増えても、いい社会になるとは限らないのになあ」と思いませんか?

なぜいい社会にならないのか? 交通渋滞はひどくなるし、渋滞緩和のために道路を作り続けなければならないし、そのぶんの税金が高くなり、さらに事故が増えて悲しむ人が増える。大気汚染もひどくなって、ぜんそくに苦しむ人も増える。くるまってそんなにいいものじゃないのにな。だって、実際自分は今クルマを持っていないし、必要なときにタクシーに乗れれば十分。そんな感じがしませんか? もちろん、クルマがあって悪いというほどではないにしても。

インドネシアが経済発展して日本を抜いたとしても、それでインドネシアの住民が幸せになれるかどうかはわからないよな、日本人が必ずしも幸せにならなかったように。そう感じるわけです。

そんな「懐疑」が沸く中で、では僕たちにとっての「発展」とはなんなのかと考えると、「社会的起業」だったり、「小さな農業」だったり、オタクな趣味に生きることだったり、というように、ほどほどの成功をあえてゆっくり勝ち取ることだという目的感も、理解できるのではないでしょうか。

もしそうだとしたら、その行動を取っている日本人は、世界の誰もがやってこなかった初めての道を切り開きつつある、非常に先端的な創造的な民族ということになります。実際、僕は、この「停滞感ある」日本社会の中に、ポスト・高度資本主義社会の萌芽が見えると感じています。

もちろん日本社会は一様ではないので、全体としてどう動いていくのかは、まだまだわかりません。しかし、今僕たちが望んでいるものは、経済発展や国の成長ではなさそうだということも、また確かです。では成長に変わって何が目的なのか、まだまだ見えていないのですが、少しずつ社会の表に出てきつつあるのではないかというのが、今回のコミトンでした。

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