(by paco)whatセミナーは先週3セットをすべて終了しました。来年にもつなげることができそうな手応えを感じつつ終了することができて、僕としても満足しています。
今週は、whatセミナーのねらいやこれまでの僕の活動との関係について、整理してみようと思います。
今回のwhatセミナーは、僕が主宰するセミナーとしては久しぶりで、たぶん5年ぶりぐらいです。ライフデザインや論理思考のセミナーをやってきたのですが、なぜやめたのかといえば、というか、今回とどこが違うのかというと、今回は僕のセミナーとしてはかなり徹底して「知識のteaching」を重視した点に違いがあります。
グロービスのクリシンにしても、僕が企業に提供している研修にしても、主宰してきたセミナーにしても、基本的なスタンスは、「講師は学びの機会を提供し、受講者が主体的に考え、学び取る」ことでした。しかし、この場合の「学び取る」ものは、考える方法であり、やり方=ノウハウだったので、有効でした。論理思考の力そのものはつけてもらうことができたと思います。
しかしそれでものごとがよく考えられるようになったかというと、それが必ずしもそのようには見えない。実際、クリシンのOB/OGに受講後数か月して「クリシンを使ってますか?」と聞くと、「いや--使えてませんね」と答えることが多い。なぜ定着しないのか、なぜクリティカルに考えることが習慣にならないのか、ずいぶん考えてきました。クリシンが使えていないメカニズムはどのようなものなのか。いろいろな仮説を立ててみました。その中で、ひとつ思い至ったのが、「知識量が足りないのではないか?」という点です。論理思考を適用するには、適用する分野に対する知識がある程度必要です。マーケティングをしっかり考えるには自分が扱っている商品のマーケットについての知識が必要だし、商品そのものについての知識も必要です。でも、自分がマーケティングについてきちんと考えることが求められているなら、仕事上知識を持たざるを得ないし、知識だけでは答えが出ないから、クリシンで考える力を付けようとするわけです。
しかし、マーケティングについての知識量が足りないと、やはりクリシンを使いこなすことはできません。ある程度経験を積み、経験値から来る知識がある人が、「ちゃんと考えよ」という指示を受けていれば、クリシンで学んだことを適用して使いこなすことができる。しかし、こういう人は意外に限られている。
こう考えてみると、きちんとものを考えるには、実は3つの要件が揃う必要があるのではないかという仮説を立てたのです。
ひとつは、その分野についての「知識の絶対量」。次にその分野について「きちんと考えるべき」というメッセージ。というより、その分野にはまだ考えつくされていないことがいろいろあり、情報を単純に頭に入れればいいと言うわけではないという了解。これはその分野について考えてもいいのだという了承でもあります。その上で、どのように考えればいいかというクリシン(=論理思考)の能力が加わって、はじめてものをよく考えることができるようになるのだということです。
このように考えるきっかけになったのは、次のような経験がありました。僕は研修で新聞記事をよく使うのですが、書かれている内容について、「クリティカルに吟味してほしい」という趣旨の課題を出しても、多くの人が考えられないのです。なぜ考えようとしないのかと観察してみると、どうやら、新聞記事に対する「信頼」がネックになっていることに気がつきました。新聞記事は正しいことが書かれているので、疑いの余地はない、少なくとも素人には安易に疑うような余地はないという信頼があり、その常識が論理的な思考の対象として考えない、というマインドセットにつながり、記事を読んでも疑うことなく、そのまま受け入れてしまうという状況になっているようでした。そのため、「クリティカルに吟味してほしい」と言われても、記事の内容を疑い、正しいのかどうかを考えることができなかったのです。
と同時に、知識も不足していました。たとえば新聞記事に(日本の)「経済活性化」という言葉があったときに、「経済が活性化するとはどういうことか?」という意味を捉えることができないので、「本当に経済は活性化するのか?」と考えることができません。
さて、あなたは「経済活性化」はどのようなことだと考えればいいと思いますか? うまく説明できますか?
一般的に言えば、経済が活性化するとは、GDPが上がることと考えられるでしょう。何かを行うことで経済が活性化するとしたら、GDPが0.5%押し上げられるというような効果が期待できる、ということだと考えられます。
別の解釈もあるでしょう。平均株価が上がるとか、企業の業績がよくなるとか、雇用が好転するとか、という解釈です。しかし、これらは実は関連していて、企業の業績が改善すると株価が上がり、株が上がるぐらい業績がよければ、働き手が求められて雇用も改善する、という関連です。さらに、これが上場企業に留まらずに、広く産業界の傾向になれば、GDPの向上につながるでしょう。
このように、経済活性化という言葉の中にいくつかの要素が含まれていること、その要素は単独のものではなく、関連していることが多く、関連はどのようなつながりになっているのかということをわかっている……これが「知識」です。
知識が少ないと、記事の内容を疑っていいのだとわかっていても、どのようにどの点を疑えばいいのかわかりません。結果として、記事内容の正しさを吟味することができなくなります。
ということで、適切に論理思考をするには、対象分野についての知識量と、その分野について深く考えてもいいのだ、考える価値があるのだということについて、了解することが重要になるのです。
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今回のwhatセミナーでは、このふたつを充分にinputすることをめざして内容を考えました。
たとえばwhatセミナー2では、メディアリテラシーを扱いました。このテーマでは、新聞やテレビ、雑誌などの情報が常にバイアスがかかること、バイアスがかかることを防ぐことはできず、読み手がどのようなバイアスがかかっているかを見抜き、修正して、情報の本質に迫る能力が必要なことを具体的に知ってもらいました(知識としてのメディア特性)。
この知識は、受講者にとってはなかなかなじめないものだったようで、セミナーの中でさまざまな記事や番組を扱っていると、「なんでこんな情報しか流れてこないんでしょうね」「もっとちゃんとした情報が流れてくるようにするにはどうしたらいいんでしょうか」という疑問が繰り返しだされました。
僕がこのセミナーで伝えたいことは「ちゃんとした情報が流れてくることは、原理的にありえない」ということです。繰り返しこのことを伝えているにもかかわらず、受講者からは「ちゃんとした情報が提供されるようにするにはどうしたらいいのか」「なぜちゃんとした情報を流さないのか」という問いが繰り返されました。それだけ、「メディアの情報は正しい」「ちゃんとしている」と「思いたい」「思い込んできた」気持ちが強いのだと思います。そしてこの思い込みが、適切な思考をしようという姿勢を阻んでいました。
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whatセミナー3では、現代史の知識を学んでもらいながら、歴史の転換点、"point of no return"(敗戦に至ったのは、どの時点での選択や決断が誤りだったのか)を考えながら知識を吸収する経験をしてもらいました。
実は、多くの人が歴史は過去の事実の羅列であって、固定化された知識をただ記憶するだけのものだと考えています。このことによって歴史を「点検し、吟味する対象」として考えないというマインドセットを生んでいます。
しかし、歴史の解釈は常に変っていて、歴史家や研究者によっても実は歴史に対する見方が違います。このことは、歴史は吟味することができ、その解釈もさまざまあっていい、ということを意味しています。
つまり、歴史は解釈を変えていいものであって、何をどのように理解し、記憶するかも、変更可能なものだという容易にマインドセットを変えることで、論理思考の対象になるもの、しなければならないものなのです。
whatセミナー3では、歴史をさまざまな解釈が許される、思考の対象なのだということを十分理解してもらうことによって、歴史に対する興味と関心、そして知識を窮するモチベーションをあげることができました。歴史をどのように見るかについて自由にしていいのだと思うと、知識があればさまざまな可能性を考えることができることに気づき、もっと多くの知識を得れば、さらに自由に考えられることができるのです。
day1終了後、受講生の多くが自ら進んで書店や図書館にいって、現代史の本を読み始めたことを見ても、知識を学ぶと考える幅が広がり、知的好奇心が満たされることを実感した証拠です。
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whatセミナー1では、概念という名の知識を吸収してもらいました。知識には、ファクト(=事実)と、概念の両方があります。whatセミナー1で扱った社会学のテーマでいえば、「失業したとたんに、誰からも支援してもらえない状態になる」という事実と、そういう社会を総称して「社会の包摂性が落ちている」という概念を学びました。
包摂性とか、「大きな社会⇔小さな社会」といった概念は、どのようなものなのか。類似の概念とどこが違うのか。「へたれ保守」とはどのような人たちで、なぜ「へたれ」なのか。価値が相対化するとはどういうことで、なぜ価値を固定化することができない時代になったのか。抽象的すぎてつかめないような概念についてしっかり考え、違いをつかむ力そのものが社会を見るための知識(=ツール)であり、それらの知識を使うことで社会について的確に理解し、語ることができるということを学びました。知識には、Factと概念の両面がありますが、受講者は概念を的確に捉えたり、概念間の相違をとらえる力が不足しているために、社会を見る目を持てずにいたのだと思います。概念を理解し、適切に使う能力を、僕は大学での哲学の勉強で学びました。哲学のこのような基礎力は、学んだ当時はどのように役に立つのか、ピンと来ていなかったのですが、こうして社会の複雑さを捉えるには重要な能力であり、僕が多くの事象をきちんと位置づけられることの、下支えをしていたことに改めて気がつきました。
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ということで、知識のinputは、考える力を発揮するために重要な要件になるのではないかという僕の仮説は、当たっているのではないかと次第に確信に変わりつつあります。
来年に向けて、さらにwhatセミナーをさまざまなテーマで続けていこうと思っているのですが、ねらいは知識の量を上げることで、考える力を発揮する場を拡張し、ものごとを確実に捉えると同時に、大きなフレームで考えられる人を増やしていくことです。自分の思考力の翼を思いきり広げてはばたくために、「浮力」としての知識量を獲得しに、ぜひおいでください。
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