(by paco)先週水曜日に、what?セミナー3「現代史」のday1をやりました。今回はかんき出版のご厚意で、セミナールームをお借りできたので、初の都心での開催です。その制もあって、人数もぐっと増えて、13名集まりました。
day1は先週、「コミトン433日本現代史のアウトラインをつかむ」に書いた内容に従って、1968年の明治維新を「近代」の起点に、20世紀からの現代(前半)の大きなストーリーをお話ししました。特にキーになるのが、
●1905年 日露戦争勝利→現代の始まり
●1918年 第一次大戦勝利→大日本帝国、図に乗る
●1931年 満州事変→大恐慌を対外進出で乗り切ろうとする
○1937年 支那事変(日中戦争)→中国大陸本土へ進出しようとして挫折の道へ
●1941年 日中戦争を解決するために、米国とのさらに大きな戦争へ
●1945年 敗戦と占領
○1952年 独立
という流れを話しました。1905年と1945年は「入口と出口」として、その間に、●のついた1918年、1931年、1941年が重要、ということで、この年号だけは頭に入れ、そこを軸に、歴史が動くダイナミズムとメカニズム(因果関係)を考えよう、ということをお話しした3時間でした。
今週木曜日のday2は、この期間の中でも特に、日華事変(日中戦争)から、真珠湾攻撃に至る、4年間に焦点を当ててメカニズムを明らかにするところから説き起こそうと思います。
◆1937年、長城線を越えて中国本土へ戦線拡大
この時代の大国の行動パターンである「帝国主義」は、獲得した版図を守るために、その周辺に緩衝地帯を儲けるという名目で、拡大を続けるというものでした。戦争は、常に「自己防衛、自分たちの安全を守るため」という名目で行われます。侵略を大義名分にする戦争は、近代以降はまず見られないことは、はっきりと理解しておく必要があります。為政者は、対外進出のための戦争であっても、必ず「自衛のための戦争」というものなのです。
日本の1937年の場合、6年前の満州事変後につくった満州帝国の利権を「守る」ことが大義名分になりました。1億の金、100万の血を流して獲得した満州は、何が何でも守るのだという主張が国内メディアの論調になっていました。1億のカネは、もともと日本が満州の利権を獲得するきっかけになった日露戦争の戦費、100万の血はそれ以降の戦病死者、というような数字ですが、いずれもスローガンですから、正確なものではありません。また満州と隣接する内蒙古を合わせて「満蒙」という言い方もよくされました。いわゆる「満蒙は生命線」論(日本は満州と蒙古を死守してこそ、生き残れる)です。
改めて確認しておきますが、満州も蒙古も、中国の一部です。日本の国土ではありません。人の国土の土地を勝手に「それが自分たちの生命線なのだから、何が何でも守る」という言い回しそのものが、どれほど不遜でまわりを考えていないか、ということについては、はっきり自覚しておきましょう。そしてそれより遙か以前の1910年頃には、日本は朝鮮半島と台湾を領有しており、日本本土を「守る」なら、朝鮮と台湾という外延部だけでも十分だったという見方もできます。朝鮮と台湾は自分のものしたので、その西隣の満州も自分のものにして、さらにそこを守るために、中国本土に攻め入るのだというロジックが、1930年代の日本の政治思想だったのです。
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ちなみに、もし今の時代に当てはめるなら、スパコンに代表される技術立国、世界第二位の経済大国、という概念がそれに当たるかもしれません。
日本はすでにポストモダンの時代に入って久しく、経済もソフト化、高付加価値化しています。科学技術は、大量生産の時代のKFSかもしれませんが、ポストモダン(後期工業社会)にふさわしいものなのか。日本に対するあこがれを生む対象も、家電製品よりはアニメやコミック、J-POPになりつつ可能性が高く、今の時代の中での「科学技術」が「満蒙」に当たらないかどうか、よく比較対照してみると思い白いと思います。
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ともあれ、満州事変後に満州を獲得した日本は、満州を守ることが国是になり、満州駐留の日本軍(関東軍)は増強を続けていきます。
ここで、満州というのはどういう土地なのか、見ておきましょう。地図を見ると、今、満州は中華人民共和国の東北部にある諸省をさします。東は朝鮮半島、西は外蒙古(モンゴル)、南は渤海、南西に中国の首都・北京。北京の北には万里の長城があり、これが中国本土(漢民族の土地)と、きたの蛮族の土地を区分していました。北京から東に長城をたどり、渤海に至る途中にあるのが山海関で、これが満州と中国との境界になります。関東軍の「関東」とは、日本の関東地方ではなく、この山海関の東を指す関東であり、満州をさす別称なのでした。
20世紀初頭、満州を日本が獲得していくわけですが、日中戦争との関係で見るときに、満州と中国の違いは重要です。ちょっと細かくなりますが、ざっくり見ておきましょう。中国史になります。
1912年に、中国では辛亥革命が起こって、清朝が滅亡します。ちなみに清朝のスタートは1640年代、日本で言えば江戸時代初期の元禄時代あたりです。
中国はいろいろな王朝が交代してきた国ですが、漢民族がつくった王朝は少なく、この清朝も征服王朝です。発祥の地は満州。朝鮮半島北部から満州あたりの部族が力を持ち、やがて山海関を越えて北京に王朝をつくり、歴代中国王朝でも最大版図と言うべき広大な領域を治めました。それから250年。20世紀になると王朝も疲弊し、ついに20世紀に入って10年ぐらいすると(今から100年ぐらい前)、市民革命が起きて清朝は滅亡します。このときの最後の皇帝「溥儀」を、のちに日本軍が担ぎ出して満州帝国皇帝に据えるわけで、映画「ラストエンペラー」です。
もともと満州出身の王朝ですから、満州帝国の皇帝になることは溥儀にとっても、清朝滅亡後、20年の野望でした。それを日本軍が支えたわけですね。
で、20世紀に初頭の満州は、どういう場所だったのかというと、いわば空白地帯でした。清朝はもともとの発祥の地である満州に、漢民族をなるべく入れないようにしていました。漢民族は増殖力がつよいので、漢族が入ると父祖の地・満州が変貌してしまうと考えたようです。そのため、20世紀初頭の満州は人口密度も少なく、農耕もまだ十分には広がっていなくて(もともと満州族は半遊牧民)、そこに北からロシアが新入してシベリア鉄道を造ったりしていたのですが、これは日露戦争もあって、ロシアの進出は軽微でした。
満州は、中国人(漢族)から見れば、長城の向こうの蛮族の地ではあるものの、以前から清朝の版図。ロシアの新入を阻んだと思ったら、日本人がやってきた。忌々しい。でも、中国は長城より南、という意識もある。そんな、内と外の中間的な場所だったようです。また漢族の進出も少なく、開発も進んでいなかったので、日本が「奪って」も、中国人の国民感情はそれほどは厳しくなかった。どこか、「こそ泥日本が持っていくなら持って行け、そのうち取り替えしてやる」ぐらいの感じだったのでしょう。
これに対して、長城線の南、中国本土は、まさに「中国人の土地」なので、国民感情が違います。中国はたびたび異民族王朝に支配されてきたのですが、その異民族王朝を次第に「中国化」して取り込んでしまい、骨抜きにする不思議な支配関係を持ってきた国です。20世紀初頭の中国人にとって、やはり頂上を越えて日本が南に進出してくるかどうかは、重要な関心事だった。
実は、それ以前に、長城の南も一部植民地化されていました。香港とマカオは遙か以前にイギリスが持って行ったし、上海も列強が区分所有していました(日本も含めて)。北京周辺にも鉄道や鉱山など、イギリスの利権が各地にあったようです。しかし、「一部分を貸してやっている」という感情はあったのだと思います。
これが、20世紀初頭から1937年までの中国人の感覚です。
◆l1937年、支那事変で状況が変わる
1937年、日本はまたまた関東軍の謀略で先端を開き、長城を越えて軍事行動に出ます。満州と中華民国国境付近で小競り合いが続いていたことや、中国政府が日本の利権を認めない(あたりまえですが)など、思うようにいかないフラストレーションを解消しようとしたのでしょう。
いったんは停戦が成立するものの、小競り合いかが先端が広がり、上海、南京と戦線が広がって、結局、1年後には中国全土のあちこちで日本と中国が戦闘状態になりました。日本政府は、この戦闘を早期収拾すべく、あれこれ戦略を立て、手を打つのですが、結局は戦争は広がる一方になります。
この戦争が泥沼化するに連れて、日本は国力を消耗させていき、国内は戦費調達のために、国家総動員状態になって、経済統制が強まっていくし、戦争に反対する勢力を封じるために、言論統制を強めていきます。
どうやって中国との戦争を終結させるかが、1938?40年の大きなテーマになるのですが、これがなかなかできない。
理由はふたつあります。
ひとつは、日本のコントロール不能が際立ってきたこと。もともと統帥権問題から始まって、軍のコントロールが効かない行政構造だった上に、日中戦争が1年、2年と続くと、日本の消耗も激しくなり、停戦するには消耗に見合った戦果が無くては、メンツの面でも実質の面でも納得できなくなる。戦争を続ければ続けるほど、やめるにやめられない状況になってくるわけです。
ふたつ目は、中国が戦争をやめなかったこと。中国が日中戦争をどのような戦略で戦ったのか、あまり明解な資料を読んだことがないのですが、日本の弱点を知り抜いて戦っていたと思われます。日本は少資源国で、人口も中国よりずっと少ない。つまり、長期間、広範囲の戦いを続けるのは難しい。これを逆手にとって、小さくちょっかいを出しては日本軍をおびき寄せ、戦線を拡大して補給線を伸ばし、消耗戦に持ち込もうとしていたのでしょう。日本では、戦線の拡大を「逃げる中国兵を追って、中国全土を支配下に」と喜んでいたわけですが、まんまと罠にはまっていった可能性があります。
◆1941年、日中戦争を解決するために対米戦争に踏み込む
日中戦争が膠着すると、その原因は米国英国が中国を支援しているためだと考え、米英を敵に回り、かわりに飛ぶ鳥を落とす勢いのナチスドイツと手を結ぶ戦略を考え始めます。
その一方で、日本は戦争に必要な鉄と石油を米国に頼り切っていました。特に海軍は、米国からの資源がなければ、軍艦も造れないし、造った艦船の燃料さえないという状況。もちろん海軍力も劣勢です。
米国は、遅れてきた覇権国として中国の利権の分け前を要求していましたが、もちろん日本は自力で獲得した利権を手放そうとはしません。日露戦争ごろの日本人は、冷徹な合理主義者だったので、列強の要求がどれほど理不尽でも、力関係上要求をのまないと、無謀な争いをすることになり国を滅ぼすと考え、悔し涙を逃しながらも、妥協する冷静さがありました。1940年頃になると日本人はすっかり合理精神や歴史的なポジションニングを冷徹に見る目を失い、「オレたちが勝ち取ったものはオレたちのもの」と独善的になっていきます。冷徹な人たちももちろんいたのですが、観念的で独善に陥りやすい人たちが軍のグループをつくり、2.26事件のようなテロを容認したので、冷徹な判断は次第に打ち出しにくくなっていきました。
対米関係が悪くなると、米国からの資源をもらわないとやっていけないのだから、妥協すべきという意見と、米国に頼らなくて済むように、東南アジアの資源地帯に進出すべきという意見に割れていきます。結局後者が勝利して、日本は対米戦を前に南進して、インドネシアの鉄鉱石と石油を確保する戦略に出ます。これが米国英国を決定的に刺激して、41年暮れの対米開戦に至るのです。
このにほんの二つの国論を冷徹に見ていたのが、イギリス首相チャーチルです。チャーチルは、ナチスとの戦いのために米国を引き込みたかったのですが、米国は孤立主義が国是のため、参戦してくれませんでした。というより、チャーチルとルーズベルト米大統領の間では早くから合意ができていたようですが、米国の世論が納得しなかった。納得させるために何かが必要だった。その何かが、日本の対米宣戦布告、それも派手な宣戦布告があれば、ベストでした。
そこで、チャーチルは米国の国務長官(外務大臣)ハルと図って、「ハル・ノート」として日本が受け入れがたい要求を突きつけ、両論に割れる日本を怒らせて、対米戦に追いやった。ありがたいことに日本は真珠湾を攻撃してくれたので(しかも、宣戦布告の前に)、ルーズベルト米大統領は「卑怯な国、日本」とわざとらしく怒り、米国民もそれまでの孤立主義をあっさり捨てて、対米戦、そして同時にそれは、三国同盟によって、対独占の両面作戦に突入していったのです。
という流れなのですが、大きくつかまなければならないことは、
(1)日本は中国の巧妙な戦略で、中国大陸から抜けられなくなっていた
(2)対中戦争を解決するために、対米英開戦が浮上してきた
(3)米国に資源を頼っていたので、資源のために南進して獲得しようとした
(4)チャーチルは、日本が対米開戦すれば、米国を対独戦に引き込めると計算した
(5)チャーチルの対独戦に米国を参加させるために、日本はまんまと利用された
日本が、中国大陸の利権にこだわり、出口戦略を打ち出せないうちに、ナチスに勝ちたいチャーチルにいいようにやられてしまった、と言うのが太平洋戦争の本質です。つまり、日本は本来、中国と戦争していたのであって、米英と戦争する必然性はなかった。だから日本の指導者は、本当に対米英戦争になるとは最後まで考えていなかった(特に、外相松岡洋右)。チャーチルとルーズベルトの巧妙な戦略につけ込まれた。
でもつけ込まれるのは、つけ込まれるほうが悪い。という認識はしっかり持つ必要があります。スキがあれば、つけ込まれる。隙がないように戦略を立て、実行できないぐらいなら、帝国主義などを行う資格はない、ということです。日本は半人前だったのです。
当時の日本の指導者は、冷徹さに欠けて判断が甘いところがあるし、政治のしくみも欠陥があり、分析力が足りず、独善に陥りました。しかし、今の政治家より愚かかというと、むしろ、がんばって国をリードしようとしたのだと思います。よくやった、と言う面もあるものの、やはり全体としては褒めるわけにはいきません。
特に対米開戦の時期以降は、とんでもなく大規模な戦争になったことに恐れをなしたのか、空威張りばかりに成り、冷徹さを欠いて、空想的な指導になっていきます。本当に冷徹な指導者なら、やはり対米戦に突入すべきではありませんでした。この戦争は、「負けないように戦う」と決めて開戦しただけで、自力で「勝つ戦略」はなかったのです。日中戦争に「勝てない」から、出口戦略として対米戦を構想したのに、対米戦でも「負けない戦略」しか立てられなかった。戦争指導者というのは、こういう情けない戦略でも、大戦争の決断をしてしまうものなのです。退くことは、破滅に進む決断より、ずっと難しい、ということでもあるでしょう。
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