(by paco)433日本現代史のアウトラインをつかむ

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(by paco)今週の水曜日から、whatセミナー3「現代史」が始まります。会場を都心(かんき出版のご厚意により、セミナールームを貸していただいた)に確保できたこともあってか、参加者倍増(といっても、12名)となり、充実してきました。

今週はセミナーの第1回に向けて、現代史を概観するために必要な、最低限の知識をまとめてみます。

歴史ですから、やはり年号から見るのが基本です。日本の現代史を見るときに避けて通れない年号は、以下の6個。これに前後のメルクマールを加えて、8個は覚えたいところ。

◆1968年 明治維新
■1905年 日露戦争
■1921年 ワシントン軍縮条約
■1931年 満州事変
■1937年 日華事変
■1941年 真珠湾攻撃(太平洋戦争開始)
■1945年 敗戦→被占領
◆1952年 日本独立回復

1968年の明治維新は、現代というより、近代史の始まりという位置づけですが、覚えていない人も多いので、一応押さえておきたい年号。1952年の独立回復は、そもそも太平洋戦争の敗戦によって日本が米軍によって占領されていたという事実を知っていればいいのですが、これを確認するための年号になります。

で、日本の現代史を考えるときには、1905年の日露戦争終結から、1945年の太平洋戦争敗戦までの戦争の歴史を押さえることを意味するのですが、これは実は現代史の前半で、現代史というからには、戦後から今年まで60数年間も重要です。これについては、また回を改めるとして、今回の「whatセミナー3」では、現代史の前半を扱うことにします。

では、上記6つの年号を軸に、現代史の基礎知識をおさらいしましょう。

■1905年 日露戦争

日露戦争までの日本は、ほかのアジアやアフリカ地域を同じように、欧米列強の植民地になってしまいそうな危うい国だったのですが、日露戦争にチャレンジし、何とか勝利を収めることに成功したことによって、世界から「これはなかなかやるじゃないか」と認められ、世界の一等国に上り詰めるきっかけになりました。

欧米列強から見れば、ロシアを破ったことによって、日本が本当に軍事、経済ともに欧米列強に並ぶ実力を付けたことを認めざるを得なかったし、アジア・アフリカ諸国から見れば、白人でなくても近代化を果たすことができるのだという希望を感じることができました。その意味で、世界史上で日露戦争が意味するものはとても大きいのです。

一方、国内にはよい面だけでなく、いくつか問題を残すことになるのですが、その後の現代史につながる因果関係として重要な点がふたつあります。

ひとつは、日本が「戦争を成功体験」として理解してしまったこと、もうひとつは「海軍が強くなり、本格的に陸軍海軍が独立した」という点です。

一つ目の成功体験については、多くを語る必要はないでしょう。今を生きるわれわれにとっても、ちょっと前の成功体験はなかなか捨てることができません。予想を上回る成功に、日本人は上から下まで酔ってしまい、これによって判断中止に陥ったことが、のちの転落につながりました。と、定説ではこのように書いてあるのですが、この成功体験がどの程度の大きさだったのかは、十分検証が必要です。あくまで停留としての成功体験という理解に留めておきましょう。

二つ目の、「陸海軍の独立」は、のちのち大きな意味を持ちます。日本は明治憲法で「天皇が軍を統帥する」と規定しました。その上で、天皇の統帥を政府が「補弼する(ほひつ=判断を補佐する)」としたのですが、では誰が補弼するのかについては、解釈が分かれました。軍が補弼するのか。内閣か。さらに軍が陸軍と海軍に分かれたために、軍の党政権が不明確になりました。

日露戦争までは、日本軍の基本は陸軍で、そこに海軍が従属する形でした。しかし日露戦争では陸軍はロシアと互角?優勢の戦いをしつつも、決定的な勝利を収められなかった。一方海軍は日本海海戦で圧倒的な勝利を収めてしまいます。この結果、海軍の発言力が増し、対等に近くなった。そこに、こののち「統帥権問題」が持上がり、軍を誰がコントロールできるのか、という問題に答えが出せなくなってしまいました。軍のコントロールを規定できなかった=明治憲法を改正できなかったことが、大日本帝国滅亡の最大かつ直接の要因になっていくので、この点、よく押さえておいてください。

つまり、日露戦争は、現代日本の飛躍の起点であると同時に、滅亡の根が生まれた起点でもあるのです。


■1921年 ワシントン軍縮条約

日露戦争ののち、第一次大戦に参戦して、日本は戦勝国になります。欧州列強は共倒れになり、アジアの植民地経営に割く余力が無くなったこともあって、日本は赤字経済から黒字経済へと一気に転換して、世界の一等国に躍り出ます。1919年のヴェルサイユ講和会議、国際連盟での常任理事国就任はその象徴であり、この頃の日本は現在の日本よりはるかに国際的な地位も高く、政治力、成長力ともに、飛ぶ鳥を落とす勢いの若々しい国でした。日本は勝ち誇っていたのです。

そこに冷や水を浴びせかけたのが米国で、1921年のワシントン条約で海軍主力艦の制限を認めさせました。英国は第一次大戦で米国の参戦によってようやく勝たせてもらったので、米国の意思を無視できず、やむなく米国に従うことになります。この米国主導の一環で、日露戦争勝利のきっかけになった「日英同盟」も破棄されます。

このワシントン軍縮条約については、のちに大きくふたつの点で影響を与えました。

ひとつは、統帥権の問題、もうひとつは日本の孤立化です。

統帥権問題では、日本は米英に対して7割の海軍力を求めていたのに、6割しか認められなかったことが大きな問題になり、これが統帥権問題に発展しました。条約を結んだ政府(外務大臣)には軍の重大事を決定する権限はない、統帥権を干犯(侵害)しているというのが海軍の主張でした。繰り返しますが、統帥権は天皇にありますが、補弼(補佐)する権限の所在があいまいだったために、海軍、陸軍、政府がそれぞれ補佐権を主張し、お互いに「天皇統帥権を侵害している」と非難し合ったので、国内が分裂してしまったわけです。この分裂をまとめることができず、結局、テロを起こして恐怖を与えることに成功した陸軍が強引にこの権力闘争に勝利して行きます。

二つ目の孤立問題では、日本はそれまで、英国と共に歩むことで近代、現代化を進めてきました。「よき先輩」がいたのです。ここに米国が入り、英国が同盟を破棄することで、「お友だちがいない」状況になりました。激しい国家間競争が起きている時代に、英国という兄貴分を失って戸惑う日本の目の前には、欧州諸国が手放しかけている中国市場がぶら下がっていました。チャンスとばかり手を延ばそうとするのですが、これが危ないワナだったわけです。

実はこの時期に、世界の「兄貴分」の立場も、英国から米国に移動しつつありました。いわゆる、覇権の移動です。19世紀は英国の世紀で、英国は世界を支配し、日の沈まない帝国だったわけですが、第一次大戦で衰退し、米国に依存せざるを得なくなりました。英国の支配層は、米国に覇権委譲を持ちかけ、それと引き替えに第一次大戦で助けてもらったわけです。

ところが米国は国論が二分していました。伝統的には米国は孤立主義で、南北アメリカ大陸のことはオレたちがやるから、ヨーロッパやほかの地域のことには関わらない、お互い口だし話だぜ、というのが国是でした。一方、英国は「世界の覇権をあんたの国で持ってみなよ、儲かるよ」と持ちかけたので、国論が二分してしまいました。この二分は、21世紀の今、またホットなテーマになっています。

二分していた国論が一本化されるのは1941年。それまでは、米国内でも両者の暗闘が続きます。

■1931年 満州事変

英国をはじめとする欧州列強が世界大戦で衰退したので、アジア、特に中国利権が空白になり、日本の目の前にぶら下がっていました。これをいただこうと、陸軍、特に中国在住の関東軍が政府に無断で軍事行動を起こし、満州(中国東北部)を占領したのがこの事件。

当時、日本には、帝国陸軍、帝国海軍のほかに、関東軍という軍隊があり、日露戦争後に獲得した中国東北部の南満州鉄道などの利権を守るために、大連を中心に駐留していました。この軍隊が次第に強力になり、日本政府と明確な意思統一なしに軍事行動に移って、一気に満州を占領したのが満州事変です。

ちなみに「戦争」と呼ばずに「事変」と呼ぶのは、1929年にパリ不戦条約が結ばれ、戦争は条約違反になるため、これは宣戦布告による「戦争」ではなく、偶発的な軍事衝突に過ぎないと言い訳するために、事変と呼ばれました。

この時点では、関東軍は日本国内世論の支持を得られるか、びくびくしながらの軍事行動だったのですが、朝日新聞はじめ、日本のマスコミがこぞってこれを支持したため、陸軍、政府も追認せざるを得なくなりました。

軍事行動が先で、政府が追認するパターンができてしまったのがこの満州事変で、これ以降、戦争が絶え間なく続く1945年の敗戦までが、現代日本の15年戦争と呼ばれています。

■1937年 日華事変

満州占領後、満州帝国として傀儡国家にしてからも、軍部の野望は大きくなり、中国本体との全面戦争に突入するのがこの日華事変(日中戦争)。

この時期になると、日本が進んで戦争を拡大しているというよりは、中国軍が日本をつぶすために戦線拡大に引き込んでいると解釈した方がいいような状況になり、補給線が広がりすぎた日本は次第に国力を日中戦争に取られて疲弊していきます。

引くに引けなくなった中国との戦争を終結させるか。

日露戦争で「不敗神話」をつくってしまっただけに、撤退もできず、前進もできない日本軍。日中戦争を解決する方法として、次第に対米戦が検討されるようになります。ただでさえ戦線拡張しているのに、より大きな戦争をやって決着を付けようとする無茶な発想に、国中が巻き込まれていくわけです。

■1941年 真珠湾攻撃(太平洋戦争開始)

対米戦争は検討されていたものの、本当にやれるか、やって勝てるかは、日本の誰もが自信がありませんでした。

日本は米国とは仲がそれほど悪くなかったし、米国は合理的な国だから、まさか日本と本気で戦争をするとは思っていなかった。

というのも、第二次大戦が始まって2年、米国は英国に頼まれて、またまたヨーロッパ戦線(対ナチス戦争)に参加を求められていた。その中でもし日本とも戦争をすれば、大西洋と太平洋の二正面作戦になり、いくら米国でもそれはやらないだろう。しかも米国は孤立主義の国。南北アメリカ大陸に閉じていようと言っているのに、世界中に戦線を広げるなんてするわけがない。

米国内でも、国論が二分していたわけで、日本は米国が世界に打って出て、覇権を獲得しようとしていることに今ひとつ気がつかなかった。というか、米国自身も、ぎりぎりまで決断がつかなかった。ここで日本は道を誤ることになるのですね。米国はぎりぎりで妥協してくるはずだ、本気で日本とは戦争をせず、日本とは妥協した上で、ヨーロッパ戦争に参戦するだろう……。

が、この判断がミスだった。英国首相チャーチルは、日米開戦をきっかけにして、米国にヨーロッパ戦線に参戦させることを戦略にしていました。チャーチルは米国の国務長官(外務大臣)ハルを操って日本が決してのめない条件を「ハル・ノート」として提示させた。

この結果、日本は戦争やむなしと判断して、真珠湾攻撃に出るわけですが、英国から見ればこれこそが望み。日米が開戦すれば、日独伊三国同盟によってドイツも米国に参戦することになるため、自動的に世界戦争になる。これがチャーチルの戦略でした。

米国を世界覇権の獲得をエサに誘惑し、本格的に舵を切らせたのはチャーチルでした。日本は孤立主義が米国の本質と見ていたので、この方向転換に完全にやられてしまうのです。

■1945年 敗戦→被占領

総力戦と化した戦争は、しかし、やりようによっては日本にも勝機があったようです。しかし結果的には、米国の圧勝に終わり、日本は敗戦国となり、占領(被支配国)となりました。

日本史上初の被支配の7年間を経て、再び日本が独立を回復するのは1952年。このときのサンフランシスコ講和条約体制が、現在も続いています。今の日本は、このときにできた国の形のままなのです。そして今、これからどうなるかが次第に流動的になってきているのが2010年代です。


ということで、駆け足で前期現代の50年間を見てきました。
水曜日のセミナーでは、これをベースに、テキストの内容と照合しながら、現代史の大きなメカニズムを共有しようと思います。

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