(by paco)「what?セミナー2 「メディアリテラシー」」の第3回が終わったので、そのまとめを書きます。
今回は、知恵市場ライターで出席してくれているJINさんが僕の話の内容をまとめてくれたので、それをベースに書きたいと思います。
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JINです。
Day3も学びの多い日でした!
振り返れば、pacoさんの「知恵市場」は、いつも
・本質を突き詰める
・Quality of Life向上に役立てる
ということを念頭に置いて書かれていると思います。
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では、JINさんの3項目のまとめをベースに進めていきましょう。
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■ジャーナリズムの本質は?
ジャーナリズムが国政上保護されている理由は、国民の国政を知る権利の前提となっているからです。そして、国政を知る権利はジャーナリズムが国政をきちんと吟味(Critik)してくれないと十分に確保されません。したがって、ジャーナリズムの本質は、「反権力」の立ち位置にいて、国政を十分に吟味する点にあります。
この「国政の吟味」という本質に立つならば、ジャーナリストは、マスメディアである必要は全くなく、個人であっても構わないし、資格は問われません(資格を問うてしまうと、ジャーナリズムが国家に管理されることになってしまいます)。
この点で、小泉元首相がイラクに1人で行った日本人のジャーナリストに対して、「危険地域に自己責任で行った者は国として保護した」という発言は、知る権利を保障する憲法違反の発言でした(そのことが、当時きちんと議論されなかったのは問題)。
(by JIN)
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民主主義の政体をとる以上、国民が正しい判断をするために、正しい情報にアクセスする権利を保障しなければならない。これが民主主義国家の基本的な考え方で、これに見合ったしくみを用意する必要があります。
知る、知らせるというのは、単なる民間のサービスではなく、国のしくみを支える重要な機能なのだということに気づかず、軽視する人が多いのは大きな問題です。民主主義は、世界のほとんどの国で、王権や高低権力と戦って獲得した歴史があり、表現の自由の獲得には先人の多大な努力と犠牲があったのだということを、欧米にしても、たとえばインドのような植民地から独立した国にしても、それなりにきっちり教えています。日本では、戦後、民主主義がアメリカから与えられたので、ありがたみの意識が薄いのだといういわれ方をよくされますが、それはかなり違います。
日本の民主主義は戦後からではなく、明治の自由民権運動、大正デモクラシーのころに大きく前進し、その後、昭和の戦争の歴史の中で、治安維持法などによって抑圧されてきました。その間、自由民権運動では板垣退助が暴漢に襲われて犠牲になり、昭和初期には5.15事件や2.26事件で、政党政治(民主主義体制)の要職にあった総理大臣などが何人も暗殺されました。こうしたテロの犠牲の結果、日本の民主主義、そして知る権利が徹底的に失われ、それが太平洋戦争の敗戦につながり、国民の大きな犠牲につながったのです。
日本にも、民主主義を獲得し、またよからぬ人々によって民主主義が強奪されて大きな犠牲を払った歴史があるのに、それがほとんど教えられていない。そのことによって、今は「知る権利」「表現の自由」がどれほど重要なことなのかが、わからな人が増えているのです。
ジャーナリズムとは、民主主義という社会体制の根幹であり、ジャーナリストという「機能」は主権者たるすべての国民が自らのものにすることができるものなのです。
ということは、誰がジャーナリストになることもできなければならないし、特に資格を持たなければならないというような考えも、間違っている。誰でもいつでもじゃナーリストとして発信する権利があるのが民主主義社会のなのです。
もちろん、何でも発信していいというわけではありません。プライバシーを保護する、誹謗中傷はしない、など決まり事はいくつかある。しかし、これらに反して情報を発したとしても、その「違反」部分に対して責任をとる必要があるだけで、情報発信そのものは否定できないのです。
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■メディアが報道をゆがめるメカニズムは?
・スポンサーの意図
この点で、pacoさんが、1年ほど前に知恵市場で明確に警告を発したのが、トヨタの奥田会長のマスコミを恫喝する発言でした。
また、最近、「とれたま」のようにスポンサーの広告がそのままメディア情報として流れてしまうケースが増えています。雑誌であれば、広告はその旨明示されているのですが、
テレビは切れ目がないため、その点の明示はありません。しかしながら、スポンサーは「売り込みたい」意図で広告を流しているだけなので、その情報に正しさの保証はありません。
・メディアの情報特性
テレビの場合、メディア媒体の特性上、報道番組の「映像」を埋めなければなりません。そのため、テレビ記者には、現場に行って「絵」を撮影してくることが求められます。例えば、秋葉原殺人事件の当日は「ホット」な絵が撮れますが、数日後の秋葉原は、すでに絵にはなりにくいのです。数日後であっても、街の人々の意識がどう変化したかなど、重要な情報が埋もれているかも知れないにも関わらず、です。
新聞の場合は、テレビほどではありませんが、特ダネを追いかける体質は同じ。さらに新聞の場合の問題点の1つとして、購読者の高齢化に伴う文字の大きさの拡大によって、紙面の情報量が格段に減少したといういことがあります。そのため、どうしても、深く掘り下げた記事が書きにくくなります。
(by JIN)
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アメリカのジャーナリスト学校では、一番最初に「メディアに<中立>はない」ということを教えられます。一方日本では、放送法で、テレビ局やラジオ局に、中立の報道を義務付けています。
この義務付け自体が完全な認識ミスなのですが、おそらく、正しい認識を持っている為政者が、国民に中立であるということを印象づけ、メディアの偏向を覆い隠すために、こういうタテマエの宣言を行ったというのが、本当のところでしょう。
米国のメディアは、いずれも明確な立場を明らかにしていますが、しかし、それ以前に、特にテレビについては、「報道=ジャーナリズム」という概念そのものが失われています。三大ネットワークのひとつ、FOXでは、社長が自ら、「うちの放送はエンターテイメントである」と宣言しています。日本でも、人気報道番組のキャスターだった久米宏が、番組交番のときに「自分はキャスターではない、司会者だ」と宣言しています。つまり、単に番組の視界をしているだけであって、ジャーナリストとして費用な情報を取捨選択して送り出しているわけではない、というわけです。テレビの中に、すでにジャーナリズム(国民の知る権利に対応するための情報発信)は、日本でも<ない>のです。
このような動向を受けて、米国ではテレビ、新聞のジャーナリズムとしての信用度は地に落ちていて、テレビや新聞が正しい情報を伝えていると考えている国民は、確か、40%を切っているという調査が出ています。米国では、テレビや新聞よりラジオがより身近で信頼感のあるメディアです。自動車社会の米国では、通勤途中に聞くラジオ番組が最大の情報源であり、ラジオのパーソナリティに対する信頼度は高い。しかし、米国のラジオ局は無数にあり、どの曲を聴くかで市民が細分化されています。音楽専門局を聞き、新聞も読まない(もともとヒスパニック系などは英語の識字率は必ずしも高くない)人は、ジャーナリズムにはほとんど触れる機会がないのです。
メディアは、本質的に偏向した情報を流すものであり、そこから情報の真の姿を描き出す作業は受け手がやるしかない。これが、メディアリテラシーの創始者マクルーハンの教えであり、これは100%正しいのです。
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■良いジャーナリズムとは?
メディアは、上記のとおり、情報をねじ曲げてしまいがちなのですが、そうした状況下でも、良質なジャーナリストが日本でも頑張っています!彼らの基本は、「スポンサーから金をもらわない!」です。メディアの受け手からお金をもらうことを基本スタンスとしています(だから中々食えない!のが辛い・・・)。
テレビでは、ドキュメント番組の中に、良いものもあります。pacoさんのお勧めは
・「BS世界のドキュメンタリー」
・広河隆一
・シバレイ
・田中宇 国際ニュース解説
あと、セミナーでは直接的には触れられませんでしたが、私は、「知恵市場(有料版)」は超有力候補と思っています。
pacoさんのご友人の高橋俊之さん(Toshiさん)のブログです。
(by JIN)
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良質のジャーナリズムが成立するためには、ジャーナリスト本人が明解な立ち位置をもち、高い志をもって自ら伝えたい情報を切り取り、自らが最適と考える方法で情報を伝える人です。もちろん、その「自ら」は、個人である必要はなく、集団であってもいいのですが、あまり大きな集団になると、高い志を維持することは難しくなる。という点では、ジャーナリズムは基本的に個人や小集団であることが、現実的な要件になると思います。
受け手の立場で考えれば、こういった情報源は、受け身ではなかなか見つからないので、主体的に探し、選びとっていく必要があります。これはたいへん手間がかかり、めんどうな作業です。しかも知っておきたい情報は非常に幅広く、そのメカニズムは複雑。となると、なかなか行動がとりにくいのですが、もちろんすべての情報領域にアクセスするしなければならないわけではありません。自分が興味がある分野、自分の将来がかかっていそうな分野だけでも、受け身ではない、主体的に動かないととれない情報源にアクセスし、自分の頭で考えて情報を整理、獲得するように意識することが重要でしょう。
そのためのベーシックなツールとしてロジカルシンキングはとても役に立ちます。僕がこの分野で人材育成の仕事を続けているのは、きちんと情報を取り、判断できる市民を増やすことが、僕の大事な使命だと思っているからなのです。
為政者にとっては、テレビが送り出す情報だけを漫然とって満足するような単純な国民のほうが操りやすいと考えるのは当然です。生活保護世帯に地デジ対応テレビを配るというのは、情報へのアクセス権を保証する行為ではありますが、その一方で、受け身の情報だけしかとらない国民を優先的に育てようとしている行為であることは、メディアリテラシーと民主主義のしくみを考えれば、すぐにわかることです。また、学校で論理思考を教えないのも、同じように操りやすい国民を育てるというねらいが見え隠れしています。
あまり複雑なことについて議論されるより、受け身でエンターテイメント中心のテレビが国民の主要な情報源になっていたほうが、為政者にとってはずっとやりやすいのです。
こういう今の日本の構造を見ると、為政者が戦争を起こそうというような意思を持てば、比較的簡単に国民をそっちにリードすることができるでしょう。その結果、自分や自分の息子、そして娘の彼氏が戦争にかり出されることになる可能性が、充分にある。その時になって嘆いたのが、大正や昭和初期に生まれた世代です。僕は、自分の親世代と同じ悲しみや嘆きを繰り返したくないので、徹底的に自らの権力のチェック機能を高め、またそういう人が育つことをめざしています。
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