(by paco)「what?セミナー2 「メディアリテラシー」」の第2回が終わったので、そのまとめを書きます。
第2回のテーマは、「メディア特性とメッセージの偏向」でした。ひとことでいえば、メディアは公正中立な情報を伝えているわけではなく、必ず何かしらのバイアスがかかった情報を伝えている、ということです。このことを、メディアリテラシーの創始者・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と表現しました。メディアは、それ自体がメッセージを含んでいて、どんなメディアによって伝えられたか、ということ自体が、メッセージだということです。
セミナーでは、具体的にいくつかの資料を用意しました。
■メディアがつくる構図で、理解がまったく変わる
ひとつは、最新の新聞記事で、始まったばかりの行政刷新会議についての記事です。産経新聞のこの記事のタイトルは「事業仕分けはまるで“法廷” 官僚は「被告」、財務省は「検察官」」と言うものです。
事業仕分けとは、各省庁が予算要求するときの「起案(企画)」について、内容を検討し、実施するに値するものと、値しないものに仕分けるというもので、鳩山民主党政権の目玉のひとつです。こ
記事本文は、以下のように始まります。
「平成22年度予算の概算要求の無駄を洗い出す行政刷新会議(議長・鳩山由紀夫
首相)のワーキンググループ(WG)の「事業仕分け」の運営マニュアルが2日、
明らかになった。事業官庁の官僚はさながら“被告人”となり、財務省主計局が
“検察官”として事業を査定、国会議員と民間の「仕分け人」が“判事・陪審員”
として「要」「不要」の裁きを下す。省庁にとって恐怖の「査定法廷」は11日
にもスタートする。」
この記事を読んで、多くの人は「ふむふむ」と思うだけか、そもそもなじみのないことなので、何をいっているかよくわからないままに読み飛ばす、という程度だと思います。しかし、この書きっぷりそのものに、大きな意味が含まれています。
事業仕分けを裁判にたとえていますが、裁判でも特に刑事裁判にたとえています(検察官が登場するのは刑事裁判だけ)。刑事裁判の被告が各省庁で起案を行った担当者に当たると書いているのですが、ここに問題があります。
日本では、刑事裁判の90%以上は有罪になります。いったん起訴されれば、ほぼ確実に有罪になる。そういう事情があるので、新聞に「容疑者逮捕」「起訴」と載れば、容疑者は確実に犯人(有罪)決まったようなものと決めつけて、記事を書いてしまうのです。この経験がベースにある日本人にとって、事業仕分けを刑事裁判にたとえることは、「仕分けの俎上にのった事業」はすでに「有罪と決まったようなもの」という印象を、読む人に与えてしまうのです。
つまり記事をそのまま読むと、各省庁の官僚は「悪」で、仕分け委任は「悪を質す正義の味方」であり、ばっさばっさと「悪=よくない予算」を切っていくことが期待されている、という印象になるのです。
実際には、仕分けの俎上に載るからといって、それが悪い事業と決まっているわけではないし、必要な事業も多いでしょう。事業のやり方に問題はあったとしても、事業の目的そのものが否定されるとは限りません。たとえば、年金は、社会保険庁の仕事がめちゃくちゃだったことが判明していますが、だからといって年金という仕事を国がやらなくてもいいと言うことを意味しないのです。
刑事裁判に例えたり、単純なシロクロ付けが目的のように書くことで、記事の読者は官僚が出す予算案がほとんどすべてよくないもののような印象を受ける可能性があります。もし仕分け作業がほぼすべての予算案を否定するなら、むしろ会議などは必要なく、ざっくり切ってしまえばいいだけです。会議を開く目的は、適切な事業とそうでない事業分けることで、それは裁判とはかなり違った作業にならなければ、おかしい。そういうことが、裁判に例えることで見えなくなってしまうのです。
新聞記者は裁判に例えることで内容がわかりやすくなると判断したのでしょうが、一面的な意味合いを伝える結果になっている。これこそが、新聞というメディアが持つメッセージ性であり、記事の内容とメディアが持つメッセージを足し合わせたものを、僕たちは新聞の情報として読んでいるという理解をする必要があるのです。
逆に、そういった印象付けを行うために、意図的にこういった表現が選ばれる場合もあります。意図があるか、意図はないかは、それはそれで重要ですが、いずれにせよ、その記事から理解できることは、読んだままでは不十分であり、バイアスがかかることを前提に、かかったバイアスを見抜き、生の情報に近づくような理解の仕方を習慣づける必要があるのです。
■戦争や国際紛争では、メディアの偏向が大きな被害をもたらす
こういうメカニズムが、強力に働く場合があり、最近では2001年の「9.11同時多発テロ」の際のメディアの情報と、それによる人々の理解の仕方です。
911テロについては、発生当時から僕も繰り返し発言していて、事件の経緯そのものが米国政府の公式発表通りではない、ということはほぼ確実です。いろいろ「ウソ」がわかる点があるのですが、最も大きなウソは、ワシントンの国防総省(ペンタゴン)に「ハイジャックされた航空機が突っ込んだ」と発表されている事件です。事件直後に撮られた写真に写っている破壊の規模は、航空機の大きさと比べると明らかに小さいのです。これは実際に突っ込んだはずの機体のサイズを写真上に再現するとすぐわかることで、どう見ても航空機が突っ込んだとは言えません。また機体の破片なども極端に少なく、まったく違う事故での破片が一部現場に持ち込まれたのではないかと考える人もいます。
しかし9年たって改めて当時を思い返してみるてもらうと、「陰謀説があることは知っていたけれど、これほど強引な説明を政府が行っていたとは思わなかった」という意見が多く、報道によって政府発表を「信じ込まされていたようだ」ということに気がつくのです。戦争や国際紛争のような大きなイシューのときは、特にこういった「意図的なねじ曲げ」が政府や報道機関によって行われ、簡単に信じ込まされて、戦争を支持するということが繰り返し行われてきています。
ナチスドイツの成功も宣伝相ゲッペルスの巧妙なプロパガンダの結果だし、日本が太平洋戦争に突入していったきっかけになった満州事変のときも、朝日新聞はじめメディアが、販売部数のために事変を肯定し、礼賛したことが大きなきっかけになりました(満州事変当時、満州駐留日本軍である関東軍は、国内世論を非常に気にしており、新聞が肯定し、指示したことにおおいにこころを強くし、房総を始めるきっかけになりました)。
■TVは情緒をかき立てる
さらにTVなど映像メディアになると、偏りが生じる度合いも大きく、複雑になります。セミナーではNHKスペシャル「岡山市の財政再建」の中から、「高齢者住宅を造る企画を立てた住宅課と、コストカットをめざす行政改革課の対立」が描かれるシーンを見てもらい、番組の作り方によって、偏った印象を与えられている実態をみました。
本来は論理性を持った対立のはずなのに、対立のロジックは示さないままに、対立しているところだけを取り出しているために、責められている住宅課は、「高齢者の見方なのに、いじめられてかわいそう」という印象になるか、「無駄遣いなんだから、やめるべき。行政改革課は正義の味方」という印象になるか、いずれかに別れました。
しかし、実際の論点を見ていくと、いずれも一方的な善悪ではなく、しかもその判断につながる判断軸も示していないことに気がつきます。たとえば、「採算がとれない」という指摘に対して、「この事業の採算とはどのようなものか」「なぜ採算がとれないという人と、とれるという人に、判断が分かれるのか」、「この事業をやれば、本当にしないの高齢者は救われるのか」といったイシューには目を向けることなく、見てしまうようなつくりになっているのです。
おそらく、そこまで詳しく説明しても読者はついてこないという判断なのでしょうが、だからといって単純に善悪二元論の構図を見せていいものか。受け手としては、そういうテレビメディアの情報の限界をよく知っておき、二元論的な理解にはまらないように注意しないと、誰かをワルモノにすることで納得してしまいます。それ以上に問題なのは、表面的な理解しかできない脳になってしまい、問題の本質には目を向けない状態になってしまうことです。
テレビからの情報をそのまま受け取っているだけでは、かなり単純な脳の構造になってしまい、複雑なものごとを考えられないようになる危険性があります。
■カウンターパートを探して、相対化し、自分の立ち位置を決める
では、このようなメディアの状況に対して、僕らはどうやって対応したらいいのでしょうか。
まず、「真実」を知るには、事実が立体、多面体でできているとはっきり認識することです。あらゆる情報は、多面体を一方向から光を当ててみているに過ぎず、その光も白色とは限らず、赤や黄色がついている可能性もあります。ひとつの情報がどれほどもっともだと思っても、それは一面、ひとつのスポットライトの当たった場所だと理解し、ほかの点から見たらどのように見える化を探す習慣を付けるとよいでしょう。
多面体ですから、視点は無数にあるわけですが、まずは反対側を意識するとよいでしょう。「高齢者住宅」などつくっても「ムダ」という意見をみたら、「つくるべきだ」という意見がないか探します。今はネットで検索も容易なので、以前よりはずっと楽になりました。ネットもメディアのひとつと位置づけられますが、このような主体的に譲歩を撮るためのメディアとして価値が大きいので、「反対の立場からの見え方」さがしい使うとよいと思います。
逆の立場からの意見が見つかったら、両方から見て、自分はどっちに近いのか、改めて考えます。やっぱりつくるのには反対、いや賛成に変わった。それはどちらもいいのです。常に逆の立場を踏まえて、自分の考えを決めているかが重要です。
慣れてくると、両者の意見を分けている分岐点が見えてきます。採算性も分岐点のひとつです。そうなると、分岐点をどのように判断したから、結論は賛成、または反対、というように考えることができるようになり、こうなるとかなり深まった状態です。また賛否いずれの意見も、中立ではなく、ある種の価値判断の下に行われていることに気がつくでしょう。
このような、反対の立場を教えてくれる人をカウンターパートと呼んでいます。カウンターパートをうまく見つけることができれば、自分の考えは飛躍的に深まるし、反論にも強くなります。
世の中の主流の考え、たとえば政府の方針とか、大企業がいっている経済界のビジョンなどに対して、よく反論している人は、カウンターパートとして有効です。たとえば、外交については、ネットニュースを配信している「田中宇の国際ニュース解説」を継続的にワッチしていますが、彼はよく陰謀説だと批判されます。たしかにそういう傾向はありますが、表向きの情報ではつかめない逆からの視点を提供してくれるので、自分なりの考えをつくるのに役に立ちます。公式発表と田中宇の指摘のどちらに世の中が動いていくのかを見ていると、田中宇の方法が正しいことも多く、公式発表のほうが的確ということは全くないことに気がつきます。前述の9.11テロの問題も田中宇はいち早く指摘していました。
メディアの情報を適切に理解する力を付けることは、その先に、自分の考えをつくるということにつながり、その先に、では自分は何をするかという考えを作り上げる起訴になります。こうしてつくられた考えは、非常にしっかりした論拠に基づいているので、かんたんに崩れたりぐらついたりしません。これが、自分のライフワークを続けていくバックボーンになるのです。
ということで、次回は、「なぜメディアは偏向するのか、メディアの裏側の構造」についてレクチャー&ディスカッションします。水曜日、お時間がある方はお出でください。
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