(by paco)429メディアリテラシーは民主主義の根幹である

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(by paco)7月の「人生のwhat?を見つけるセミナー「日本の難点」」に続いて、先週から「what?セミナー2 「メディアリテラシー」」が始まっています。毎週水曜日の夜、全4回(残り3回)、社会を知る重要な手段であるメディアについて習熟し、それによって社会的な視野を獲得するための勉強会を進めていきます。これからの参加も歓迎ですので、興味のある方はいらしてください。

第1回のテーマは、「民主主義とメディアリテラシー」。テレビや新聞などのメディアが、民主主義や社会のありようと密接に関わっているという事実を学び、具多的な場面をイメージできるようにすることが目的です。

■まず、メディアとは何か、その定義付けを考えました。

メディアの種類としては、大きく活字メディアと電子メディアに別れ、活字メディアの中には、本、雑誌、新聞が含まれます。電子メディアは、ラジオ、テレビ、インターネットが含まれ、テレビの中にはケーブルテレビなどの有線メディアと、無線メディアが含まれます。

メディアの特性としては、同じ情報を大量の人々に伝える機能であり、その意味ではインターネットは「通信」のカテゴリに含まれて、「大量に伝える」ことが目的ではなく、Person to Personのメディアでした。英語ではCommunicationsのカテゴリですが、同じ機能を一同に大量に情報を提供することにも使えるため、Broadcasting(放送)としても使えます。そのため、インターネット革命を「通信と放送の融合」という言い方をしてきました。

歴史的に見るとどうでしょうか。

最初に成立したのは本です。印刷というと、グーテンベルグの活版印刷の発明が思い出されます。これは何世紀か、わかりますか? 14世紀です。

しかし、東洋ではもっと早く印刷技術があり、2世紀の漢代といわれています。とはいえ、印刷技術が社会的な影響力を持ったのは、グーテンベルグ以降なので、通常は、これが印刷の始まりと呼ばれることが多いのです。

グーテンベルグの印刷技術が社会に影響を与えた、つまり印刷が社会を変えたというのはどのようなことだったのでしょうか。中学や高校の歴史で勉強しているのですが、みんな覚えているかな??

グーテンベルグが最初に印刷したのは、ドイツ語版の聖書です。当時、聖書はラテン語で書かれていて、カトリック教会に所属する聖職者しか読むことができませんでした。一般の人々はドイツ語をしゃべっていたのですが、読み書きできる人はわずかで、しかもドイツ語といっても統一されておらず、地方ごとに方言、というよりは異なるドイツ語を話していたのでした。カトリック教会は信者が聖書を読めないのをいいことに、勝手な解釈を語るようになり、悪名高い免罪符を売り始めました。これに疑問を感じ始めていたのが、この頃の状況です。

グーテンベルグがドイツ語で聖書を印刷したのは、聖書を協会内部のものにせずに、信者が広く読めるものにすることが目的でした。この結果、3つのことにつながったといわれています。ひとつは、聖書に免罪符のことなど書かれていないことを多くの人が知り、宗教改革につながって、プロテスタント(抗議する人々の意味)が生まれたこと。ふたつ目は聖書を読むために読み書きを学ぶひとが増え、識字率が上がると同時に、ドイツ語自体の統一が図られたこと。これによって、同じ言葉を話すという民族の一体感が出てきました。三つ目は同じ言語、同じ民族という意識が芽生え、国がまとまりやすくなり、その後の国民国家へのステップになったことです。この頃のヨーロッパは、民族や国家という単位は希薄で、人々にとってのクニはもっと小さく、日本でいう「藩」ぐらいの単位でした。それより広い単位としてクニもあったものの(フランス国王はこの時代もいた)、それより広い権威としてカトリック教会が欧州全体を支配していたために、今でいう「国」という単位は総体的に希薄だったのです。グーテンベルグの印刷技術は、言語の統一によって国の単位をつくり、最上位だったキリスト教会の権威を落とすという両方の効果があったために、その後のヨーロッパの成り立ちを大きく変えていくことになったのです。

情報メディアというのは、社会や人々の暮らしの形を大きく変える影響力を持っているのです。

■民主主義が情報アクセスを保証する

時代は下って、民主主義の時代になると、情報は社会を運営する最重要な要素として為政者に意識されるようになります。

19世紀初頭にナポレオンが登場して、国をひとつにまとめて徴兵制による軍隊を組織しました。兵役を義務付けることに成功し、それによって生まれた軍隊は強力で、全欧州をたちまちせっけんして、大フランス帝国をつくったのですが、結局ナポレオンは敗れます。しかし国がひとつにまとまると、戦争に打ち勝ち、巨大な権力を手に入れられることに、各国の為政者は気がついたのです。

民主主義が広まる時代の中で、国をひとつまとめる方法として注目されたのが情報メディアでした。もともと、民主主義には「情報アクセス権」がセットになっています。これは民主国家とはどのようなしくみかを創造した人々(ジョン・ロックやジャン=ジャック・ルソーなど)によって考案されたものですが、市民が議会をつくって政治に参画するためには、市民が政治について判断するための知識と、それを読み取るための識字力(=リテラシー)が必要と考えられたのです。そこで民主国家は図書館を作って無料で市民が情報にアクセスできるしくみをつくったのです。図書館は無料で本のレンタルをしていて、「著作権侵害に当たる」という議論をするひとがたまににいるのですが、これはとんでもない間違いで、本来民主国家では情報は市民の共有財産であって、著作権者が一方的に制限できるものではありません。その意味では、本以外の情報メディア、ラジオやテレビが著作権をたてに、一般からの無償アクセスを拒んでいるのは、民主国家としてどうなのか、という議論はもっと出ていいと思います。あるいは、アーカイブをつくって過去の番組の集積と閲覧という自由なアクセスを認めないなら、そのメディアは情報として二流であることの証明と考えるべきなのかもしれません。

民主国家は情報へのアクセスを保証することで成立しているのですが、為政者から見れば、アクセスをうまくコントロールすることで、自分たちの勝手な政治を認めさせることができるわけです。

これを意図的に、最大限に利用したのが、1930年代に生まれたナチス政権でした。ナチスを「反民主主義的な独裁国家」と見るのは、半分正しいのですが、半分は間違っています。ナチスは、当時世界で最も民主的といわれたワイマール憲法(第一次大戦の敗戦後につくられたドイツ憲法)の元で機能していた議会で、民主的な選挙を通じて政権を取った「民主的な国家」なのです。ちなみに、当時の日本もナチスと並んで独裁的な全体主義国家だったといわれますが、日本では1925年に世界で最も進んでいた普通選挙法が生まれ、成人男子すべてに選挙権が与えられていて、選挙と国会は第二次大戦終結まで機能していました。民主主義は、ときに強力な独裁を生むことを、歴史は示しています。

ドイツも日本も、民主国家の形の上に、強い情報統制を行いました。しかし「統制」以上に重要だったのが、「プロパガンダ=宣伝」です。テキスト「世界を信じるためのメソッド」には代表例として、ナチスの宣伝大臣・ゲッペルスの言葉を引用していますが、国民にドイツ民族の優秀性をアピールし、欧州の他の民族を支配することが政党だと思い込ませるために、ゲッペルスはさまざまなプロパガンダを行って、独裁を機能させたのです。そのプロパガンダに使われたのが、当時の先端技術「ラジオ」、そして新聞や雑誌など、メディアでした。

日本でも、治安維持法によって言論を制限することと、「大本営発表」を信じ込ませることで、国民に戦争を支持させることに成功しました。

メディアからの情報をいかに適切にするか、いかに適切に理解するかが、社会をうまく運営するために、とても重要だということが、近現代史の中から学ぶことができます。メディアリテラシーは、民主国家を適正化するための、重要なアプローチなのです。

■事例からメディアリテラシーを考える

その上で、具体的な記事をいくつか読んでもらい、「現在の一般的な理解」が、実は「メディアの情報が偏っていることから起きている」かもしれないということについて、考えてもらいました。

いずれも雑誌「DAYS Japan」の記事です。

ひとつは、「北朝鮮の普通の人々」という記事で、そこには北朝鮮で暮らす明るく清潔な暮らしが描かれています。人々の表情は明るく、海水浴場で日本製のビデオカメラを回す女性や、古いけれど磨き上げられた病院に並ぶベビーたちが登場します。そこにある姿は、日本でよく見かけるような「独裁者によって抑圧された人たち」「為政者に収奪された貧しい人たち」ではなく、「政治的自由がなくても、日々の生活を快適に過ごすことにはなんの支障もない」という姿です。

この記事は北欧のジャーナリストによって書かれていて、日本人が持つような偏見はありません。取材にいき、見た(見せられた)風景をそのまま素直に写し取っています。

もちろん、内容から見て、「取材で見た」というより「一番幸せそうなところを見せられ」適時にしたのは間違いないでしょう。しかし、もしこういう記事や情報が北朝鮮からどんどん流れてきたら、日本人の北朝鮮に対するイメージは変わらざるを得ないでしょう。独裁国家だって、いいじゃないかと言い出す人も出てくると思います。

次に見たのは、南米コロンビアのゲリラ集団の取材記事で、そこには貧困からゲリラに加わった少女が描かれます。日本の歌手「AI(あい)」にも似た活きのいい女性がピンクのTシャツに迷彩服で自動小銃を掲げ、とびきりの笑顔をしているその写真には、無条件に引き込まれます。「われわれは政治的理由で誘拐や殺戮をやめた。そうしたら、メディアはわれわれを弱体化したいう。もしわれわれゲリラがもっとひどいことをやれば、われわれの主張は多くの人に伝わるのだろうか」
ゲリラのリーダーが語るこの言葉は、メディアと社会の本質を突いています。僕たちは、何をどうやって理解するべきなのか。身近なひとをテロで殺されてから、ゲリラの存在を知ることがいいことだとは言えませんが、そんなことでもしないとゲリラたちが置かれている状況(貧困や政治的な窮地や)を知ろうとしないのだと思います。

3つ目は、韓国・朝鮮の記事です。来年2010年は、日本による日韓併合(植民地化)100周年です。日本ではそんなことがあったことさえ、果たしてどれだけの人が知っているのかという程度ですが、支配された韓国・朝鮮では、もちろんまったく違う立場だし、メディアからの情報の格差、それに対する人々の認識もまったく違うでしょう。
来年、韓国・朝鮮では日韓併合について多くの情報が出されて国威発揚に利用され、日本では無視されて「昔のことをいつまでもいうやつ」という理解になるのでしょうか。お互いに理解が歩み寄れるかどうかが、その後の日韓関係、日朝関係、東アジアの安定に大きな影響を与えるし、そこに、メディアが果たす役割もと手も大きいのです。注目してきたい点です。

ということで、メディアと民主主義、社会について、概観したのが第1回セミナーでした。次回、今度の水曜日は、具体的な事件(のりぴー事件、9.11テロ、ほかメンバーが見つけてきたテーマ)について考え、メディアの情報がどのように僕たちを偏らせるかを見ます。TV番組のVTRも使っていこうと思っています。

社会を見る目を養い、より適切に認識したところから、自分が何をするべきかが見えてくる。そういうメカニズムをつかむことが目的です。

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