(by paco)427視野狭窄の日本の若者きエリートたち

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(by paco)企業研修で、新入社員やそれに近い年次の社員を教えることがあるのですが、若い世代に共通して感じるのは、視野の狭さです。

一流の大学を出ていたり、大学院を出て正社員になっていても、感心の幅がとても狭い。自分のデスクの上のパソコンサイズというのか、日常的に動いている空間デメにすること以外には、視野が広がらない人が多くなっているように感じます。

たとえば、入社1年目や3年目の社員に、自分がこれまでやってきた仕事の棚卸しをしてもらい、それを元にこれから1?2年先に何をするべきかを考える、といった課題をやってもらうことがあります。そんなときに彼らが考える仕事の範囲がとても狭い。直接的に自分が担当している仕事だけで、隣の同僚が何をやっているかにも目が行っていないことがほとんどです。

技術職や研究職では、たとえば工具や検査機械が使いにくいとか、たくさんの人が使っていて、思うように仕事が進まないといった課題が出てきます。それ自体は大事な点なのでいいのですが、それをどう理解するかです。

企業にとっては、設備の利用効率をあげたほうが生産性は上がるわけですから、「なかなか使えない」状態にしておくのはむしろ合理性があります。しかしあまりも使えないなら、人材リソースが遊んでしまい、合理性がなくなります。では、彼(彼女)が置かれた状況はどちらであり、設備不足なのか、利用法が悪いのか、という発想で問題を捉える必要があるのですが、こういう方向に目が向かないのです。

もちろんこのような考え方自体、ロジカルシンキングに基づいた方法だし、会社の事情についての知識も必要で、若い社員には無理、というのも、その通りだと思います。しかし、僕が提示するように考えるところまでできなくても、なぜ設備の利用が混んでいるのか、なぜスムーズに使えないのかを考えたり、その点について上司や先輩に聞くことぐらいはできるでしょう。答えはわからなくても、問題の所在や解決の糸口ぐらいまでは考えていいはずだし、そのぐらいのことは僕でもやっていました。

若い社員たちは、学力も知能も優秀ですが、何かに行き詰まったときの思考停止がとても早く、深めたり、広げたりして考える嗜好が苦手です。若さというのは、視野の狭さを意味していて、視野が狭いからこそ、ひとつのことを思い込んだら一点突破で突進する力にもなるのですが、一点突破さえできずに、その場で止まっている感じです。

問題に怒りを感じてなんとかしたいと思ったり、会社の不条理を嘆くならまだわかるのですが、単に「うまくできなくて困る」というところで留まり、他人に何とかしてほしいと怒りをぶつけるエネルギーさえ切れているのです。他にもいろいろ同じような例があるのですが、いずれもすぐに立ち止まってしまう若い世代の行動パターンが、とても気になっています。

もちろん、それは一概に若い世代、と決めつけることはできないのですが、いわゆる秀才にこういう傾向が見えることが問題です。社会をリードするべき秀才たちの視野が狭いというのは、放置できない問題のように感じます。

若い世代の視野が狭くなる理由として考えられるのが、大学での教養教育の軽視です。1990年代あたりから、大学改革の波が押し寄せてきました。直接のきっかけは少子化で大学の存続が次第に危うくなりそうなことと、予算縮小の中で大学の独自性を出してより多くの学生を集める必要が出てきたこと、そして学生があまりにも遊びすぎる傾向にあり、もっと実学を教えるべし、という意見が出てきたことが背景にあります。

僕は1980年入学なので、旧カリキュラムの最後と言うべき世代で、教養課程もしっかりあったのですが、2年生ぐらいまでは実際、専門の勉強もせず、パンキョーと呼ばれた一般教養の科目を消化していました。周囲の学生は、消化科目ですから、当然遊びのほうが優先になり、部活やサークル活動にいそしみ、文字通りモラトリアムの大学生活の元凶が教養課程である最初の2年間だったのです。

僕は奨学金を借りて自分で学費を出していたので、教養課程であってもムダにする気にはなれず、学べるものはしっかり学んでいましたが、それでもおもしろいと感じられる講義は少なく、確かに教養課程の存在意義は失われているという議論は当然のことだと思っていました。

その後、大学改革の波が押し寄せ、大学から教養科目がどんどん縮小されていきました。僕が押している亜細亜大学経営学部では、1-2年は情報検索や文章作法、ロジカルシンキングやグループワークという基礎教育になり、一般教養はすっかり減っています。そして、確かに、こういった学びの基礎になる学習は、学生にとってはとても効果的であり、しっかりした学生が育つ元になっています。

しかしその一方で、一般教養科目が果たすべきと考えられてきた機能はすっかり切り捨てられ、学生が視野を広げる機会が失われてしまったのも事実です。

さらに、大学以前の高校教育でも、進学校ほど受験科目重視になり、受験に直結しない科目は軽視され、場合によっては授業自体がないと言ったことも起きています。数年前に、日本史など必須科目が英語などに振り替えられていて、単位が足りずに卒業が危ぶまれる高校が多数出るという事件がありましたが、覚えているでしょうか。

少子化で、確実に大学に入りたいという親子の希望が大きくなり、現役合格率が進学校の大きな売りになってきているために、進学に関係のない科目は高校側も軽視するし、生徒はさらにこういう科目を馬鹿にするようになっています。しかし、日本史や世界史、倫理社会、現代社会、さらに、基礎理科や古文・漢文などは、視野を広げる格好の科目であり、受験に直結しなくても、しっかり学んでおくべき科目です。

特に古文や漢文は、先人の知恵がつまった古典を読むよい機会であるし、僕自身は漢文で読んだ中国古典と漢文の教師が生き生きと講義してくれた王や知識人たちの行動を学ぶことで、のちのち、社会や人間に対する洞察力をずいぶん身につけることができました。困難にぶつかったときに、人はどのように行動してきたのか、するべきなのか。こういう基本的なことが、古文や漢文などを通じて学べたし、大学の一般教養課程の意味も、こういう学びをすることにあるのだと思います。

僕の場合、大学の教養課程で学んだことで、いちばん学びの多かった科目は、音楽史の講義でした。近代音楽の成立から現代音楽を講義する授業だったのですが、ドビュッシーなどの近代音楽が絵画の印象派に影響されて誕生したこと、ジャズという音楽が南北戦争によって南部の奴隷解放が怒ったことがきっかけで生まれたことなどを学びました。音楽という芸術が、社会の大きなうねりを密接に関係して生まれていることをリアルに教えてもらい、ものごとが決して独立して起きるわけではないことが自分のあたまの中にしっかり根を下ろしたように思います。

おそらく、こういう学びが、自分自身が問題にあたったときの思考パターンをつくって行くのだと思います。個人の問題は社会の問題とかかわりがあり、また組織のような所属するコミュニティの問題との相関関係で生じている。

こういう基本的な理解があればこそ、最初に例を出したような、「機械が思うように使えない」という目の前の問題を、「会社のしくみの問題」「資金の問題」「資本の有効活用の問題」などと広げて考えることができるわけですが、今の若い世代にこれができないのは、逆に基礎的な教養が不足しているからではないかと推測できるのです。

高校や大学で教養を学ばないということの弊害は、その後、自分で教養を身につけようとしないという行動にもつながっているようです。

本が売れない時代に入って久しいのですが、特に一般書、教養書が売れなくなり、ビジネス書やノウハウ本しか読まれなくなりました。雑誌も、総合誌が成立しなくなっていますが、これも広く知識を求めようという意欲や、そのことがもたらすメリットを感じる機会がなくなっていることと深く関係しているように思います。

時代は大きな変革の時期を迎えていて、従来の延長では答えが出ない時期に入っています。だからこそ、社会と個人とのつながりや、個人の行動の原動力、社会のあるべき姿など、さまざまな教養が個人の行動意欲を支えていかなければならないはずです。ますます教養が重要な時代になっているのに、実際に社会に出てくるエリートたちにそれが失われていることこそ、憂うべきことだと感じます。

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ということとは別に、最近は、「れきじょ」(歴史愛好女子)、「てっちゃん」(鉄道愛好家)など、うんちく系の教養を学ぶムーブメントが広がっていることは、喜ばしいことだと思っています。

基本的には歓迎なのですが、趣味の領域を出ておらず、きちんとした解釈や認識に基づいていないままに学んでいる人が多いので、知識豊富なわりに解釈がいい加減だったり、一面的になる傾向が見えます。歴女が語る歴史は確かにドラマチックで教科書よりおもしろい、と言われるし、高校や大学の講義はおもしろく理解させる努力に欠けていたのは事実ですが、やはり基本的な学説や理解をベースにした上で、わかりやすさや多面的な理解を進めなければ、学びも底が浅いものになります。教育機関がせっかくあるのに、個人の趣味的な学びのほうが深いというのも、本末転倒です。

その一方で、グロービス経営大学院では、学長の堀さんが「起業家リーダーシップ」などのクラスで、日本史に登場する人物の行動を解釈するクラスを開講してたり、陽明学を教えていたりと、教養を学び、こころざしを高めることに力を入れているのは、すばらしいことです。内容的には、もっと改良の余地がありそうだし、堀さんだけでなく、もっと奥のクラスをつくるべきだと思いますが、限られたコマの中で、こういった教養重視のコマを持っていることはおおいに評価すべきでしょう。

読者の皆さんも、自分の教養について改めて振り返り、学べてきたのか、より深く教養を身につけるための学びをどうやって確保するか、ぜひ考えていただきたいともいます。

僕が主催するwhat?セミナー2「メディアリテラシー講座」も基本的には教養を広げるのが目的ですから、ぜひ参加を検討いただきたいと思います。

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