(by paco)こんなニュースがありまして、
世界大学ランキング 東大22位 京大25位 英誌2009年10月9日2時3分
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http://www.asahi.com/national/update/1009/TKY200910080579.html
【ロンドン=橋本聡】英国の教育専門誌「タイムズ・ハイアー・エデュケーション」恒例の世界大学ランキングで、東大が22位、京大が25位と日本から11大学が200位までに入った。
首位は米ハーバード大、2位は英ケンブリッジ大、3位は米エール大。米国が200位までの4分の1を占めるが、今年の特色は「日本や香港、韓国などアジアの進出だ」と同誌。大学人や企業からの評価、論文の引用回数、学生1人あたりの職員数などをもとに評価したという。
日本の大学は東大、京大のほか、大阪大(43位)、東工大(55位)、名古屋大(92位)、東北大(97位)、慶応大(142位)、早大(148位)、九州大(155位)、北大(171位)、筑波大(174位)。
ランキングは04年から公表され、東大は昨年19位、京大は25位だった。
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これを読んで、それぞれいろいろな感想があると思うのだけれど、あなたはどんなことを考えたでしょうか?
僕が考えたことは、この「世界」ランキングを、どの「国」が決めているのだろうか?ということです。英国の教育専門誌による選定ということなので、いわゆるアングロサクソン的な価値観をもとに、ランキングのレギュレーション(ルールや基準)が決まっているということです。200位までのうち4分の1が米英の大学が占める、ということなので、まず考えられるのは、そもそもレギュレーションそのものが米英的で、米英の大学が理想のモデルとしてあってレギュレーションが決められていれば、上位を占めるのも米英の大学になるのは当然、といえます。
ここでももうひとつ問題にすべきことは、なぜ日本の新聞が、こういう米英的な価値観(によってねじ曲げられた?)のランキングに日本の大学が入ったことをわざわざ記事にしなければならないのか、という点です。別に記事にしてもいいのだけれど、だったら、中国やロシアやブラジルの教育機関が発表したランキング(そんなものがあればの話だけれど)も、記事にしないと不公平です。
別のイシューとしては、米英の基準で日本の大学が上位に食い込んだことを「よろこぶ」ような記事を書くと言うことを、今の僕たちはどう理解すればいいのか?というのもあります。「未だに米英的価値観を礼賛する日本人」ということを理解する人もいるだろうし、「今も米英が世界をリードしているのだから、当然だ」と理解することもできるし、「そもそも別にたいした記事じゃないじゃん」と思う人もいるかもしれません。
この記事を読んで、僕が考えたもうひとつのことは、レギュレーションを作ることに対する、イギリス人やアメリカ人の思いというか、考え方です。
彼らは競争が好きらしく、経済も国もすぐに競争の場にのせたがります。だから、すぐに市場をつくって自由競争をさせて、それによってよいものが選ばれるという方法をとる。そのために、レギュレーションをいうものを考え出すことが、彼らの思考習慣です。
というようなことを考えたのも、ちょっと前に、新しいエネルギーインフラとして注目されている「スマートグリッド」について情報収集をしていたことがきっかけでした。
オバマ政権になって米国ではスマートグリッドと呼ばれる新しいエネルギーインフラを生み出し、国土のインフラを刷新すべく取り組んでいるのですが、これまでの半年以上のあいだ何をやってきたかというと、スマートグリッドに関わるさまざまなレギュレーションを決めているというのです。
たとえば、パソコンにもたくさんのレギュレーションがあり、USBやLANはその代表格です。USBはUniversal Sirial Busの略で、パソコンがやりとりできる信号を、ユニバーサルに、つまりどんなものとの間でもやりとりできるようにした規格(レギュレーション)です。この規格の前には、RS-232Cというシリアル接続のレギュレーションがあったのですが、想定している接続機器がプリンターなどに限定され、しかもホットスタート(プラグを差せば認識する)や、ドライバーの自動インストールにも対応していなかったので、非常に使いづらいものでした。これを解消すべく、USBの規格ではいろいろなものが簡単につながるようなルールが作られ、どんな機器のベンダーもその規格を自由に使えるようにしたわけです。それによって、今ではUSBは小型扇風機や安価まで接続されるようになり、パソコンとの接続というより、新規格のコンセントのようにも使われるようになりました。
スマートグリッドでも、想定される要素をすべて洗い出し、どのようなコンセプトで接続できるようにするか、接続するためのコネクタの規格からそこを流れる電力をカウントするメーターの規格、許容誤差範囲まですべて規格化することを先にやっています。その上で、規格に合わせた機器をメーカーがつくり、スマートグリッドという新しいエネルギーインフラを作ろうというわけです。レギュレーションが決まっているので、メーカーは安心して開発できるし、競争に乗れる。レギュレーションがないところに開発しても、いつそれが無駄になるかわからないから、乗らない。そういうことかもしれません。
※こういうメカニズムで思い出すのは、VHS vs ベータ、ブルーレイ vs HD DVDの対立です。自由競争の結果、一方が勝者になり、敗者は大きなダメージを受けたわけですが、先にレギュレーションを決めていなかったという点で、なんだか日本的だなあと感じるのですが、本当はどれとどれをアナロジーに見立てるべきかは、ちょっとうまくつかめません。
適切なレギュレーションを決めて、それを開放すれば、関連ビジネスが自由競争によって発展する。そういう思想が、米英的な考え方の根底にあるので、何をやるにもレギュレーションを決めたがる。そういう現れのひとつが、大学のランキングなのではないかと思います。
日本人はこういう考え方がまったく苦手で、決めごとは常に限定された人が集まって、ひそかに行われます。スマートグリッドも「日本版」が経産省と電力会社、電機メーカーを中心に議論されているようなのですが、そもそもこのプレイヤーの顔ぶれ自体が「談合」的で、またまた電力インフラを既存の既得権益企業グループ(電力ムラ)が温存しようと考えているのでしょう。
米国では、反トラスト法が強い権限を持っているように、そもそも特定のプレイヤーが圧倒的優位に発つこと自体を嫌うマインドが社会にインストールされています。(そのわりにマイクロソフトやディズニーなど一部企業を異常に優遇しているのはダブルスタンダードなんですが、この状況自体が米英型の権力構造を表しています)。レギュレーションを先に決めるという発想には、特定のプレイヤーが談合的に決めることで、そのプレイヤーが既得権を確保して優位に立つことを拒否する思想です。
モータスポーツの頂点、F-1でもしょっちゅうレギュレーション変更が行われます。一時ホンダが圧倒的に強かったときにもレギュレーション変更が行われて、「日本いじめ」と言われたりしたのですが、「圧倒的に強者」をつくらないのもレギュレーションの意味合いです。
競争は強者を育てるために競争を行わせ、競争のためにレギュレーションを決めるので、両者は矛盾しているのですが、その矛盾の中に社会の活力があるというのが彼らの思想なのでしょう。
「日本型」スマートグリッドの発想は、対極にあります。既得権益者が圧倒定期に有利になるようにレギュレーションを決め、競争者が容易に入れないように参入障壁をつくる。障壁に外部から文句が付くと、言い訳程度に一部だけは開放するものの、本丸には絶対入らせないようにする。
たとえば現在の日本の電力メーターは、電力会社系列の「第三者機関」が認証したものしか使ってはいけないと決まっているのですが、認証取得に高額の費用が必要で、この金をプールして、よからぬこと、たとえば政治家を動かす、などしてます。メーターをつくる技術は今ではたいした技術ではないので、認証を受けなくても機械の精度にはまったく問題はないのですが、電力系統につなぐには、認証取得が条件になる。こうなると、たとえば太陽光発電や風力発電を利用したくても、高額なメーター費用(数年おきに更新が必要)がネックになって、利用の自由化が進まないという事態が生じます。レギュレーションを決めて公開し、既得権益を守るような認証制度を否定すれば、自由度はずっと上がります。
この構造が、日本の産業界に外資が参入できない障壁をつくり、国内産業が守られてきたというメリットはあり、もし完全にレギュレーション主義になれば、競争にさらされて国内産業はもっと衰退していたかもしれません。同様の構造は携帯電話でもあって、日本の携帯産業は「独自の発展を遂げた」と考える立場と、「ガラパゴスだ」と考える立場に二極化しています。「独自の発展」と見なすのは、国内市場だけでもけっこうな規模になるという日本の人口や産業規模に由来するし、「ガラパゴス」という見方は「それゆえに日本の携帯産業は世界市場に打って出られなり、NOKIAにも負けた」という話になります。国内のGDPがそこそこあるだけに、クローズドなガラパゴスをやっても、それなりの国際競争力は付くけれど、本当の世界企業は育たない。それが日本の経済界が負っている宿命です。
今後、国内の状況は、少子高齢化が進み、一方BRICなど新興市場が国内市場を圧倒していきます。こういう構造に早くから気づいてきたのが米英流で、この構造を拒否しつつも、その恩恵を世界マーケットの中でおこぼれちょうだい的に受けてきたのが日本の産業です。これからの時代を見据えたときに、レギュレーションを先に決めて競争を促すのか、村社会をつくって既得権を確保し、参入障壁をつくるのか、どちらをめざすのかは、大きな選択になるでしょう。日本の民主党政権は、基本的に前者(米英型)の発想ではありますが、まだ力不足で、それを現実的に仕切るところまで入っていません。
今後、レギュレーションをめぐる態度が、どこに向かうのか、未来を見るときに注目していきたいポイントのひとつです。
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