(by paco)総選挙が終わって、政治家の能力について、多少情報が入ってきました。
政治家とは、○山△男という個人の能力を国政や地方行政に活かすものというのが今までの理解だと思います。しかし、米国大統領選挙を見ていると、政治家とは、個人ではなく、個人を中心とした「チーム」に移行しつつあることがわかります。
政治家が、個人からチーム化する、というのはどういうことなのか、なぜそれがトレンドになるのかということについて、考えてみます。
最初に現状のよくない例から。この例は、今回当選したある政治家Aさんの話ですが、あえて名前は伏せます。
Aさんは今回民主党から立候補して、初当選しました。政治経験はありません。これまでの経歴は、まず営業社員からスタートし、トップセールスになって、注目を集めました。その後、この会社の社長に就任して、ブランド価値の向上に貢献。この実績を買われて、ある企業のトップに引き抜かれて、悪化した経営の再建にあたりました。この再建は、黒字転換には成功したものの、新たな成長軌道に乗せるところまでは行かないうちに、ひとまず辞職し、別の会社のトップに就任。この会社は、経営不振とは言えないものの、好調ともいえない「そこそこ」の企業で、新しい成功モデルを構築することが期待されたものの、道半ばで政治家にスカウトされ、急遽立候補。民主党支持の波に乗って、当選しました
こうして政治家デビューしたのですが、Aさんにはまだ政治家になる準備も、政治に対する明確な考えもなく、「これまで変化を起こしてきた」という<実績>を変われただけですから、政治家になったものの、何を話したらいいいまひとつかわからない状態です。もともとビジネス畑のときも、本当に創造的な仕事ができたとはいえないキャリアなのです(経営の立て直しだけなら、創造的なことをしなくても、コスト削減などで実績を出すことができます)。インタビューを受けても、秘書や政党がつくった原稿を棒読みするのに近く、政党があてがった側近からも「何をしたいのかよくわからない」とそっぽを向かれてしまいました。そこにしたたかなB秘書官が登場して、Aさん支持を表明。Aさんをもり立てようとしているのですが、実態は、Aさんを傀儡化して、Bさんが思うようにAさんを動かそうという意図が見え見えになってきました。Bさんは政治家ではないのに、Aさんを動かすことで自分の政治的意図を実現することができることを狙っています。つまりは、実権を握って、裏で権力を動かそうというわけです。もちろん、まだ動き始めたばかりなので、これからAさんが自分のスペシャリティを発揮できる可能性はあります。しかし、政治に限らず、人の上に立つためには、最初の登場感はとても重要です。すでに「棒読み」や「Bさんの存在」で、「Aさんは自分ではたいした考えがないのだ」と感じる人が多くなってしまいました。周囲になめられてしまえば、それを払拭するのはかなり難しくなると思われ、Aさんの将来が危ぶまれています。
Aさんの状況は極端に情けない状態であり、ここまでの人は少ないとはいえ、こういった傾向がある政治家は少なくありません。自分の政治的ポリシーを語ることができないままに政治家になってしまうことは、今の日本の政治風土では、決して珍しいことではないのです(十分できてしまう)。
その背景にあるのが、政党選挙です。選挙は選挙区の中での票取り合戦ですから、どの政党も勝つ可能性がありそうなら候補者を立てます。しかしふさわしい人材がいなければ、Aさんのようにビジネス畑であったり、官僚畑であったりするような、別の分野の人材をスカウトして立候補させます。異分野であっても、政治家にふさわしい一家言あればまだいいのですが、それがまったくなくても、立候補はできるし、政党が立てた候補なので、選挙に勝つための準備は政党から送り込まれた秘書官が準備できます。異分野で成功している人なら、人前で話したり、自信を持ってやりとりしているように見えることについては、うまくやれる人が多いので、政党からの秘書官が用意した演説原稿をうまく自分のことのように話したり、個人同士のやりとりのときは、相手を立てるふりをして自分の考えを話すことを避けてきれいにやり過ごすことぐらいはできるのです。
このような状況でも、選挙戦を通じて政治家として思考が脱皮できる人もいます。しかし、それができずに、自分の考えが持てないままに選挙に勝ってしまうこともあるのです。しかも、小選挙区制度では、候補者はゼロかイチかの当落になるので、ドラスティックな変化が起きやすく、それだけにその時の時流に乗って当選する候補が出てくるのは、制度設計された原理的な結果です。そこに、「とにかく全選挙区に候補を立てろ」「政治家としての資質より、人前でものを言える人、新鮮さがある人を選べ」という党本部の考えが加わると、Aさんのような状況があちこちで生まれることになります。
Aさんの例は極端ですが、そこまででなくても、立候補者がいつでも、いろいろな政治的な課題に自分なりの答えを用意できるとは限りません。むしろごく限定的な領域にしか、考えが持てないことが多いのが普通です。そんな中で総理大臣になれば、自分が語れることはわずかで、残りは官僚や党の政策担当者の作文を棒読みするだけ、となっても不思議ではありません。あの小泉純一郎でも、自分の言葉で話せるのは郵政民営化についてだけで、それ以外は、官僚の書いた作文の棒読みだったと言います。テレビに映るのは商店である郵政民営化だけなので、小泉首相はこれまでの総理大臣と違うと見られていましたが、それは映像によって切り取られた「部分」に過ぎなかったのです。
では、米国の大統領選挙はどうでしょうか。
まず、選挙戦が少なくとも2年にもなるほど長く、その間に十分な準備ができます。日本の総選挙は、任期満了は少なく、総理大臣が解散に打って出ることが多いので、急に立候補が決まることも多いので準備不足が否めません。つまり、政治家に名る前に準備する米国と、政治家になってからキャリアを積む日本の、人材の水準の違いがあると言えます(だからこそ、米国は無名の候補者がホワイトハウスに入ることができ、日本では5期も6期も当選回数がないと総理大臣になれないのです)。
米国の大統領選挙に立候補しようと考えると、この候補を大統領にしようと考えるさまざまなグループが、候補の政治的な見解の理論武装を補う活動を始めます。外交、税制、福祉、人権など、さまざまな分野の専門家が、シンクタンクなどから集まってきてプロジェクトチームを作り、どのような戦略のもとに政策を打ち出すべきか議論し、言語化して、候補者とディスカッションして、その候補がほかの候補とどこが違うのか、明確に言語化していきます。
個々の政策も重要ですが、それ以前に、そもそも政治家としての世界観や価値観、哲学的なポジションをどこに位置づけるかの議論も欠かせません。具体的な政策が大きな哲学に根ざしていなければ、打ち出した政策(打ち手)が場当たり的な人気とりのように見えてしまい、批判されたときに反論できません。
政治や社会についての思想には、これまでの長い人間の歴史の中で、さまざまな考え方がためされ、そのうちのいくつかは時代遅れだったり、良さそうに見えても役に立たなかったりというような知見が蓄積されています。現代にあっては、単純な共産主義や一党独裁による計画経済といった考え方(イデオロギー)は、うまくいかないということが実践的にも理論的にも説明が付いています。ということは、候補者個人がどれほど共産主義にノスタルジーがあろうと、それを単純に前面に打ち出しても支持を受ける可能性はなく、もちろん選挙戦で政敵に攻撃されれば、反論できません。個人の思想として一党独裁による共産主義がいいと思っても、そのままでは政治的ディスカッションに堪えられずに自滅してしまいます。
そこで、シンクタンクや大学から政治や経済の専門家が集まってきて、どのような思想であれば、今の政治家にふさわしいのか、ほかの候補者と正面切って議論でき、優位に立てるのかを後者と一緒に議論し、情報をインプットして、候補者の政治哲学や打ち出す政策を「生産」していくことになります。
本来は、この過程で候補者自身が気づいていなかった自分の考えを、他者とのやりとりで明確にし、自分のものにすることで、政治家として成長するのが理想ですが、ともすれば、「選挙に勝つためには、こういう考えを持たなければならない」「こういういいまわしで主張するべし」というスタッフの物言いを無自覚に受け入れていくことも多くなります。これが度を超すと、今度は候補者は補佐官チームが作ったメッセージをうまく市民に語りかける「役者」に近くなり、かつてのロナルド・レーガンがハリウッド俳優出身だったように、見栄えよく演説がうまければ、あとは補佐官チームさえいい人材が集まれば当選できるということになりかねません。
そのため、米国大統領候補が当選する過程では、こんなことが起きがちです。「保守系資本家群が自分たちの利益を守るために、資金を出して、保守系シンクタンクの○○研究所を設立して、研究させる。その研究成果である保守思想を実現するために、適切な大統領候補を、主に<目立つかどうか><いうことを聞くかどうか>で選び出し、シンクタンクのスタッフが補佐官チームを作って、徹底的に政治哲学、政策に落とし込んで、いっきに大統領にしてしまう。その結果、新大統領はスポンサーである保守系資本家群にメリットのある政策を次々を打ち出し、庶民には冷たい政治を行う」。ブッシュJr.政権はこういう構造で誕生し、政策を実行したのだと説明する分析者は多いのです。
日本の政治家Aさんのような、政治家にはなったけれど、何も中身がない人と、ブッシュやレーガンのようなあり方と、どちらがいいのかという問題は議論の余地があるかもしれませんが、やはり政治家は何をするべきか、したいのかを、時代状況にあった形で打ち出す力が必要です。そのためには、Aさん個人の力にだけ期待して、政治哲学や政策ができる人を政治家候補にするというよりは、ある程度資質のある人に対して補佐官チームがレクチャーとディスカッションを通じてAさんにInputし、語るべき言葉を提供することで、政治家に育て上げ(という言い方が恣意的なら、政治家にふさわしい水準にまで、レベルアップする手伝いをして)、選挙戦を通じてその内容を市民に問う、というのは、合理性のある考え方です。
今回の選挙で見えてきたことは、日本でも、政治家、特に新人政治家には、選挙前から補佐官チームがついて準備し、選挙戦に入るころには十分な知識と思想を持っている状態で望めば、当選の暁には様子見をしなくても、一気に実務を始めることができます。米国大統領選挙では、選挙中の補佐官がそのままホワイトハウスに入ることが多いのですが、同じように、当選したら、政策秘書や大臣につけば副大臣につくことで、当選してから勉強するといったことが起きないようにすることができます。当然、選挙戦でも十分な議論が期待できるので、選挙の論戦もおもしろくなるでしょう。
(日本の選挙の論戦がおもしろくないのは、こういう準備をしている候補者が、実は新人に限らず、非常に少ないからです。こういう事情は新人に限らず、ベテランでも変わりません。政治哲学や政策について、きちんと勉強しなくても政治家としてやれてしまう状況が、問題ということができるでしょう)
これからの政治は、政治哲学、ビジョンと、戦略としての政策、打ち手について、きちんとした基礎を持った人材が手動する必要があります。企業経営でも哲学が言われる時代ですから、当然と言えば当然なんですが。
というようなことをコミトンに書くのも、実は、こういう補佐官チームを用意した選挙活動について、これから関わりつつあるので、自分の考えを整理するためにも書いてみたのですが、現段階ではあまりはっきりしたことは書ける段階ではありません。とはいえ、また活動が進展したら、書いていきたいと思います。
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