(by paco)420Dライフ<時間を楽しむ>

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(by paco)久しぶりに、デュアルライフについて書きます。今年の夏も今週末でおしまいというタイミングでもあるので、僕が何を楽しんでいるか、書いていきます。

毎年、GWが終わって日差しが強くなってくるころになると、「pacoさんは、今年の夏はどうするんですか?」と聞かれたりするようになります。GWまえだと、「今年のゴールデンウィークはどうするんですか?」と聞かれるわけで、年中行事なのですが、どう答えるかというと「八ヶ岳の家で過ごします」と答えます。よく知っている人だと、「毎回同じだなあ」とちょっとがっかりさせてしまうこともあって、どこかに旅行に行くとか、そういう答えが期待されているんだろうなと感じます。

旅行に行くことは、確かに誰にでもわかりやすい「お楽しみ」の時間の使い方なのですが、六兼屋で過ごすことは、なんとなくいつも行っている日常空間のような感じもあります。「別荘で何をしているんですか?」と聞かれれば、「庭仕事や薪割りとか、森の雑草刈りとか」と、これまたいつものような答えになってしまいます。

実際、今年の8月もほとんど六兼屋で過ごしました。雑草刈りをしたり、ペンキを塗ったり、ちょっと工作物を作ったり、山暮らしらしいことをやっていました。言葉にすると、ルーティンワークなんですが、実際のところ、何がおもしろくて、こういう生活をしているのかなと考えてみました。

山のセカンドハウスで過ごす楽しさというのは、時間を楽しむことです。

今年はペンキ塗りをたくさんやりました。雨ざらし、日ざらしのデッキは、どんどん傷んでいきます。いちばんよくないのは冬の雪で、雪が降るとデッキの上に水分が長時間乗ったままになります。昼間天気がよくなると日差しで雪が融け、デッキの木材の表面にあるわずかな隙間に水が入ります。夜になって冷え込んでくると、隙間に入った水が凍るのですが、水は液体より固体のほうが体積が大きいので、凍ると隙間が押し広げられるのです。ぐぐっと割れ目が広げれたところで朝になり、また氷が融け、夜になると……と繰り返すと、どんどん木の割れ目が広がっていきます。塗装と木の隙間、木のひび割れにどんどん入って木を割っていくし、中に水が入っていくと腐らせることになります。

自然の時間では、デッキの木材はどんどん傷んでいくのが「正の方向」で、不可逆的な変化です。今回、家の増築を機に特に傷みにが激しい板を交換してもらったのですが、それ以外は、傷んでいるものの、まだ使えそうです。表面を守るために、ペンキを塗り直すことにしました。しばらくサボっていたので、2年ぶりぐらいでしょうか。

ペンキを塗ると傷んだところもカバーされ、新品とはいわないまでも、かなり新しい感じになります。ペンキを塗るというのは、時間の流れに逆らって、時計の針を戻す行為だということができます。傷んだところを見て時間の流れを感じ、ペンキを塗って時間の流れに逆らうのを実感する。今度はいつごろ塗ることになるかな、このままペンキを塗ったり補修したりして、このデッキはあと何年ぐらい使えるかな、と考えるのは、なかなか楽しい時間です。そして何より、塗り終わって仕上がったデッキを見る充実感と達成感。

もしデッキがまったく傷まずに、いつまでも新品の状態だったら、楽ちんではあるけれど、変化を見たり、変化に逆らって時間をもどす楽しみは味わえません。壊れていくものだからこそ、自分のやっていることが見えやすいのです。時間を見る楽しさは、旅行に行ったり、夏フェス、ライブに行っても味わえません。旅行やライブはその時を楽しむものですが、いなか暮らしは、時間の経過を楽しむものなのです。旅行の楽しみは継続しませんが、ペンキを塗る楽しみは、同時に次のペンキを塗る楽しみをつくることでもあるのです。

考えてみれば、旅行も、その時楽しみたいだけではなく、帰ってきて思い出や記憶をたどる楽しみがあり、こちらのほうが重視されたりするので、旅行と写真やビデオ撮影は切り離せないのでしょう。写真やビデオは、帰ってきてから何回も見て笑ったり思い出したりするツールで、こういう楽しみをしてているということは、つまり時間の経過を楽しむという、継続的な喜びです。

いなか暮らしの楽しさは、写真やビデオのような「リアルでないもの」に依存するのではなく、そのもズバリを見て時間の経過を楽しめるという点が重要なのかもしれません。実際には、僕は写真で記録もとっているので、写真をあとから見る楽しみと、同じものが変化して目の前にあるという楽しみの両方が味わえるという点で、二度おいしいのがいなか暮らしなのです。

とはいえ、何十万円もかけて作ってもらったデッキが、数年で壊れていくのを見ているのは、つらいと思う人もいると思います。僕もそう思います。でも変わらないからいいものと、変わっていくからおもしろいものがあり、自然の中で人間が活動するおもしろさは、時間と変化を楽しむものなのでしょう。

時間を楽しむことは、ほかにもたくさんあります。

果実を育てることもそうです。僕は畑や田んぼはやらないので、米・野菜はつくらないのですが、実のなるものはいくつか植えています。その中でもいちばん「成功」しているのがブラックベリーで、入口の垣根に2株植えたものが、今ではすっかり広がって左右20メートル近い垣根になりました。

作業は初春から始まります。秋に葉が落ち、枯れている枝から、新芽が出始めるのですが、このとき、去年実を付けても浮かれてしまった枝と、去年伸びて今年実を付ける枝が混じっています。葉が出始めると区別がつくようになるので(それまではどっちも枯れた状態で、見た目ではわかりません。秋から春までは、枯らした状態で置くしかありません)、古い枝を払い、新しい枝を垣根にからめます。
ブラックベリーの垣根、過去現在
ブラックベリーをジャムにする
ブラックベリーを摘む


5月ぐらいになるとどんどん葉が広がり、スカスカだった垣根があっという間に向こう側が見えなくなります。初夏に花が咲き、8月には実が収穫できるようになる。今年は大豊作で、2週間ぐらいにわたって収穫して、12kg以上収穫し、200g入りのジャムビンで20個以上になりました。

こういう時間の変化は、毎日見ていてもあまり変らなくても、1か月単位で見ると劇的です。

旅行に行って、ふだん目にしないものを見るのも楽しいものですが、それは、その地に流れる時間のある瞬間を切り取っていることです。今いる自分の日常と、別の場所にある日常とのギャップを楽しみに行くわけです。カントリーライフのおもしろさは、現在時刻の別の場所の落差を楽しむのではなく、同じ場所の、時系列での落差を楽しむことであり、記憶力と密接に関係があります。

春はあんなだったのに、今はこんなだ、と理解できることから来るおもしろさです。

こう考えてくると、僕が人に話す答えの「違和感」の元がわかってきます。休みのたびに「何をするんですか?」と聞かれて、「セカンドハウスにいます、庭仕事です」というだけでは、落差が感じられずに、おもしろさが伝わりません。

時間による落差を楽しむという感じを伝えるには、「ブラックベリーが、春とどんなに違うことになっているか、そのギャップを楽しみに行く」というようなことをいう必要があります。こういう説明はなかなかまどろっこしいし、人にはあまりピンと来ないのかもしれませんが、飽きずに六兼屋に行くことの大きな理由なのです。

以前はこういう感じが今ひとつわからなかったので、植物に追われているような気持ちが強かった。春にブラックベリーの新芽が出始めると、「古い枯れ枝をとってくれ」とせがまれているような気がしたし、実が色付き始めると、「とってくれ」といわれているような気がして、帰って憂鬱になりました。自分で育てているのに、育てた植物にせかされ、そのために東京から八ヶ岳に行っているような気持ちにもなります。

一方、時間を楽しむと考えると、枝の整理をすることが、冬から春への時間の変化を感じることそのものだし、実を摘むことは、夏から秋への時間の変化の大きさに驚くことそのものです。前はあんなだったのに、今はこんなだ、という驚きを楽しむという行為は、観光で見知らぬ場所に行って驚くのと同じ行為なのです。

僕は写真も好きなのですが、六兼屋で写真を撮るのも、時間の流れを実感するためと言えます。何か作業をするときには、作業前と作業をとっておく。そうすることで、旧時間と新時間の変化がはっきりわかるし、その作業が数か月後に何をもたらしているか、ギャップが大きいほど、楽しめる。

ギャップといえば、味噌をつくるのも同じです。冬の終わり、2月から3月にかけて、数時間かけて味噌を仕込むのですが、瓶に入れておくだけで、ベージュの大豆色だった味噌が茶色の味噌に仕上がっていく。ダイズの豆のにおいだったのが、味噌の香ばしいにおいに変わっている。さらに、年末ごろになれば、それがおいしい味噌として下を楽しませてくれるし、自分たちの健康つくってくれる。これも時間変化がもたらす驚きです。

ジャムづくりや味噌造りや庭仕事そのものがおもしろいというより、それを軸にした時間の変化に驚き、だからこそ、実際に「変化を感じられる時間」としての作業は自分でやらないと、おもしろさがわからないのです。

いなか暮らしの達人とは、時間の変化を理解できる人であり、すこし前、だいぶ前の状態を記憶して、今と照らして落差を感じられる人であり、そういう時間の楽しみこそ、おとなの楽しみなのです。子供は、時間の積み重ねの数が足りないので、記憶量が不足して、変化を実感できないのですね。だからこそ、旅に出るべし、というのは、特に若い世代、大学生ぐらいの時期がいちばんいい、というのも納得できます。

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昨日は、「ヤマガラの森」のイベント「処暑の会」をやったのですが、「ヤマガラの森」の活動は3年目に入って、新規の方よりリピーターが増えてきました。これはいちばん狙っていたことで、繰り返し山を見に来ることによって、変化を実感し、楽しめることが大切だと思っているからです。自然や森を大切にするという気持ちになるためには、旅行のように、現在時点での、都会生活と森とのギャップに驚いているうちは不足で、森の、過去から現在、未来へのギャップを楽しめる必要があります。そのためには繰り返し森を訪れることが条件になるのですが、寄付をした気が森にあるということが、森に繰り返しやってくるための動機になるなら、それこそが「ヤマガラの森」の活動の最大のねらいなのです。

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